2006年9月 8日 (金)

オランダ領東インド(3)

Malaya003

今日は、オランダ領東インドの人だった、ラジャー・ダト・ノン・チックさんについてお話をさせていただきます。
ノン・チックさんは当時の東インドのマラヤに生まれました。
現在のマレーシアに当たります。
1941年の日本軍侵攻の時は16才の少年でした。
今まで自分たちをいじめていた欧米人が、日本人によってマラヤから追い出される光景を、快哉をもって手記に書き残しています。
日本軍がマレー半島に駐留後は、南方特別留学生となり日本の宮崎と福岡とで学問をしました。
1944年にマラヤに帰り、戦後独立したマレーシアで上院議員にまでなっておられます。

そのノン・チックさん、戦後に日本から来た学者の応対をしました。学者は言います。
「日本軍はマレーの人をたくさん殺したに違いない。それを調べに来た。」と。
ノン・チックさんは驚いて言います。
「日本軍はマレーシア人を一人も殺していません!日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。」

結構あちこちで紹介されているものですが、読んでいない方もきっといます。
日本のよき理解者であるノン・チックさんの詩を紹介させてください。

かつて日本人は清らかで美しかった 

かつて日本人は親切でこころ豊かだった

アジアの国の誰にでも自分のことのように一生懸命つくしてくれた

何千万人もの人のなかには少しは 変な人もいたしおこりんぼやわがままな人もいた

自分の考えを おしつけていばってばかりいる人だっていなかったわけじゃない

でもその頃の日本人はそんな少しのいやなことや不愉快さを越えておおらかでまじめで希望に満ちて明るかった

戦後の日本人は自分たち 日本人のことを悪者だと思い込まされた

学校も ジャーナリズムもそうだとしか教えなかったから

まじめに自分たちの父祖や先輩は悪いことばかりした残酷無情なひどい人たちだったと 思っているようだ

だから アジアの国に行ったらひたすら ペコペコあやまって私たちはそんなことはいたしませんと言えばよいと思っている

そのくせ 経済力がついてきて技術が向上してくると自分の国や自分までがえらいと思うようになってきてうわべや口先では済まなかった悪かったと言いながらひとりよがりの自分本位のえらそうな態度をする

そんな今の日本人が心配だ 

本当にどうなっちまったんだろう日本人は そんなはずじゃなかったのに

本当の日本人を知っているわたしたちは今は いつも 歯がゆくてくやしい思いがする

自分のことや自分の会社の利益ばかり考えてこせこせと身勝手な行動ばかりしている

ヒョロヒョロの日本人はこれが本当の日本人なのだろうか

自分たちだけで集まっては自分たちだけの楽しみやぜいたくにふけりながら自分がお世話になって住んでいる自分の会社が仕事をしているその国と国民のことをさげすんだ眼で見たりバカにしたりする
 
こんなひとたちと本当に仲良くしてゆけるだろうか

どうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ

かなり何回も読んでますが、やはり涙が出てきます。
ノン・チックさんに恥ずかしくない日本にしていきたいですね・・・・

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2006年9月 7日 (木)

オランダ領東インド(2)

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強制栽培制度によって収奪の限りを尽くされた東インドの民衆は、かなわぬながらもオランダに対して立ち上がります。
1873年から始まるアチェ戦争です。
イスラム国であるスマトラ島のアチェ王国は30年に及んでオランダに抵抗しました。
しかしオランダは同じ東インドのジャワの民衆をもオランダ軍に組み入れてこれを鎮圧しました。

「何度戦争しても我々はオランダ人にはかなわない・・・・」
あきらめて心身共に奴隷になって行く東インドの民衆の心が浮かぶようです。

かつてジャワ島中部に君臨したクディリ王国のジョヨボヨ国王はこんな予言を残していました。

「わが王国はどこからか現れる白い人に乗っ取られるであろう、彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。白い人の支配は長く続くが、やがて北方の白い衣をつけた黄色い人が白い人を追い出し、ジャゴン(とうもろこし)の寿命の間、この地を支配した後に“ラトゥ・アディル=正義の神”の支配する祝福される治世がくる。」

東インドの民衆は、こんな当てにもならない予言を信じていたでしょうか?
信じていた人もいたのではないでしょうか?

自分たちでどう抵抗してもオランダ人の近代兵器にはかなわない。

「どこか別の国がオランダ人をおっぱらってくれないだろうか?」

そんな風に考える東インドの民は少なからずいたはずです。
そのような人たちが唯一希望を持てるのがこの予言であったのではないでしょうか?

時は移って1940年代です。
オランダは極東の新しい脅威である大日本帝国の「大東亜共栄圏」構想に自国植民地の危機を察知し、先手を打って宣戦布告してきました。
それに対して日本は今村均中将の指揮する二個師団を以てジャワ島北部に上陸作戦を敢行しました。
あっという間にオランダ人を駆逐する日本軍を見たジャワの民衆の熱狂はすごいものだったようです。
「ジョヨボヨの予言の通りだ!」
そして占領後の日本軍は、東インドの民に対して我が国民のように接しました。
今村司令官が、オランダ駆逐後に最初に出した「布告第一号」の内容です。

「日本人とインドネシア人は同祖同族である

日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする

同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する 」

オランダ領東インドの民、いえ、インドネシアの民は驚喜しました。
その後の日本の政策はインドネシアの民の希望に沿ったものでした。

・スカルノら政治犯の釈放
・農業改良指導
・小学校の建設と、児童教育の奨励
・新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊
・英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
・5人以上の集会の自由
・多方面でのインドネシア人登用
・インドネシア民族運動の容認
・インドネシア人の政治参与を容認
・軍政府の下に「中央参議院」を設置
・各州・特別市に「参議会」を設置
・ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
・「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設

日本の「五族共和」「八紘一宇」の精神とはこういうものだったのです。

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2006年9月 6日 (水)

オランダ領東インド(1)

Photo

東南アジアのみならず世界の植民地支配は大航海時代から始まりました。
オランダ、ポルトガルを先頭に、ある者は香辛料、あるものは布教。
色んな目的を持った冒険者が実利を求めて東南アジアを目指しました。

オランダ領東インドとは、現在のマレーシア・インドネシアに当たります。
この地域にコルネリス・ド・ハウトマンが1596年、オランダ人として初めて足を踏み入れました。
ここから350年に渡る欧米の植民地支配が始まります。
当時東インドで栄えていたのはバンテン王国というイスラム教国でしたが、このバンテン王国にオランダの東インド会社は接触しました。
東インド会社は、ポルトガルやイギリスと競争しながら段々とこの地域への支配を固めていきました。

1619年、クーン総督によってジャカルタにオランダ総督府が置かれ、東インド会社はここを本拠地としました。
これを契機に、商館と現地王朝との交易から、直接の植民地支配へと時代は変わっていきます。
第一次~第三次ジャワ戦争と、ジャワの民は東インド会社に対して抵抗を試みますがいずれも鎮圧され、その度支配は強化されていきました。

1799年、東インド会社解散により、オランダ本国政府が直接植民地支配に乗り出します。

1825年、段々と収奪を進めていく東インド会社に対してジャワ島マタラム王国のディポヌゴロ王子は反乱を起こします。
五年に渡ったこの反乱を鎮圧した東インド会社はジャワ島に対しての植民地支配を進めます。

ナポレオン戦争による混乱の時代を経て、再びオランダは東インドに戻って来ます。
1830年、オランダ総督府は、東インドに「強制栽培法」を施行します。
早い話が「コーヒーを作るとオランダ本国が儲かる。だからこれを作れ。しかし賃金はお前達の生きていける最低限度しか与えない。そして栽培ノルマが達成できなかったら処罰をするのでそのつもりで」
という法律です。

現地での自然な形での栽培を禁止して、お金になるものばかりを作らせたものですから、気候が少し不順になっただけで深刻な飢饉が起きるようになりました。
以下オランダの小説「マックス・ハーフェラール」からの引用です。

「飢饉・・・? 豊かにしてかつ肥沃なジャワで飢饉?そう、読者諸君、わずかな歳月のうちに全ての地方が飢饉に襲われ、・・・母は子供を売ってでも食べ物をと思い、・・・そう、母が子を食べてしまった・・・」

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