2007年8月23日 (木)

交戦法規の適用に関する件(1)

8月9日のエントリーにて「交戦法規ノ適用ニ関スル件」(陸支密第一九八号)について解読を試みようとしたものの、資料全文が入手できないので中断してあきらめておりました。
しかしコメントを寄せてくださった「J.seagull 」さんから全文を読めるサイトを教えていただました!
http://www.jacar.go.jp/

偕行社の本を入手するまでは無理だとあきらめていたのですが、このようなサイトがあるとは知りませんでした。J.seagull さんに誠に感謝です。

早速読んでみた所、資料をスキャニングして画像化して公開されてありまして、見まごう事ない本物です!
01
これを更にOCRで文書化してみたいと思ったのですが我が家のスキャナの性能からそれは無理だろうと判断しまして、手作業でテキスト化することにしました。
そう長い文書ではないですので読んでくだすってる方、どうかご辛抱を。本業の合間を縫ってですので遅々としてますがどうかそれもご辛抱を。

テキスト化するにあたって、原文中のカタカナは総て平仮名に直しました。
70年前の文章ですので「ならず」が「ならす」になっているなど、カナの使い方が現代とは明らかに違うものは修正しています。
判読ができない部分は「●」で表示します。

交戦法規の適用に関する件

一.眼下の情勢に於て日支両国は未だ国際法上の戦争状態に入りあらざるを以て「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を悉く適用して行動することは適当ならず

二.但し左の件を実施するは眼下の状況に於て当然の措置として差支なし

 1、自衛上必要の限度に於て敵性を有する支那側動産不動産を押収接収破壊し或は●●●分(例えば危険性あるもの、長期の保存に耐えざるもの押収後之が保管に多大の経費、労力を要するもの等を換●又は棄却する等)すること
 『但し土地建物等の不動産及び私有財産【市、●、●、村に属する財産を含む】は之を軍に於て●収することは適当ならす』
 2.自衛の為又は地方良民等の●●の●●●己むを得さる場合に於て前項の物件等を利用すること

三.右項の外日支兵干戈の●に●見ゆるの●●せる事態に直面し全面戦争への移行●●必ずしも明確に峻別し難き現状に於て自衛上前記条約の精神に準拠し●●に●し機を失せず所要の措置を取るに●●なきを●す

四.軍の本件に関する行動の準拠、前述の如しと雖、帝国が常に人類の平和を愛好し戦闘に伴う惨害を極力減殺せんことを懸念しあるものなるが故に、此等の目的に副う如く、前述「陸戦の法規に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」中、害敵手段の選用に関し之が規定を努めて尊重すべく又帝国現下の国策は努めて日支戦争に陥るを避けんとするに在るを以て此種戦争を相手側に先んじて決心せりと見らるる如き言動(例えば戦利品、俘虜等の名称の使用、或は軍自ら交戦法規を其儘適用せりと公称し、其の他必要已むを得ざるに非ざるに、諸外国の神経を刺戟せるが如き行動)は努めて之を避け又現地に於ける外国人の生命、財産の保護、駐屯外国軍●に●する●●等に関しては努めて遵法的に●●し以て第三国との紛争を避けるのみならず皇軍に●して●●を●かしむる如くするものととす

この先も解読していきますが、文字が小さいのと旧字を読み慣れていないのとでやたらに●が多くなってしまっています。

一については既に紹介しましたが、宣戦布告ができない状況の説明と、それなるが故の陸戦法規を適用できないと言う判断ですね。
二については動産不動産を無差別に破壊したり押収したりするなという文章ですね。敵性を持っているものに対しては可だということです。
三については●が多いので不確かな所もありますが「自衛上前記条約の精神に準拠し」という所は重要かと思います。
四についてはとにかく全面戦争に発展するのを怖れて、「外国から正規戦だと勘違いされてはいけないのでそういう行動を取るな」と言う事ではないでしょうか?
ここの部分だけを取って「俘虜等の名称の使用」をしないからといって全て殺す方針だったのだな、という解釈は強引かと思います。中島中将でさえ、成り行きに負けた側面があったとは言え「捕虜は流れ作業で殺していけ」のような指示を出していたとも思えません。
しかしこのような難しい対応を求められた上海派遣軍は大変だなと思いました。
この辺りは政治の責任ですね。

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2007年8月16日 (木)

幕府山事件(2)

Bakuhuyama

幕府山事件、今回は中間派の秦郁彦教授の見解です。長くなりますがご辛抱ください。

一回の集団殺害では最大規模とされながら今なお謎をはらむ幕府山惨劇の主役は、第十三師団の山田支隊(歩103旅団長山田栴二少将指揮、歩65連隊基幹)である。

(略)幕府山を占領したとき、周辺でぞろぞろと大量の捕虜が投降してきた。鈴木明氏が発掘した山田旅団長メモは「投降兵莫大にて始末に困る」とあり、正確な人数は記していないが、十二月十七日の『朝日新聞』は、「持余す捕虜大量、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦難の種」の見出しで次のように伝えている。

「(南京にて横田特派員十六日)両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大量捕虜とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬほどの少数のため手が廻りきれぬ始末、先ず銃剣を棄てさせ付近の兵営に押込んだ。一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ・・・・・・一番弱ったのは食事で、部隊さへ現地で求めてゐるところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一屋だけは到底食はせることが出来なかった」

前回の記事の栗原さんの回想で「中国兵の「廠舎」だった土壁・草屋根の大型バラックのような建物の列」と表現されていたのが「二十二棟の大兵舎」のようですね。ついこの間まで使っていた兵舎だったのでしょうか?なぜ茶碗もないのかちょっと不思議に思いました。

七名という端数までついているので、正確にカウントしたかに見えるが、異論もあり、実数は八千くらいとの説もある。

この大量の捕虜はどこからやってきたのか。『朝日新聞』は教導隊所属と伝えているが、紫禁山で破れた総隊の全員が逃げ込んでも、これほどの数にはならないはずで、「参謀らしき者もいたが、コメをやると奪いあい、青い草をむしって食べたり、掠奪したらしい新品の靴をかかえたり、同じ敗残兵でも上等には見えなかった。多分、南京から脱出した警察隊」(歩65、平林貞治少尉の回想)だったのかも知れない。

女も少しいたというから、難民もまじっていた可能性もあり、首実検して非戦闘員と判定した者は釈放したとも、相当数(一説には四千人(が火事にまぎれて逃亡したともいう。一万四千余と八千の差はこうした釈放者や逃亡者なのかも知れない。

ともあれ大量の捕虜をかかえこんだ山田支隊長と両角連隊長は困惑し、まず江北を前進中の師団司令部へ、ついで軍司令部へどうすべきか問い合わせた。山田メモは次のように記す。

「十五日 捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ、『始末せよ』との命を受く。各隊食料なく、困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食料ありときき運ぶ。捕虜に食わせることは大変なり。

十六日 相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合せをなさしむ。捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり」

この山田メモは「南京戦史資料集Ⅱ」に収録されている陣中日記のようです。

陣中日記を正として読むと、やはり確固たる方針がなかったことがわかりますね。

山田支隊とは二千か三千程度の兵数だったようですから、それよりはるかに多い投降兵に驚いて困惑している姿が浮かびます。

鈴木明氏が山田元少将から聞いたところによると、この間に軍司令部から憲兵将校が見まわりに来たので、案内して描虜の大群を見せ、「君これが殺せるか」というと、クリスチャンのその将校はうなずいて帰って行ったが、別に軍司令部の参謀から支隊長へ強く、「始末せよ」と電話で連絡してきた。この参謀は上海派遣軍兼中支部方面軍情報参謀の長勇中佐だったと鈴木氏は推測しているが、それを裏書きする材料は二つある。

一つは松井大将の専属副官だった角良春少佐で、『偕行』シリーズ(14)(昭和六十年三月号)で大要次のように証言している。

「十二月十八日朝、第六師団から軍の情報課に電話があった。

  『下関に支部人約十二、三万人居るがどうしますか』

情報課長、長中佐は極めて簡単に『ヤッチマエ』と命令したが、私は事の重大性を思い松井司令官に報告した。松井は直ちに長中佐を呼んで、強く『解放』を命ぜられたので、長中佐は『解りました』と返事をした。

 ところが約一時間ぐらい経って再び問い合せがあり、長は再び『ヤッチマエ』と命じた」

もう一つは、昭和十三年春、長が田中隆吉に語った次のような「告白」である。

 「鎮江付近に進出すると……退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた……(自分は)何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の描虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話に依り伝達した。

 命令の原文は直ちに焼却した。この命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しと言う訳には行かなかった」(田中隆吉『裁かれる歴史』)

 この二つの証言は、前者が九十一歳の老人の記憶、後者は十年後の伝聞という性格から、事実

誤認と思われる要素をふくむが、総合すると山田支隊の描虜問題を指しているように思える。

幕僚が上官の意図に反する指示(指導)をすることは、軍隊の性格上本来はありえないはずだが、下克上、募僚専制の風潮が横溢していたこの時期には必ずしも珍しくなかった。

長はそのなかでも別格の暴れ者で、南京戦線でも粗暴、奇矯な振舞いが目立った。頭山満(右翼の巨頭)から贈られた陣羽織を着て馬にまたがり、従兵に旗差物を持たせて澗歩する姿を目撃した人もいるくらいで、命令違反や捕虜虐殺も、彼を知る人の間では「長ならやりかねない」とうなずく人が多い。

そこへ山田支隊は十九日に浦口へ移動せよ、との命令が届く。支隊長もかばいきれず、捕虜たちの運命は決った。

 山田メモには、

「十八日 捕虜の件で精一杯。江岸に視察す

 十九日 捕虜の件で出発は延期、午前総出で始末せしむ。軍から補給あり、日本米を食す

 二十日 下関より浦口に向う。途中死体累々たり。十時浦口に至り国東支隊長と会見」 

と簡潔にしか記されていないので、捕虜の「始末」が実行された日時はほっきりしないが、十七日夕方に補充兵として着隊した大寺隆上等兵(7中隊)の次のような日記から判断すると、十七日夕方から夜にかけてだったと思われる。

「十八日 今朝は昨日に変る寒さ、夙は吹く、小雪は降る。

 整列は○八三〇。後藤大隊長、矢本中隊長の訓示の後、各分隊に分かれる。午后は皆捕虜兵の片付に行った、オレは指揮班のため行かず。

昨夜までに殺した描虜は約二万、揚子江岸二か所に山のように重なっているそうだ。七時だがまだ片付隊は帰って来ない。

十九日 午前七時半、整列にて清掃作業に行く。揚子江岸の現場に行き、折重なる幾召の死骸に驚く。今日の使役兵師団全部。石油をかけて焼いたため悪臭甚だし。午后二時までかかり作業を終わる」

描虜の大群は、田山大隊の兵士たち(百数十人)に護送され、上元門付近の仮収容所から四列縦隊で長蛇の列を作って江岸まで五キロ以上の道のりを歩いた。数時間かかって江岸に到着したときには日も暮れかかっていた。柳の木が点々としている川原で、少し沖に大きな中州が見え、小型の舟も二隻ほどいた、と栗原利一伍長は回想する。捕虜たちは対岸またほ中洲に舟で運び、釈放すると聞かされて、おとなしく行軍してきたのだが、ここに至って異様な空気に感づいたと思われる。

一人の掃虜が監視役の少尉の軍刀を奪ったのがきっかけになってか、連隊史が記すように渡江中に対岸の中国軍に撃たれたせいか、大混乱となり、機関銃と小銃が火を吐いた。集団脱走とも暴動ともつかぬ殺戮は一時間以上もつづき、夜が明けたあとには二千~三千の描虜の死体がころがり、「処刑」した方の日本軍も将校一、兵八人が混乱に巻きこまれて死んだ。

現場は下関の下流で八卦洲という大きな中洲と向きあい、中国側が草鞋峡とか燕子磯と呼ぶ江岸のあたりで、中国側が五万人前後の「大虐殺」があった地点として従来から指摘しているところである。つまり概略の地点だけは日中双方の主事が符合するが、その他の細部は食いちがいが多く、事件の本質について関係者の間でも解釈が分かれている。これらの疑問点を簡条的に整理してみよう。

1 現場は一か所か二か所か〕

中国側の証言を集めた『証言・南京大虐殺』には、「十二月十八日、草鞋峡における五七四一                                                                                             八人の殺害」と「日付不明、燕子磯(中洲をふくむ)における三万または五万人の殺害」(いずれも対象に難民をふくむ)が併記されている。二件とも東京裁判では訴追されず、生存者が少ないせいか、輪郭がはっきりしない。おそらく同一の事件つまり山田支隊の事件を指すと思われるが、江岸内陸部の凹地の二か所だったという不確実な情報もある。断言できないが、日本側の関係者は一か所だったはずと主張している。

2 殺害した人数〕

日本側関係者の間では、慧のほぼ全員という点では一致するが、江岸への連行=殺害数は五千~六千(栗原)二千(星俊蔵軍曹、千~三千人(平林少尉)とまちまちで、一万数千や八千人との差は不明のままである。連行中に逃亡したり、泳いで中洲に逃れた者もいるというが、確実ではない。

3 計画的殺害かハブニングか〕

 この「暴動」が「釈放」の「親心」を誤解した捕虜の疑心から起きたのか、実は「処刑」を計画した日本側のトリックを感づかれて起きたものか、は微妙なところである。

上海派遣軍参謀副長上村利道大佐は、ニ十一日の日誌に、「N大佐(注:西原一策大佐か)より聞くところによれば、山田支隊措虜の始末を誤り大集団反抗、敵味方共に機銃にて撃ち払い散逸せしものかなりある。下手なことをやったもの」と書いている。

どちらともとれる微妙な言いまわしである。山田支隊関係者の多くはハプニング説をとるが、もし釈放するのならなぜ昼間につれ出さなかったのか、後手にしばった輪虜が反乱を起こせるのか、について納得の行く説明はまだない。     7

両角連隊長の子息に当る両角良彦氏が書いた『東方の夢』に、ナポレオンがシリア遠征時に、師団長の反対を押し切って、三千人の描虜を虐殺した話が出てくる。空腹の捕虜たちはトリックで海岸へつれ出され、海中へ逃げ出したのを銃撃で皆殺しにしたというから、状況としては瓜二つである。

 ともあれ、この措虜の〝反乱〟が、南京アトローシティで最大級の惨事であったことに変りはない。

「南京事件『虐殺』の構造」P140~148

人数、要因などに複数の論点があり未だ論争の的になっている幕府山事件ですが、捕虜を計画的に収容しようとしたと思いたい私にとっては救いになるような箇所がありません。

次回は東中野教授の解釈をご紹介します。

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2007年8月15日 (水)

幕府山事件(1)

Honda2

ここの所言い訳できない日本軍の捕虜殺害資料ばかり目に付くのでちょっと気分が暗くなっております。
正直これ以上調べたくもないのですが、幕府山事件はどうしても押さえておきたいので調べた結果だけを列挙します。

幕府山事件は前回のエントリーでも述べましたが日本軍の捕虜殺害事件を語る時に必ず登場する有名な事件です。
しかし今なお謎な部分もあり、多くの歴史家の研究対象であり続けています。

まず何かと取りざたされる本多勝一さんの著書「南京への道」より田中三郎さんの証言です。
この田中さん、仮名となっていますが本名は栗原さんと言われて、試行錯誤掲示板でよくお見かけする「核心」さんのお父さんです。

「南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側が否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う。中国側では「四〇万人が虐殺された」といっているらしいが、それは果たしてどこまで具体的な資料をもとにしたものなのか。あと二〇年もたてば、もう事実にかかわった直接当事者は両国ともほとんどいなくなってしまうだろう。今のうちに、本当に体験した者が、両国ともたがいに正確な事実として言い残しておこうではないか。真の日中友好のためにはそのような作業が重要だと思う。」
「描虜が降参してきたからって、オイソレと許して釈放するような空気じゃ全然ない。あれほどにもやられた戦友の仇ですよ。この気持ちほ、あのとき戦った中国側の兵隊にだって分かってもらえると思います。仮に10万殺そうと20万殺そうと、あくまで戦闘の継続としての処理だった。あのときの気持ちに、〝虐殺〟というような考えはひとカケラもありません。みんな『国のため』と思ってのことです。」

以上は生の言葉として記載されています。
下の文は本多さんがまとめているようですね。

第10軍の杭州湾上陸は戦局を一変させた。いわゆる「日軍百万上陸」の報に猛スピードで逃げる蒋介石軍と猛追する日本軍。田中さんの両角部隊の場合、鎮江でやや苦労したあとは大した会戦もなしに長江ぞいに南京へ接近した。途中に造りかけのトーチカがたくさんあり、これが完成していたら大変だったな、と田中(栗原)さんは思った。南京の北で長江が二つに分流し、広い方が大きく湾曲してから十数キロ東でまた合流するあたりに烏龍山という砲台の陣地があるが、ここへ進撃したときはもう組織的抵抗はなかった。さらに分流ぞいに幕府山の手前まできたとき、一挙に膨大な中国兵が投降してきた。各中隊はこれを大わらわで武装解除すると、着のみ着のままのほかは毛布一枚だけ所持を許し、中国兵の「廠舎」だった土壁・草屋根の大型バラックのような建物の列に収容した。これが前記の新聞報道と写真の捕虜群である。その位置は幕府山の丘陵の南側、つまり丘陵をはさんで長江と反対側だったと田中さんは記憶し、当時のスケッチでもそのように描いている。
 収容されてかちの捕虜たちの生活は悲惨だった。一日に、中華料理などで使われる小さな〝支那茶碗″に飯一杯だけ。水さえ支給されないので、廠舎のまわりの排水溝の小便に口をつけて飲む捕虜の姿も見た。
 上からの「始末せよ」の命令のもと、この捕虜群を処理したのは入城式の17日であった。捕虜たちにはその日の朝「長江の長洲(川中島)へ収容所を移す」と説明した。大群の移動を警備すべく、約一個大隊の日本軍が配置についた。なにぶん大勢の移動なので小まわりがきかず、全員をうしろ手にしばって出発したときは午後になっていた。廠舎を出た四列縦隊の長蛇の列は、丘陵を西から迂回して長江側にまわり、4キロか5キロ、長くても6キロ以下の道のりを歩いた。あるいは銃殺の気配を察してか、あるいは渇きに耐えきれずか、行列から突然とびだしてクリーク(水路か沼)にとびこんだ者が、田中(栗原)さんの目にした範囲では二人いた。ただちに水面で射殺された。頭を割られて水面が血に染まるのを見
て、以後は逃亡をこころみる者はいなかった。
 この護送中のこと、田中さんは丘陵の中腹に不審な人影を見た。丘の頂上には日本軍がいたが、中腹に平服らしい人間がちらと認められたという。あるいは国際諜報機関の何かではないかと、なんとなく不安を感じたままになっていた。少なくとも目撃者はいたに違いないと田中さんは思っている。
 捕虜の大群は、こうして長江の川岸に集められた。ヤナギの木が点々としている川原である。分流の彼方に川中島が見え、小型の船も二隻ほど見えた。
 捕虜の列の先頭が着いてから三時間か四時間たつころ、掃虜たちも矛盾に気付いていた。川中島へこの大群を移送するといっても、それらしい船など見えないし、川岸にそのための準備らしい気配もないまま日が暮れようとしている。それどころか、捕虜が集められた長円形状のかたまりのまわりは、川岸を除いて半円形状に日本軍にかこまれ、たくさんの機関銃も銃口を向けている。このとき田中(栗原)さんがいた位置は、丘陵側の日本兵の列のうち最も東端に近いところだった。
 あたりが薄暗くなりかけたころ、田中さんのいた位置とは反対側で、捕虜に反抗されて少尉が一人殺されたらしい。「刀を奪われてやられた。気をつけよ」という警告が伝えられた。田中さんの推測では、うしろ手に縛られていたとはいえ、さらに数珠つなぎにされていたわけではないから、たとえば他の者が歯でほどくこともできる。危険を察知して破れかぶれになり、絶望的反抗をこころみた者がいたのであろうが、うしろ手にしばられた他の大群もそれに加われるというような状況ではなかった。
 一斉射撃の命令が出たのはそれからまもないときだった。
 半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあびせる。一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄・阿鼻地獄であった。田中さん自身は小銃を撃ちつづけたが、いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めたためにできた巨大な〝人柱〟である。なぜあんな人柱ができたのか正確な理由はわからないが、おそらく水平撃ちの銃弾が三方から乱射されるのを、地下
にはむろんかくれることができず、次々と倒れる人体を足場に、うしろ手にしばられていながらも必死で駆け上り、少しでも弾のこない高い所へと避けようとしたのではないか、と田中さんは想像する。そんな〝人柱″が、ドドーツと立っては崩れるのを三回くらいくりかえしたという。一斉射撃は一時間ほどつづいた。少なくとも立っている者は一人もいなくなった。

最後の「人柱」の話は読んでいてたまらなくなります。
これだけの事を経験されて「あのとき戦った中国側の兵隊にだって分かってもらえると思います」というのがピンと来ません。
南京戦を経験した者だけが言える言葉かもしれませんね。

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2007年8月12日 (日)

捕虜の処遇 識者の見解

中島今朝吾中将の指揮する16師団が捕虜をどう扱ったかについて調べていたのですが、その課程で色々な識者の見解に触れることができました。
肯定派、中間派、否定派の順に列挙していきましょう。

○肯定派

・笠原十九司教授
ハーグ陸戦条約の第二十三条の戦闘中の禁止事項として、「敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること」が定められている。右の66連隊のように助命すると約束して投降を呼びかけて捕虜にし、収容して後に刺殺したのであるから、明らかな背信行為であり、重大な国際法違反である。しかし、戦闘詳報の記録には、犯罪行為をやったという意識はまったくない。
(「南京事件」P157)

・藤原彰教授
方面軍司令官松井石根対象は、捕虜の処置についての関心はあまりなかったと思われる。戦後のものと思われるインタビューの中で、南京での捕虜殺害について次のように述べている。
さういふよやうな勢で捕虜も相当できたけれども、捕虜に食はせる物もない。さういう状態で戦闘しつつ捕虜が出来るから捕虜を始末することが出来ない。それでちょん斬ってしまうといふことになった。それで大したことではないのだが、南京の東南方の鎮江との間のところで一万余の捕虜があったのだけれども、そんなのは無論追撃中だから戦闘中と見てもよろしい、又捕虜となっても逃亡する者もあるし、始末が付かぬ者だからシヤーシヤーと射ってしまったのだ。
その死骸が川に流れた。それから問題になったのだ。だからその問題は所謂半戦闘行動である。
捕虜の大量処刑を戦闘行動の一部だとしているのである。松井の捕虜処分の認識については、偕行社の『南京戦史資料集』の解題でも、「松井大将の捉えていた「南京事件」は、外国権益の侵害と一般市民に対する掠奪、暴行、強姦の軍紀風紀問題で、捕虜処分の問題は視野の外であったようだ」としているほどで、ほとんど関心外だったと思われる。捕虜を処分することを、国際法上の犯罪とは考えていなかったのである。
(「南京の日本軍」P35~36)

・洞富雄教授
秦氏(第65連隊の従軍作家であった秦賢助氏)の回想録で注目さるべき点がひとつある。それは、二万の捕虜群の処置について、軍司令部が参謀本部および陸軍省にたいして、再三にわたって請訓し、そのつど中央は適当に処理せよという、あいまいな命令を与えたという事実である。請訓の具体的内容は明らかでないが、秦氏の言うところが真実であるとすれば、この捕虜の虐殺にかんするかぎり、終局的にそれを命令した上海派遣軍司令部もしくは「中支那方面軍」司令部はもとよりのこと、それを阻止しようとしなかった中央もまた、重大な責任を負わなければならないことが知られるわけである。
(「南京事件」P90)

○中間派

・秦郁彦教授
問題は捕虜の「処理」だが、中島日記(十三日)に、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシ」とあるように、捕虜を認めず殺害するのが、師団長の方針だったらしい。ただしこの方針は文書による命令や支持で伝達されたものではなく、口頭による指導として伝えられたようだ。
(「南京事件『虐殺』の構造」P117~118)

・北村稔教授
ここで、中国軍捕虜と日本軍の置かれていた状況を冷静に考えてみたい。まず第一に、食料を調達してきて二万人近い捕虜に食べさせるのは、捕虜を収容した日本軍の部隊ですら十分な食料を確保していなかった状況では不可能であった。それでは、一部の日本軍部隊が行ったように、中国軍捕虜を釈放すべきであったのか。軍閥の兵士を寄せ集めた部隊であれば、兵士は故郷に帰り帰農したかもしれない。しかし捕虜の中には中央軍の精鋭も含まれており、戦争が続いている状況下での捕虜の戦線復帰を促し、日本軍には自分の首を絞めるようなものである。要するに中国軍捕虜も日本軍も、期せずして絶体絶命の状況に置かれてしまったのである。
「皆殺せ」の命令を出した人間の残忍性を認めるのは簡単である。しかし当時の日本軍には一体どのような方法があったのか。捕虜収容に見込みのたたない日本軍の抜け道は、捕虜を餓死させることであったかもしれない。しかしそのためには時間と監視要員が必要で、捕虜の暴動に発展する危険もあった。かくして、せっぱつまったうえでの「皆殺せ」であり、これは状況に対処出来なくなった日本軍の悲鳴ではないのか。
(「南京事件」の探求」P113~114)

○否定派

・東中野教授
もし即時銃殺が当初からの方針であったのであれば、中島師団長は、当初からの「投降兵即時銃殺」という方針に立って、その方針の貫徹に奮闘するのだが、千、五千、一万の群衆ともなると多すぎて、とても銃殺すらできない、と嘆いていたはずである。これを、先の日記に模して文章化すると次のようになる。
大体捕虜にはしない方針なれば片端から之を片付くる(即ち銃殺する)こととなしたるも千五千一万の群衆ともなると多すぎて銃殺することすら出来ず
つまり「捕虜ハセヌ方針」が捕虜処刑命令であったと仮定すると、「片端から銃殺しようとするのだが、多過ぎて、銃殺することすら出来ず」と書かれて当然であった。
ところが、そうは書かれなかった。「片端から銃殺しようとするのだが、武装を解除することすら出来ず」と書かれてあった。
捕虜処刑命令であったと仮定する時、文章に、不自然な捻れが生じてくるのである。この捻れこそ、この誤った仮定から生み出されていた。
捕虜即時処刑という命令など出ていなかったのではないか。そう仮定してみるのもよいであろう。そうすると、右の不可解な疑問は、総て、氷塊してゆくのである。
(「『南京虐殺』の徹底検証」P117~118)

・防衛庁防衛研究所戦史室
南京占領後の捕虜の処遇も十分とは言いがたい。
これは激戦直後の将兵の敵愾心、捕虜収容設備の不備などによるものであるが、捕虜殺害の数はさほど大でないようである。
第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。
これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦死した。なお第十六師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。
(戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)P437)

戦闘捕虜の殺害に関してはまず最初に触れた66連隊問題、そして山田支隊の幕府山事件、そしてこの中島中将の16師団問題と、この三つが語られる事が多いのですがどの研究者の解釈にも共通しているのが、日本軍に捕虜についてのしっかりした方針がなかった事です。
最高司令官の松井石根大将からして上のような認識なのですからその配下の将兵が一貫した方針がある方がおかしいですね。
これが松井大将個人の不勉強に帰するものなのか、当時の日本陸軍の固癖なのかは置いても、計画性のない殺害だから罪がないなどとはとても言えません。
明治の陸海軍の指導部と比べると、認識の甘さがそこかしこに見られます。なぜこんな粗漏な軍隊になってしまったのでしょうか。
ここで私個人の認識を持ち出すのも妙ですが、日露戦役の直前に産まれた私の祖母は
「日本は勝ってばかりで調子に乗っとったんじゃ」とよく言っておりました。
案外この辺が一番的確なのかなあ、とも思います。

該当部分を抽出していて気づいた事として、「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」に、十六師団の捕虜は陸軍刑務所跡に収容したという記述があったことです。
東中野教授も推定の形で似た内容を書いている所ですが、収容について補強する内容が欲しい所です。
しかし補強内容がこれから発掘されるのは正直難しいと感じています。

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2007年8月 9日 (木)

中島中将の日記「捕虜ハセヌ方針ナレバ」(3)

さて今日は、東中野教授が「『南京虐殺』の徹底検証」で紹介されている「交戦法規ノ適用ニ関スル件」(陸支密第一九八号)について掘り下げてみましょう。

書く前にこの通牒の全文を探してみたのですが見つかりません。

しかし肯定派、否定派双方ともに都合のよい部分を引用して拡大解釈している感を受けました。

部分的な紹介になるのをあらかじめおことわりしておきますが、肯定派は以下の部分を引用していることが多いですね。

一、現下の情勢に於て帝国は対支全面戦争を為しあらざるを以て、「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を悉く適用して行動することは、適当ならず。

四、(中略)帝国現下の国策は努めて日支全面戦に陥るを避けんとするに在るを以て、日支全面戦を相手側に先んじて決心せりと見らるるが如き言動(例えば戦利品、俘虜等の名称の使用、或は軍自ら交戦法規を其儘適用せりと公称し、其の他必要已むを得ざるに非ざるに、諸外国の神経を刺戟せるが如き行動)は努めて之を避け・・・

否定派の東中野教授が引用するのが上の部分に加えて

四、軍の本件に関する行動の準拠、前述の如しと雖、帝国が常に(略)戦闘に伴う惨害を極力減殺せんことを懸念しあるものなるが故に、此等の目的に副う如く、前述「陸戦の法規に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」中、害敵手段の選用に関し之が規定を努めて尊重すべく(略)

という部分です。これは四の(中略)に相当する部分です。

青部分だけ取り出して読むと日本軍は悪の軍隊に読めます。

赤部分だけ取り出して読むと日本軍は無用な殺戮を怖れる自制の効いた軍隊だと読めます。

資料を並べて書くだけではブログの意味がないのですが、全文入手できないことにはどれも恣意的な引用に見えてしまいます。

もちろん洞教授も藤原教授も東中野教授も、この通達の引用の後に自説を展開しているのですが、それも全文引用しないままでは疑いが残ってしまいますね。

こちらについては図書館にでも行って、何とか全文入手した後に解釈を試みたいと思います。

何とか偕行社の「南京戦史」を入手したいものですね。

さて陸支密第一九八号については解釈をあきらめました。

本来の「捕虜はせぬ方針ならば」の解釈に戻りたいと思います。

南京事件FAQのこのページでは

http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%a1%d6%ca%e1%ce%ba%a4%cf%a4%bb%a4%cc%ca%fd%bf%cb%a1%d7%a4%c8%a4%cf%bc%e1%ca%fc%a4%ce%ca%fd%bf%cb%a4%c7%a4%cf%a4%ca%a4%a4

・上海派遣軍の大西一参謀の証言への反論

中島日記を引用しての反論

佐々木元勝氏の証言を引用しての反論

児玉義雄氏の証言を引用しての反論

という形で反論しています。

処理という言葉が所々に出てまいりますし、「片づける」という単語の後に「餓死」という単語が並んでいたりする以上、片づけるという言葉の指す所が「釈放」だというのは苦しいと感じます。

日本軍に好意的な解釈をすれば、「戦争」ではなく「事変」という言葉にこだわった事情もあることですので、釈放にせよ殺害にせよ、明確な言葉を使いづらかったのではないかとも思えます。

しかし私の擁護したい気持ちも、中島日記の

天文台附近の戦闘に於て工兵学校教官工兵少佐を捕へ彼が地雷の位置を知り居たることを承知したれば彼を尋問して全般の地雷布設位置を知らんとせしが、歩兵は既に之を斬殺せり、兵隊君にはかなわぬかなわぬ

などという文言があるとぶちこわしです。

少なくとも十六師団については、日本軍は捕虜を不法に殺害したとの非難は免れないでしょう。

次回は十六師団から離れて、北村稔教授の捕虜に対する解釈を検討したいと思います。

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2007年8月 6日 (月)

中島中将の日記「捕虜ハセヌ方針ナレバ」(2)

さて2/25に(1)を書いてからはや半年。続きをやっていきます。

2/25の記事の終わりに、

次回以降は、肯定派の代表としてのK-K氏
http://members.fortunecity.com/kknanking/log/log02.html
(「柳」さんとのやり取り部分)

否定派の代表としてのグース氏
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8312/index.html
この二氏の見解を紹介していくことで妥当性を発見していきたいと思います。

と書いていたのですが、何事があったのかはわかりませんがK-K氏のサイトは削除されてますね。
キャッシュも削除されていますのでこちらの記事を紹介させてもらうのは残念ながらできないようです。

しかし試行錯誤掲示板の常連さん達を編集メンバーにして、「南京事件FAQ」というサイトがオープンしてます。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/FrontPage

こちらのページでは、ネット上で議論の対象になるほとんどの問題を網羅してますので、こちらとグース氏のサイトを比較していくことで記事にしていきたいと考えます。
要所で他の歴史家の著述も紹介していきますが、極力無機質に、都合のよい部分のトリミングなどしないよう心がけていきます。

さて南京事件FAQでは中島今朝吾日記をどう解釈しているでしょうか?
こちらに詳しい著述があります。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%a1%d6%ca%e1%ce%ba%a4%cf%a4%bb%a4%cc%ca%fd%bf%cb%a1%d7%a4%c8%a4%cf%bc%e1%ca%fc%a4%ce%ca%fd%bf%cb%a4%c7%a4%cf%a4%ca%a4%a4

論点は「捕虜はせぬ方針」というのが処刑か?釈放か?ということです。

旧陸軍歩兵学校が刊行した『対支那軍戦闘法ノ研究』(1933年)の中の「捕虜ノ処置」には以下の文章があるようです。
原文を確認できればいいのですが難しく、上のURLからの引用となります。

捕虜は他列国人に対する如く必ずしも之れを後送監禁して戦局を待つを要せず、特別の場合の外之れを現地又は他の地方に移し釈放して可なり。
支那人は戸籍法完全ならざるのみならず特に兵員は浮浪者多く其存在を確認せられあるもの少きを以て仮りに之を殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し。

要するに、捕虜は釈放していいけれども、中国人に対しては別。殺害しても問題にはならない。
ということですね。
1933年時点の陸軍でこんな事が公の文章となって配られていたとは。。。。
信じがたいので防衛省の図書館に行って本物を見て確認したいところですが九州在住ではそれもままなりません。

これに対しては東中野教授の解釈が詳細ですので対比してみましょう。
この、「中国兵は殺しても構わない」ともとれる文章について

しかし、それは、捕虜は・・・釈放してもよい」という原則と矛盾するのではないか。洞氏はそう意識しているからであろう、後段のみを引用している。つまり、原則として捕虜釈放を支持する前段を割愛して引用している。(「南京虐殺」の徹底検証」 P88)

と、肯定派の洞教授の資料引用に批判を加えています。そしてこの「殺害」は特例であったと述べておられます。
まあ、確かに「仮に殺害」であって「何が何でも捕虜にせず殺害せよ」とも書いていないわけですが。
そしてその特例とは

即ち日本軍の命令に服さない場合、「仮リニ之レヲ殺害」したとしても、ハーグ陸戦法規第八条は「総テ不従順の行為アルトキハ、俘虜ニ対シ必要ナル厳重手段ヲ施スコトヲ得」と名言しているから、戦時国際法上の問題はない。社会的にも問題にはならないというのであった。(「南京虐殺」の徹底検証」 P88)

という事だそうです。
つまり
「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず特に兵員は浮浪者多く其存在を確認せられあるもの少きを以て仮りに之を殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し。」
の部分を東中野教授の解釈でもって補足すると
「中国人は戸籍がしっかりしていない者が多いから、不服従で殺害しても問題にならない。また釈放しても問題にならない。」
ということになります。
だいぶ最初の印象と違って読めますね。

このあたりまだ東中野教授の解釈、ちょっと強引だなあと感じる所ですが、同じ本の次章で「交戦法規ノ適用ニ関スル件」(昭和12年)との関連について解釈を述べられています。
これはなかなか面白いです。
次回はこの東中野説を中心に読み解いてまいりましょう。

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2007年3月26日 (月)

南京関連ニュース 「30万人」に学術的根拠ない」続報

過日、中共側の学者の方から「南京三十万人虐殺には根拠がない」と言う意見が出たことをご紹介しました。
この方針転換の背景についての論評を探していたのですがやっとまとまった投稿を見つけました。
雑誌「諸君!」の2007年4月号「「やはり南京【三十万】虐殺は【政治的数字】だった」(アスキュー・ディビッド)という記事です。
著者を知らなかったので少し検索してみましたがあまり情報がありません。
こちらの大学の助教授ということですが利害関係など詳しいことがわからない人の論評ですので疑り深く読んでいきたいと思います。

前文
過去記事で紹介した通りの、東京財団主催の講演会の内容が紹介されています。
他に注目すべき内容として、中国側での歴史研究について「反省」という言葉が再三再四使われた事を述べられています。著者は「今までの反省を受けて、今後は実証主義的姿勢を重視していくという変化を指しているのであろう。」と分析されています。

三十万人は「政治的数字」と暗示
まず中共が実利的計算から日本を歴史問題で非難してきたこと、また最近はその歴史非難が中国の国益を損なうようになっていることを述べられています。
日本の対中投資が冷え込んでは元も子もないぞって事でしょうね。
ここで著者は「大きな変化」として三つの事項を挙げられています。

一、勝者としての言説に加え、被害者としての新しい国民的アイデンテティが今や形成されつつある。
例として終戦の時国民党が主張していた被害者数が175万人だったのが、江沢民時代には3500万人になっていることをあげられていますが、この程度のことは南京事件に関心のある人ならみんな知っている事です。

二、反日による統合・支配は、教育の現場やメディアにおける反日的な復仇民族主義の鼓舞を手段とするものであるが、それは今や諸刃の剣となって、中国政府に襲いかかってきた。
日本を糾弾する民衆の暴動はいつ共産党指導部へ向かうかもしれないと言うことですが、これも依存症の独り言の板真さんなどは前から何度も主張されていることです。

三、こんにちの中国ではナショナリズムを語る際、「国家」のみならず「社会」もますます重要な存在になってきたという点だ。
つまり中共でさえ「新しく誕生した、いわば大衆民族主義(世論)を無視することができなくなり、一定の配慮をせざるをえなくなった。その結果、文化大革命のときに「臭老九」という蔑称を張られていた知識人の影響が少しずつ復活してきて、民族主義に限っていえば党が主体的「前衛」ではなく、むしろ民族主義に動かされる客体となってきたのである。」

つまり世論を無視できなくなってきたということですね。
意外なことですが、中国国内で共産党を批判する文献が紹介されています。
「中国を悪魔と描く工作」(原題【妖魔化中国的背後】:李希光、劉康:中国社会科学出版社)
「それでもノーと言える中国」(原題【中国還是能説不】:著者同じ:中国文聯出版)
日本を好意的に描く小説も少数ですがあるそうです。
「温故1942」(劉霞雲)

著者は「中国は民主主義の国では断じてないが」と書かれていますが「中国は確実に変わってきているのだ。」とも主張されています。かなり中国に好意的な文章です。

大量殺害を命じた証拠はない
まず程兆奇教授の講演会での発言を分析されています。

「東京裁判」という最近の中国の映画を紹介しつつ、大衆文化では、日中戦争の「歴史」が材料として取り上げられるとき、歴史的事実が軽視され、反日感情を煽る形で「制作」・捏造がたびたび行われており、この点は、中国人として反省して然るべきだ、と率直に認めている。

嘘を「嘘でした」と認めてるのだから誉め称えよ、という風に聞こえてしまいますね。

一方、日本の最大の問題点とは、一言でいえば、文脈の軽視、文脈の無視という点に尽きるという。

要するに「侵略者としての反省を忘れて被害者数の多寡にこだわるのは日本が悪い」と言っているのですね。
私個人的には疑問があるものの、日本の首脳は侵略戦争であったことも認め、謝罪も行い、莫大な経済援助で中国を支援してきました。こっちの方が文脈の無視ですね。

大虐殺派は中国に利用された?
張連紅教授の講演の内容を紹介されています。
1980年代まで歴史研究が困難な状況であったこと、日本の「大虐殺まぼろし派」に対抗するために研究が始まったが、極めて政治的な研究であったこと、などの状況を述べた後、
一、南京大虐殺研究センターの設立
二、欧米や日本の資料を駆使しだした
上の二点を著者は好意的に解釈しています。
驚くのが、中国側は1980年代までは、わずか三冊の資料で南京事件を研究していたという事が程兆奇教授の口から出た様子であったことです。
これは笠原十九司教授も嘆くのじゃないでしょうか?

本筋と関係ない部分ですが

日本の大虐殺派の論客の中で、中国の路線に追随してきた者もいるが、彼らは騙されて利用された、ということにもなろうか。
彼らが今後、中国の路線変更にどのように対応するのかは、興味深い点であろう。

笠原氏や洞氏のことを指しているのでしょうけれど、笠原氏でさえせいぜい二十万人説なのですから、ここはあまり興味深いとは思えません。
この方は文章を見る限り日本語は堪能でよく勉強もされているようですが、大虐殺派の学者の著作はあまり読んでいないのでしょうか?

その後張教授は、日中共同歴史研究のことかと思われる内容を話されています。

客観的に、また公平な立場に立って、資料を駆使さえすれば、日中両国の共通した理解を確立することは可能だと考える、と。

ラブコールにどう応えるか
著者による今回の講演のまとめです。

資料集を出版して、今後は資料分析に基づく学術的研究に励むという主張は、日本の識者に対する一種のラブコールとみることもできよう。

ちょっと不気味なラブコールですね。

またこの講演は、中国内部での強硬な大虐殺派の動きを牽制するもの、という推測もされています。
大虐殺派を牽制と言っても、今まで大虐殺派しかいなかったのではなかったのでしょうか。
好意的なのは結構ですが贔屓の引き倒しと言う感がしますね。

何よりも、北京オリンピックの開催を是が非でも成功させたいと考えている中国政府が、烈しい反日感情をやわらげるため、国内における歴史解釈の修正を打ち出す前に、とりあえず海外で先手を打った、という可能性もあろう。

オリンピック成功のためになりふり構っていられないのは間違いないでしょう。ここは同意できます。
オリンピックで反日暴動でも起きたら中共の信用は地に落ちますからね。

繰り返しになりますが最終的なまとめとして
一、日本や欧米の学術的研究を無視できなくなった。
二、国内のナショナリズムが制御できなくなった。

この二点が三十万人否定の背景だと言う事を推測されています。

アスキュー・ディビッド教授は親中派であることは間違いないですね。
決定的に欠けている視点は、中共は政権維持のために、いびつな形でも経済発展をしていかねばならないということです。
そのための資源獲得のため、アフリカ諸国へのODAばらまきを行っていること。
猛烈な軍備拡張を行い、東アジアでは領海、領空侵犯などを数え切れない程行っていることです。

自分にはこのような親中派の学者の言説より、ネット上の知識人である「チェーザレ」さんの分析の方が正鵠を得ている感じがします。
この方は私がmixi上で知り合った方なのですが、どういう仕事をなされているのか経済と中東情勢にめったやたらにお詳しくいつも意見を興味深く読ませてもらっています。
以下にこの問題についてのチェーザレさんの分析を転載します。
ディビッド教授の分析と比べてみなさんどう思われますか?

チェーザレ 
南京関連のニュースで進展があったのはこれがあったからでしょう
「第7回中日戦略対話が終了 戦略的互恵へ前進」
第7回中日戦略対話(日中総合政策対話)が27日に終了し、改善の情勢が見られた中日関係が、戦略的互恵の方向へと進んでいることが示された。今回の戦略対話は、昨年10月の安倍晋三首相訪中で政治的膠着が破られて以降では初めての開催となった。外交部の戴秉国副部長と日本外務省の谷内正太郎事務次官が、両国代表として参加した。

 同対話は慣例上、クローズドで行われ、メディアには公開されていない。中国外交部によると、3日間の対話で中日両国は、中日関係の改善と発展という良好な情勢を固めること、両国の戦略的互恵関係の構築、および関心を共有する国際問題・地域問題になどについて、率直で踏み込んだ意見交換を行った。また、次回の戦略対話を双方の都合が良い時期に東京で開くことで合意した。
(2007年01月28日  asahi.com)

http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY200701280122.html 

中間で戦略的互換関係を構築したからです。この戦略的ってのは核の話です。
安倍首相は非核三原則固持ですが側近たちが核武装の議論をしており、核武装の本が出版されてます。
中国のメンタリティでは議論も出版も考えられない事です。だから中国側からみれば国家元首は核武装を捨ててない様に見えます。日本は中国と核問題を話し合うテーブルにやっと着けたってことです^^; 

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2007年2月25日 (日)

中島中将の日記「捕虜ハセヌ方針ナレバ」(1)

1980年代初旬に、中島今朝吾中将の陣中日誌が日本で発見されました。
中島中将は南京攻略戦当時の上海派遣軍、第16師団の師団長でした。
その中島中将の12月13日の日誌をご紹介します。

十二月十三日 天気晴朗

一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり 支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも 一部の外人が居りて辛ふじて面倒を見あり  出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く 何れ兵は自然に死して往くならん
  此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果なるべし
  依りて師団は 使用の目的あれば何れへなりと立除(退)くことを要求せり
  又日本軍が手当することは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底始末に堪えざるなり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除すること すら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ十三日夕はトラツクの大活動を要したりし乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る
一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり
一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云ふ暇なくして東奔西走しつつあり
一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵キ(器)の収集も之を為さざるべからず兵キ(器)弾薬の如き相当額のものあるらし
 之が整理の為には爾後数日を要するならん

(「南京戦史資料集1」P219~P220 または「南京戦史資料集」(旧版)P325~P326)
(コピー元:http://www.geocities.jp/yu77799/matumoto.html

この「南京戦史資料集」は現在入手困難でして、私も現物を見て確認したい所なのですがままなりません。
上の引用は、虐殺否定派と言われているグース氏のサイトよりのものですが、これは日誌の全文ではありません。
こういう時は全文を通読した方がよいのですが、全文を載せているサイトは「ゆう」氏のページなどになるようです。興味のある方はご参照下さい。
http://www.geocities.jp/yu77799/nakajimakesago.html

この赤太字部分について、まず笠原教授はどう解読しているのか読んでみましょう。

この13日に第16師団だけで、処理(処刑)して殺害しようとした投降兵、敗残兵は二万三千人を超える膨大なものとなった。
(岩波新書「南京事件」P155)

大変あっさりした記述です。
普通に読めば「捕虜を殺せ」としか読めませんから無理もないでしょう。

さて中間派の秦郁彦教授はどう解釈しているでしょうか?

問題は捕虜の「処理」だが、中島日記(13日)に、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルココトナシ」とあるように、捕虜を認めず殺害するのが師団長の方針だったらしい。
ただしこの方針は文書による命令や指示で伝達されたものではなく、口頭による指導として伝えられたようだ。
たとえば、児玉義雄大尉(歩38連隊副官)は次のように証言している。
「彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として”支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ”と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだ、とショックを受けた。(中略)参謀長以下参謀にも電話で意見具申しましたが、採用するところとならず(略)」
児玉大尉のいう師団副官とは宮本四郎大尉のことであろうが、その宮本副官は13日に一万の捕虜が出た報告を伝えると、参謀長が即座に「捕虜はつくらん」と指示したと遺稿に記している。(「轍跡」)
宮本証言では、この捕虜は助命されたらしいというが、その消息ははっきりしない。
いずれにせよ、師団長の方針がどこにあったか推測できよう。

(中公新書「南京事件」P117~118)

この児玉義雄大尉(少佐)の証言の(中略)が私はどうにも嫌なものですから、全文を掲載しているサイトがないか探してみました。
左翼勢力のサイトですがありました。

連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
 師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。
 参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
 部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。
『証言による<南京戦史>(5)』 (内田『「戦後補償」を考える』p.35-36)

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/horyo.htm

さて、秦教授の文章からわかることはまず、16師団の捕虜の処刑は文章による命令では残っていないと言うことですね。
116連隊問題でも取り上げましたが、戦場での臨機応変の命令は、口頭で伝えられることも多かったようですから、残っていないのも仕方ないと思われます。

最後に否定派の東中野教授はどう解釈しているでしょうか?

文章の捻れ
もし、即時銃殺が当初からの方針であったのであれば、中島師団長は、当初からの「投降兵即時銃殺」という方針に立って、その方針の貫徹に奮闘するのだが、千、五千、一万、の群集ともなると多すぎて、とても銃殺すらできない、と嘆いていたはずである。
 これを、先の日記に模して文章化すると次のようになる。
大体捕虜にはしない方針なれば片端から之を片付くる(即ち銃殺する)こととなしたるも千五干一万の群集ともなると多過ぎて銃殺することすら出来ず
 つまり「捕虜ハセヌ方針」が捕虜処刑命令であったと仮定すると、「片端から銃殺しようとするのだが、多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と書かれて当然であった。
 ところが、そうは書かれなかった。「片端から銃殺しようとするのだが、武装を解除することすら出来ず」と書かれてあった。
 捕虜処刑命令であったと仮定する時、文章に、不自然な捩れが生じてくるのである。この捩れこそ、この誤った仮定から生み出されていた。
 捕虜即時処刑という命令など出ていなかったのではないか。そう仮定してみるのもよいであろう。
 そうすると、右の不可解な疑問は、全て、氷解してゆくのである。

「捕虜ハセヌ方針」の真の意味
 この日記には、「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」とか、「当初ヨリ予定ダニセザリシ処ナレバ」というように、ダニとかスラといった強意の副助詞が用いられている。
『国語大辞典』を持ち出すまでもなく、だにもすらも、「程度の甚だしい一事(軽量いずれの方向にも)を挙げて他を類推させる」働きをする。

 つまり、陣中日記の作者は「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」と書き記すことにより、「捕虜ハセヌ方針」の貫徹など、到底不可能、と匂わした。
 換言すれば、「捕虜ハセヌ方針」という最終目的を達成する手段が、支那兵の「武装ヲ解除スルコト」であった。
 では、問題の「捕虜ハセヌ方針」とは、何であったのか。三つのことが考えられる。
 まず、銃殺の方針であったという従来の通説である。しかし、銃殺が当初からの方針であったのであれば、すでに述べたように、中島師団長は「大体捕虜にはしない銃殺の方針であったから、投降兵が来るや、これを片端から銃殺しようとするのだが、千、五千、一万の群集ともなると多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と記していたことであろう。
 ところが、陣中日記の作者は、「銃殺することすら出来ない」とは書かなかった。従って、即時処刑の方針ではなかったことになる。
 では、捕虜にする方針であったのか。しかし、これは、言うまでもなく、「捕虜ハセヌ方針」に反する。となると、残るは、投降兵の追放しかない。戦場の投降兵にたいしては、処刑するか、捕虜とする、追放するか、三つの方針しかないからである。従って、「捕虜ハセヌ方針」とは「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。
 その「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」という表現から、当初の方針(即ち捕虜にはしないで武装解除してから追放することなど)など、とても遂行できないという悲鳴が聞こえてくるのである。

(展展社「『南京虐殺』の徹底検証」P117~120)

さて、この東中野教授の解釈には

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

についての言及がありません。
捕虜を武装解除するのになぜ壕が必要なのか、この疑問について触れるべきだと思います。
すぐ後ろにくっついている文章ですから当然これは読んでおられるはずなのですが何故でしょうか?
申し訳ないのですが東中野教授の資料検討の精査性に疑問を感じます。

次回以降は、肯定派の代表としてのK-K氏
http://members.fortunecity.com/kknanking/log/log02.html
(「柳」さんとのやり取り部分)

否定派の代表としてのグース氏
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8312/index.html
この二氏の見解を紹介していくことで妥当性を発見していきたいと思います。


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2007年2月18日 (日)

捕虜虐殺命令を検証する(6) 左翼の反論

引き続きネット上の左派論客である、k-kさんの東中野説の批判について検討してみましょう。

http://wiki.livedoor.jp/kknanking/d/%c2%e866%cf%a2%c2%e2%cc%e4%c2%ea%a1%a1%c5%ec%c3%e6%cc%ee%c0%e203

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http://wiki.livedoor.jp/kknanking/d/%c6%ee%b5%fe%c2%e7%b5%d4%bb%a6%a1%a1%cf%c0%c5%c0%a4%c8%b8%a1%be%da
(左メニュー:第66連隊問題→●東中野説批判→○第1大隊戦闘詳報は「素人の作文」だったか?)

東中野教授の以下の記述について論評されてます。
では、実際に、第一大隊副官が第一大隊の戦闘詳報を作製したのであろうか。戦場のこと故、大隊副官の負傷による戦線離脱も考えられる。小宅小隊長は次のように述べるのである。
《戦闘詳報について言えば、第四中隊の戦闘詳報は私が書いていました。もちろん捕虜処刑などありませんから、そんなことは書いていません。
 大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかったと思います。》
 たしかに、小宅小隊長代理の言うように、一刈第一大隊長は戦線から離脱していた。そのため第一大体命令-----たとえばすでに見た「第四中隊ハ全員ヲ以テ捕虜ノ監視ニ任ズベシ」という命令----などは、渋谷大尉(第一大隊長代理)の発令となっている。
 つまり、渋谷副官が実際の戦闘を指揮していた。そのため渋谷副官は戦闘の一瞬一瞬に瞬間的な判断を迫られ、戦闘詳報をどうするという立場にはなかった。他方、もう一人の大根田副官は、実戦の経験不足からして、戦闘詳報については暗かった。

 従って、戦闘詳報については素人ばかりの大隊であった。そのため、まともな戦闘詳報は書けなかったというのが、小宅小隊長代理の証言であった。つまり、第一大隊の戦闘詳報は素人の作文に近かったのである。

小宅証言の信憑性
【1】一刈大隊長が負傷した後、戦闘詳報をまともに作成できるのが渋谷大尉だけになった
小宅曹長の証言
大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです
という部分について。「野州兵団の軌跡」183ページから
山田聯隊長は、第一大隊付きの渋谷仁太大尉を長に挺身隊を編成した
という部分を引用されて更に
渋谷大尉は「副官」ではなく、「大隊付き」の将校であった。一般的に、歩兵大隊の副官は少尉を1人充てることとなっており、大尉であった渋谷を副官とすることや、大隊副官を2人充てることなどは当時の慣例にそぐわず、この点からみても、渋谷大尉が副官であったとは考えられない。
と論評されています。

記述を見るにどうやらk-kさんは「野州兵団の軌跡」も自由に参照できるようですね。

以下に116師団の編成表をご紹介します。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/sougou/sosikizu/D114.htm
確かに副官には少尉となっていますね。
残念ですが小宅曹長の証言があやふやであった事がひとつ証明されてしまいました。

【2】大根田少尉は戦闘詳報の作成に詳しくなかった
資料での裏付けがとれなかったと書いておられます。以下論評
少尉という階級は、将校の一番最初の階級であり、実戦を含め、軍務すべてに関して経験が少ないものであろう。
このような意味で、本当に、大根田少尉は戦闘詳報作成に関して際立って「暗かった」と言えるのであろうか?この点、疑問が残るところである。

暗かろうが暗くなかろうが、虚偽の事を詳報に書くというのとはまた少し違う話ですね。
ですから私もここはノーコメントで。

【3】大隊の戦闘詳報は、素人ばかりでまともなものは作成できなかった
小宅曹長の証言について
1つは誤認していたものであり、1つは妥当性に疑問が残るものであった。
と論評されています。

そして東中野教授の以下の文
戦闘詳報は文字どおりこの戦闘に関するすべての事実を詳報するもので、副官または書記が作製し、大隊長の決済を経て連隊に報告するもので、責任者は大隊長ということになります。

ここについて
この見解に整合性をつけるならば、大隊本部の書記も「素人」でなければならない。
とされています。これはその通りですね。
更に
当時、第66連隊第1大隊本部には、小野文助、木村徳延軍曹、稲沢伍長、菅沼伍長という下士官の書記が確認できる(『野州兵団奮戦記』より)。
とあります。
野州兵団の軌跡なのか郷土部隊奮戦記なのか引用もとがごっちゃになっていますがこれは誤記でしょうね。
やはりこれだけのメンツが揃っていて「素人集団だから適当なこと書いちゃったんだよ」
というのは論拠として弱いです。

東中野の見解について
おおもとの小宅曹長の証言に信頼性がないことで東中野教授の論自体にも信頼がおけないことが書かれています。これもその通りですね。
あと、戦闘を実際にしていた期間と詳報を作成していた期間とに少し時間的ずれがあることから考えられることを述べられていますがここはもう触れないでおきます。

結論として
気持ちはわかりますけどちょっと強引すぎます>東中野教授
と述べるしかありません。

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2007年2月11日 (日)

映画「南京の真実」が製作されます

「知らされなかった日本」は、映画「南京の真実」の製作を応援しています。

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(公式ページより)
南京陥落70周年の今年 (平成19年・2007年)、米国サンダンス映画祭にて、南京「大虐殺」映画が公開されました。  さらに、中国、カナダ、米国等で計7本の南京「大虐殺」映画製作が予定され、全世界で公開されると言われています。歴史的事実に反し、誤った歴史認識に基づくこのような反日プロパガンダ映画によって、南京「大虐殺」なる歴史の捏造が「真実」として、世界の共通認識とされる恐れがあります。また、そこから生まれる反日、侮日意識が、同盟国の米国だけでなく、世界中の人々に定着しかねません。

 「情報戦争勃発」とも言える危機的事態に、私たちは大同団結し、誤った歴史認識を是正し、プロパガンダ攻勢に反撃すべく、南京攻略戦の正確な検証と真実を全世界に伝える映画製作を決意しました。
 映画は英語版や中国語版等も同時に作り、世界同時公開を目指します。また、インターネットの動画配信も実行する予定です。

 この映画製作には、全国草莽の皆さんの熱いご支援ご協力が必要です。
 是非、映画製作にご参加いただき、祖国日本の誇りと名誉を守りましょう。

平成19年1月

映画「南京の真実」製作委員会
監督  水島 総
日本映画監督協会会員
日本脚本家連盟会員
日本文化チャンネル桜 代表

公式ページ:http://www.nankinnoshinjitsu.com/
水島総監督による、映画「南京の真実(仮称)」の製作発表が1月23日、東京都内のホテルで行われました。
製作発表会見は超満員だったにもかかわらず、当日、翌日の新聞やテレビでは全く報道されていません。
報道機関が腰が引けているのなら我々がこの映画を応援して、一人でも多くの日本人に広めて行かねばなりません。
中共の南京事件に対する過剰なプロパガンタには、日米同盟の離間、チベットや東トルキスタンでの虐殺隠蔽、国内で共産党へ向かう不満そらし、と多様な目的を持って行われています。
(櫻井よしこさんの分析:http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2006/12/post_493.html

誇り高い日本人は今こそ中共の情報戦略と戦っていかねばなりません。
一人でも多くの日本人にこの映画を!

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