2006年9月19日 (火)

通州事件

Photo_13
http://www.hct.zaq.ne.jp/cpabp700/jibun/hajime.htmlより)

廬溝橋事件の後の小さな事件として取り上げらようと思っていたのですが、当時の日本国民に与えた衝撃度を推測するに、これは独立したテーマとして扱った方がよいと考えました。

当時通州(北京の東12kmの町)には、関東軍が作った「冀東防共自治政府」という政権がありました。
満州に続いて中国北部を領有することを目論んだ関東軍の策謀の結果できた親日政権でした。
安全かと思われていたその町には日本人の居留民が約400人住んでいました。
1937年7月29日、日本軍の主力が不在の時に、自治政府の保安隊の中国人部隊3000人は突然日本人居留民を襲撃、虐殺しました。
簡単なあらましはこちらをご覧下さい。

http://www.senyu-ren.jp/MAGO/12.HTM

参照したURLでだいたいのことはわかっていただけると思いますが、現地の惨状はひどいものだったようです。
桜井文雄元少佐は、7月30日に通州で見た光景をこう証言しています。

「先ず守備隊の東門を出ますと、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横はつて居るのを目撃し、一同悲憤の極に達しました。敵兵は見当りませんでしたので、夜半迄、専ら生存者の収容に擔りました。「日本人は居ないか」と連呼し乍ら、各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が、彼所此所の塵、埃箱の中や、壕の内、塀の蔭等から、続々這ひ出して来ました。

某飲食店内には一家悉く皆首と両手を切断されて居るのを目撃しました。婦人といふ婦人は十四五歳以上は悉く強姦されて居りまして、見るに忍びませんでした。

旭軒と云ふ飲食店に入りますと、そこに居りました七八名の女は全部裸体にされ、強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒を押込んである者、口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に断ち割つてあるもの等、全く見るに堪へませんでした。

東門の近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、それに八番鉄線を通し(貫通)一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。池の水は血で赤く染つて居たのを目撃しました。」

現地の保安隊をして虐殺に走らせたのは、「日本軍敗走」というラジオのデマ放送が原因であるとも、共産党の謀略であるとも、日本軍の飛行機の爆撃が原因であるとも、事前に国民党と打ち合わせた予定の行動であったとも言われています。

当時の新聞はこの事件を
「比類なき鬼畜行動、恨みは深し!」
「世紀の残虐、あ々呪いの通州」
などという報道をしましたので、日本人の対中国感情は急速に悪化し、後の上海事件を契機とする泥沼の日中戦争の下地となりました。

そしてこの事件は東京裁判でも証拠として提出する事を禁じられました。
この事件が裁判の中に現れると、中国の戦争犯罪も裁かなくてはならないからです。

そして、この事件は現在では日本の教科書等には全く載っていませんが、中国の国内では、「輝かしい抗日闘争の成果」として取り上げられています。

主に関東軍の行動を見ていきますと、日本にも明らかに侵略と呼ばれる行動は存在していたと思います。
大したレベルではないと断言できますが日本軍も略奪や虐殺をしていたことでしょう。
しかしそれは交戦国どの国もやっていたことです。
むしろ、通州事件や尼港事件などをやった中国と比べると日本軍のやった行為など大したものではありませんし、東京大空襲や原爆を落としたアメリカと比べても全くレベルが違います。
戦争を、人間の全ての悪の要素が陳列される悪事のデパートだとすれば、日本は、アメリカ中国には敵わない小規模なデパートであったと考えています。
残虐行為を行った過去の日本軍を正当化するという事ではなく、どちらも五十歩百歩だったと言いたいのです。

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2006年9月18日 (月)

廬溝橋事件(4)

9月17日朝のテレビで安部晋三さんが、廬溝橋事件について話されていました。
「当時の日本軍の進駐は合法的なものであった」と述べられるのに留まっていましたが、謎の発砲のこともさぞ言いたかっただろうなあ。。。と思いながら見ていました。

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さて廬溝橋事件の後、ロシアの脅威を考えていた日本は不拡大方針を取りました。
冷静な戦力分析をすれば当然の選択だと思います。

事件後の状況を抜粋してみましょう。

7月7日
22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。
事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。

7月8日
(現地)
4時00分:日中合同調査団が北京を出発。
5時00分:中国側と交渉を開始。

4時20分:再度の銃撃を受ける。
5時30分:日本軍と国民党軍、全面衝突。
7時30頃:小康状態。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。
(東京)
早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。拡大派、不拡大派のせめぎあいが続く。
18時42分:不拡大を指示する総長電が発せられる。

7月9日
<現地>
2時00分頃:「日本軍は川の東岸へ、中国軍は西岸」という停戦協議が成立。
<東京>

「中国軍の盧溝橋付近からの撤退」
「将来の保障」「直接責任者の処罰」
「中国側の謝罪」
以上の内容を対支折衝の方針とするよう通達する電文が、次長名をもって現地に発せられる。

7月10日
<現地>
前日の次長電の要求国民党側に提出。
<東京>
参謀本部が「支那駐屯軍の自衛」「居留民保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。参謀本部内にも異論はあったが派兵が決定される。

7月11日
<現地>
20時00分:「責任者の処分」「中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする現地停戦協定が成立した(松井-秦徳純協定)。
<東京>
11時30分:五相会議にて、陸相の、「威力の顕示」による「中国側の謝罪及保障確保」を理由とした内地三個師団派兵等の提案が合意された。
14時00分:臨時閣議にて、北支派兵が承認された。
16時20分:近衛首相は葉山御用邸に伺侯、北支派兵に関し上奏御裁可を仰いだ。
18時24分:「北支派兵に関する政府声明」により、北支派兵を発表。
21時00分:近衛首相は政財界有力者、新聞・通信関係者代表らを首相官邸に集め、国内世論統一のため協力を要請。以降、有力紙の論調は、「強硬論」が主流となる。
本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであった。しかし、現地情勢を無視した政府の派兵決定は、拡大派を勢いづかせ、また中国側の反発を招くことにより、以降の事件拡大の大きな要因となった。

7月19日
蒋介石はいわゆる「最後の関頭」演説を公表して、中国の抗戦の覚悟を公式に明らかにした。
以下要約
「満州を失ってすでに6年、いまや衝突地点は北京の盧溝橋に達している。我々はもとより弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。最後の関頭に至ったならば、あらゆる犠牲を払っても、徹底抗戦する」

7月25日
郎坊事件

7月26日
広安門事件
7月29日
通州事件
ついに北支における日中の全面衝突が始まることになる。

日本軍内にも「一撃論」という対中国過激派の存在がありました。
国民党内にも穏健派と過激派がいました。
単純に「日本が侵略を意図を持って中国を攻撃した」
と言いきれるような問題ではないことは確実だと思います。
私個人の感想としては、調べれば調べるほど中共に得になるような情勢になっているように感じています。

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2006年9月17日 (日)

廬溝橋事件(3)

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当時の中国国民党は、共産党と協調して日本に対抗しようと言う左派と、日本と協調して共産党と戦うべきだという右派とのせめぎ合いがありました。
そんなさなかの1936年、西安事件が起こります。

この頃国民党に合流していた、元奉天軍閥の張学良は、日本軍に父の張作霖を殺された事により、国民党と日本軍とを戦わせたいと思っていました。
まあ、当然と言えば当然です。
1936年12月、国民党の領袖の蒋介石が西安に来ていました。
その方面軍を担当していた司令官の張学良は、「一緒に日本に対抗しよう!」という呼びかけを蒋介石に対して行いましたが拒否されました。
そこで張学良は、蒋介石を監禁して国民党を反日に向かわせようと画策します。

この事件をもって、一時国民党本軍と張学良軍とが一触即発の状態になりました。
張側は蒋介石を殺すつもりでもあったようですね。
しかしそこへ調停にやってきたのが共産党の周恩来です。
周恩来の交渉力でもって蒋介石と共産党との間に合意ができ、国共内戦は終了し、第二次国共合作の時代を迎えます。
これが西安事件のあらましです。

廬溝橋事件はこのような状態の時に起こった事件です。

廬溝橋事件により誰が得をしたかを考えるのが、謎の発砲の原因者を突き止める近道と考えます。
以下は「歴史と世間のウラとウラ(http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/index.html)」よりの抜粋です。

もし日本軍が発砲したと考えると

○当時の日本軍の総兵力は、国内国外あわせて25万、これに対する中国軍総兵力は、220万で、いくら日本の軍人が中国軍を見くびっていたとしても、兵力の違いが大きすぎはしないか。
○日本軍は実弾を携行せずに演習をしていた。駐屯軍参謀長橋本群・陸軍中将は当時の状況を、「実弾を持たずに発砲されたため、応戦できず、非常に危険な状況におかれた」と証言している。「丸腰」で演習していた日本軍が、果たして本当に、「武装」している国民党軍と事を構えたいと思ったのか。
○「廬溝橋事件」後に日本は現地解決・戦線不拡大方針を表明し、国民党軍との間に停戦協定を成立させている。このことは日本軍がそれ以上事を荒立てたくはないと考えていたからではないのか。
○その後、日本は膨大な地域を占領したが、領土要求はしていない。占領地は汪兆明政権の領土となり、そこでは治外法権も撤廃されている。
○現地で一旦は解決がはかられた廬溝橋事件の3週間後、さらなる大事件が起こった。中国軍が日本人民間人200名余りを虐殺した「通州事件」とも”通州大虐殺”とも呼ばれる事件である。

 当時、通州には「廬溝橋事件」の余波で避難していた婦女子などの日本人居留民、軍人等200余人が住んでいた。日本の守備隊の主力が町を離れたところへ中国軍千数百名が襲撃した。中国軍は日本軍守備隊を全滅させ、住宅に火を放ち、女性には暴行を加えたうえで殺害、子供は両手・両足を切断、男性には首に縄を巻きつけ引き回した。当然、日本の世論は「支那を撃つべし!」と沸騰した。しかし、この時も日本軍は耐えて動かなかった。

日本が不利になる状況が強いように感じます。

そして、もし共産党軍が発砲したと考えると

○共産党軍は国民党軍の猛攻にさらされ壊滅の危機にあった。共産党が生き残るために蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ようと考えるのは不自然なことではない。
○「廬溝橋事件」発生の翌日7月8日、中国共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けている。すこしお膳立てがよすぎはしないか。
○共産軍の兵士向けのパンフレットには、「廬溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきりと記述されていたという。

○1949年10月1日、「中華人民共和国」成立の日に周恩来首相が、「あの時(廬溝橋事件の際)、我々の軍隊が、日本軍・国民党軍双方に、発砲し、日中両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、共産党に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言している。
○コミンテルン(国際共産党)の廬溝橋事件に関する指令には、1)あくまで局地解決を避け、
日中の全面衝突に導かねばならない。2)右目的貫徹のため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって中国の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい。とある。

共産党に有利になる条件は整っていた、整えられていたように感じます。

しかしこのサイトには以下の事にも考慮しています。
「廬溝橋事件の前に起きた西安事件によって国共合作は既に実現している。だから、もう共産党には謀略を企てる動機は薄かった。」
「廬溝橋事件は日華事変の原因ではなく、単なるきっかけにすぎなのであって、根本的な原因は、当時の中国にあふれていた反日感情と、日本陸軍の思い上がりにあるのだ。」

決定的な一次資料が出てくるまで納得できない問題ではありますが、現状では共産党の企みだとしか自分には思えません。

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2006年9月16日 (土)

廬溝橋事件(2)

1900

事件の事を掘り下げようとすると、当時の中国の情勢を話さなければ理解できません。
みなさんは「国共内戦」って言われてすぐ内容がピンと来ますでしょうか?
私はさっぱりピンと来ませんでしたので調べました。
教科書の内容をちょっと上乗せするだけですが我慢して読んでいただければと思います。

阿片戦争に端を発する清への列強の植民地化はすさまじいものでした。
上の図は当時の中国の支配図です。
(参照:http://www007.upp.so-net.ne.jp/snakayam/topics_28.html

・ ロシア:北京以北すべて
・イギリス:江蘇省、安徴省、淅江省、湖北省、香港
・フランス:広東省、広西省
・ドイツ:山東省
・ ポルトガル:マカオ
怖いですね。明治維新が失敗していたら日本もこのようになっていた可能性が高いのです。

さてこんな状態で中国の国民が怒らないはずはありません。
バラバラにですが「欧米の干渉を招かない中国を作ろう!」と民衆が決起しました。
民衆じゃなかったりするものもありますが以下の勢力が複雑に絡んで中国は内戦状態に入りました。
・溥儀皇帝を中心とする清朝
・袁世凱を中心とする北洋軍閥政府
・北洋軍閥の分派、憑国璋らを中心とする直隷派軍閥
・北洋軍閥の分派、段稘瑞らを中心とする安徽派軍閥
・北洋軍閥の分派、張作霖、張学良を中心とする奉天派軍閥
・毛沢東を中心とする中国共産党
・孫文→蒋介石を中心とする中国国民党
複雑で訳がわかりません。

このうち国民党と共産党とは比較的相性がよく
1924年に「第一次国共合作」という同盟が組まれました。
しかし1925年に孫文が病死し、国民党の指導者が蒋介石になると様相が変わってきます。
共産主義者との同盟を快く思わない蒋介石は1927年、上海クーデター事件を起こして共産党員を弾圧します。
これ以降国共合作は解消され、1927年から1937年は国共内戦の時代と呼ばれています。
蒋介石率いる国民党軍はこの上海クーデター他により共産党を駆逐し、1928年には北京にあった北洋軍閥政府を倒します。
それを受けて国民党は同じく1928年に南京に首都を定めて国民党政府を樹立します。
共産党は各地でゲリラ化することによって国民党に対抗しますがかなりの劣勢と言えました。

ここで共産党軍が「日本軍をして国民党と戦わせれば我が軍に有利になる」と考えても無理はないと考えています。

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2006年9月14日 (木)

廬溝橋事件(1)

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廬溝橋事件は1937年7月7日に、日本軍が中国国民党軍を銃撃したことから起きたと言われています。

以下wikipediaより
1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。
この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。

wikiではこの後、7月7日から始まる事件のあらましを述べていますが、どちらから先に発砲したのかを考えていきたいと思います。
国民党軍は「日本から発砲した」と言っていますし日本側は「敵が攻撃してきた」と言っています。
どちらが正しいのでしょうか?
実はどちらも正しかったのではないでしょうか。

発砲された時の日本軍は丸腰の状態だったという証言があります。
「実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた」橋本群・陸軍中将(駐屯軍参謀長)
実弾を使用しない演習中だったようですね。
調べていて現時点でとても怪しいと思われるのは中国共産党軍です。

葛西純一編訳『新資料・盧溝橋事件』に次のような記述があります。
葛西氏は昭和二十年八月の終戦後、中国に残留し、共産党軍に参加して国民党と戦った経歴がある方です。
兵士向けに配られた小冊子の中に以下のような文言があったということです。

「七・七事変は劉少奇同士の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもので、暗闇の盧溝橋で日中両軍に発砲し宋哲元の第29 軍と日本駐屯軍を相戦わせる歴史的大作戦に導いた。
これによって蒋介石、南京政府は世界有数の精強を誇る日本軍と戦わざるを得なくなった。その結果、滅亡したのは中国共産党ではなく蒋介石、南京政府と日本帝国主義であった」

つまり共産党軍が国民党と日本軍を戦わせるために双方に発砲したという意味ですね。

明日もこの問題を考えていこうと思います。

なお葛西氏の証言には物的証拠が呈示されていないことをお断りしておきます。

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2006年9月12日 (火)

南京大虐殺(3)

あまり紹介し過ぎると東中野先生に怒られそうなんですがもう一日だけ

次の写真はコレです。

Photo_8

ううむ。むごい写真です。これが日本人の虐殺と聞いたら憤りを感じます。
この写真の使われ方はさまざまです。
・朝鮮の独立運動の兵士を虐殺
・南京大虐殺の虐殺
・満州・遼寧での虐殺
・平頂山事件での虐殺
いろんな使われ方をしてます。
※「戦争論」小林よしのり より

実はこの写真はトリミングされていました。

Kubi

上端に「鉄嶺にて銃殺せる馬賊の首
とあります。
日本が関わっていたかも極めて怪しいですが、少なくとも虐殺じゃないようです。

さて最後

Photo_9

これもかなり有名な写真です。
南京だったり重慶だったりしてるようですが虐殺写真として宣伝されているようです。
しかしこの写真の初出には
空襲直後の警報によりパニックを起こした人々が圧死
とあります。

いいとか悪いとかではございません。
戦争は全てのことを利用する、何でもありの行為です。
こんな写真で騙すのもありです。
ただ日本が対抗できなかっただけです。
日本人が下手。。。。と言うのは酷ですね。
あまりにも、くそ真面目過ぎただけのことだと思ってます。

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2006年9月11日 (月)

南京大虐殺(2)

みなさんのクリックのおかげで開設一週間のブログにかかわらず、ブログランキングの歴史カテゴリで10位まで順位を上げる事ができました。ありがとうございます!

ランキングを見て、知らされなかった日本を知る人が一人でも増えると欣喜雀躍の限りです。

さて前回では南京事件にプロパガンタ写真と見られるものが多いと言うことをお話しました。

他の写真についても述べさせていただきます。

Photo_6 

この写真も有名ですね。

日本兵が斬首を楽しんでいるかのように写っています。

しかし一番右側の人物に注目してください。

足の爪先が真後ろを向いてます。

Photo_7 

この写真は「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として略奪された」

と略奪の証拠として紹介されている写真です。

しかしこの写真の撮影者は日本人で、初出は「朝日版支那事変画報」

写真の説明としては

「支那民家で買ひ込んだ鶏を首にぶらさげて前進する兵士(十月二十九日京漢線豊楽鎮にて小川特派員撮影」

となっています。

準拠:南京事件証拠写真を検証する(東中野修三 他) 草思社

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2006年9月10日 (日)

南京大虐殺(1)

南京大虐殺についてはこれまでにもさんざん疑問点が指摘され、現在も否定派、肯定派の間で激しい議論がなされています。
私もこれまで、拙いながらも情報を集めて考えてみたものの、資料が膨大すぎて単純に「あった」「なかった」ではとても片づきません。

ですからここから先は、私が単純な感触で「おかしいな」と思った事象を述べてそれをみなさんに紹介する。という形に留めます。
南京で日本はひどいことをやった、およそ人間の所業とは考えられないほどの残虐な行為を行った、というような内容はこれまでに耳にタコができるほど聞かされて来ました。
それをここで更に繰り返すことは本意ではありません。
反対側からの「こういう考え方もあるよ」という紹介をすることがこのブログの目的です。
批判反論が山ほどあるでしょうが、考えるための情報量の公正を期すために一役買いたいと思います。 

Honchild
さて上の写真は、南京大虐殺を現す写真として、一番有名ではないかと私が思っている一枚です。
南京大虐殺-歴史の真実を語る足跡と証言」の中では
「南京攻略に先立って行われた市街地に対する無差別爆撃」の証拠写真として採用されています。

瓦礫の中で一人泣く、誰にも助けを求めることができない怪我を負った幼児・・・・・

私でなくとも、「戦争は何とむごいことか」と思わせざるを得ない説得力を持った写真です。
しかし同時に撮影された他の写真があることは、知らない方もいるのではないでしょうか?
以下の写真がそれです。
Bmclwon_1  Chi3d_1
何か不自然だな?と思いませんか?
何か用意されたような雰囲気を感じませんか?

以下は「戦時宣伝論(小山栄三)」からの引用です。

各国の通信員はいづれも意識すると、しないとに関わらずその国の利益代表者であるか、またはセンセーショナルなニュースを探し回っている人々であって、甚だしきは支那人以上の捏造ニュースを彼等自身が作るのである。
一列を挙げればインターナショナル・フォトとして全世界のセンセーションをまき起こした、日本軍の爆撃で廃墟になった南京停車場に唯一親から離れて迷子となった二つ位の子供の泣いている悲惨な写真がある。
然しこれは幸にもシカゴ・トリビューン・プレス・サービスのポウェル君がその写真は子供を後から連れてきてポーズさせてとった偽造写真であることを更に写真で証明していたので偽造写真であることを一般人に納得させることが出来たが、これは蒋介石お気入りのハースト系ニュースカメラマンとして、満州事変当時からの其の辣腕を知られている『ニュースリール王』(注:王小亭)の作品であり、バネー号事件の報道と並んで、米国民の対日感情を急激に悪化せしめたと云う曰く付きの宣伝写真である。
支那側は事々に自己の敗戦による悲惨を誇大化して泣訴し、第三国の対日感情を誘発せんとしているのだ。
この種の『拵えられた』宣伝写真が欧州大戦当時既にどれ程重要な役割を演じたかは今猶種々の記録を通じてあまねく知られている事実である。

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