2006年12月26日 (火)

理解できないヒュンダイ社のCM

このブログでは主に歴史を扱っていますので現在の事を扱うのは、加盟している「新風連」がらみのことくらいに留めております。
その代わりに他のブログがやらない、くどい歴史の探究をやっていますので今回のテーマはどうかと思うのですが、あまりに衝撃なので取り挙げずにおれません。

既に知っている方もいらっしゃると思いますが、このCMをご覧になって下さい。

http://www.hyundai.co.nz/video_tucson.html
(中央やや右の「barbeque」をクリック願います)

動物虐待ビデオではございません。
れっきとした韓国の車メーカーのCMです。
冗談ではないのです。
車の『宣伝』として使われているものなのです。

一体このCMで何が言いたいというのでしょうか?
猫は美味だとでも言いたいのでしょうか?
初めて見たときは、本当に何が何やらわかりませんでしたので、これを題材にしているブログや掲示板など、見られる限り見てみました。

沢山の方の意見を伺った結果
「ちょっと道をそれるだけで、毎日がこんなに素敵なワイルドアウトドアライフ」
という事を主張したいCMなのかなと思っております。
しかし彼らの立場に立って考えてやろうとしても、こんなものとても理解できません。

竹島の日を契機に韓国に興味を持って10か月になります。
調べてきてわかったのが、韓国という国のあまりにも理解しにくい姿でした。

サッカーで韓国が勝つよりも日本が負ける方が喜ばれること
日本にミサイルを撃ち込む子どもの絵が地下鉄構内に貼られて、誰も違和感を感じないこと
障害者差別が当然で、パラリンピックが放映中止になってしまうこと
柔道、剣道、茶道、果ては皇室まで日本の伝統を「韓国起源だ!」と主張して憚らないこと
ありもしなかった強制連行
従軍慰安婦のでっち上げ
日本領土である竹島の実効支配、漁民銃殺
まだまだあります。

数々の現実を学んでみたつもりですがそれでもこのCMのおぞましさは理解できません。
これを許す土壌がある国に産まれなくてよかった。
こんな国に産まれて自分自身が気づかないうちに歪まなくてよかった。

強引ですが、日本に産まれてきたことに感謝ということでまとめさせていただきます。
怒りの乱文失礼いたしました。

維新政党・新風に投票お願いします!
http://strategy.co.jp/


何かを感じたらクリックお願いします→Banner2_7

| | コメント (13)

2006年9月28日 (木)

故郷忘じがたく候

Photo_17

河野談話が出た背景を分析するために慰安婦問題の初期経過について話して来ました。
次は当然、吉見教授の見つけた資料からまた朝日の狂気の報道、河野談話が出た後も続く日本政府への攻撃、
果ては国連人権委員会でのクマラスワミ報告と続くわけですが、吉田清治やら植村記者やらの悪口言い過ぎて少し気分が悪いのです。
続きはもちろん書いていきますが、今日一日はそういう話を休憩させて下さい。

清涼剤として紹介したいのが司馬遼太郎さんの「故郷忘じがたく候」です。
この本についての疑義もあることも承知していますが、今日は沈寿官さんの誇り高い姿に酔いたい気分です。

さて沈さん一家が日本にやってきたのは豊臣秀吉の朝鮮侵攻、文禄-慶長の役の時の事でした。
終戦の混乱で日本に連れてこられた沈さんの先祖は鹿児島県の串木野そばの島平という海岸に漂着します。

-呼ベドモ人ナシ
という荒涼たる風景であったであろう。
かれらにすれば鹿児島という地名も知らず、方角も知らず、どこへたれを訪ねてゆくあてもなく、白装のすそを踏んで砂浜をさまよい、病人は臥し、婦人は泣き、哀号の声はあたりに満ちた。

悲惨な状態に嘆いていてばかりいても仕方ありません。生きていかねばしょうがありません。
代々陶工であった沈さんのご先祖達は、ここでも陶土を探して窯を作り、焼き物を作り始めます。
そして心ない地元民から好機の目で見られ、砂浜を追われ、苗代川という場所にどうにか集落を構えます。

-コノアタリ、故山に似タリ

というのが苗代川に住まいを定めた理由であったそうです。
「朝鮮から連れてこられた陶工が苗代川にいる」
という噂はやがて鹿児島まで届き、当主の島津義弘が

-者ども全て鹿児島城下に居住せよ。屋敷も与え、保護も加える。

と陶工達を招こうとします。
しかし陶工達は
「高恩感泣スベキコトナレドモ鹿児島ノ城下ニハ参リマセヌ」
とその申し出を断ります。
使者が理由を聞くと
「故郷、哀シク候」
と答えます。それを聞いた使者は
「聞くがよい。この苗代川から鹿児島まではわずか六里にすぎぬ。であるのに、この村におれば故郷哀しからず、六里向こうの鹿児島に行けば故郷哀しとは、あまり気儘な言いざまではあるまいか?」
と質問します。すると陶工達の長老はこう答えます。
「苗代川の近くにある山待楽の丘に登ると東シナ海が見える。その海のはるか向こうに朝鮮の山河が横たわっている。
我々は天運無く先祖の墓を捨ててこの国に連れられてきたが、しかしあの丘に立ち、祭壇を設け、先祖の祀りをすれば遙かに朝鮮の山河が感応し、かの国に眠る祖先の霊をなぐさめることができるであろう。」

この言葉は意外にも島津義弘の怒りを買いませんでした。
「されば苗代川に土地と屋敷を与えよ」という事で苗代川で沈さん達の歴史が始まる事になります。
それはつまり薩摩陶磁の歴史の始まりでした。
島津家の支援もあって揖宿郡と川辺郡に好適な陶土が見つかり、釉薬の原料も発見されました。
李朝の白磁とはひと味違う、厚みの非常に薄い陶器-白薩摩を作り出しました。
島津家の政策により白薩摩は貴重品となり、苗代川の窯は藩立工場となりました。

以後三百年、白薩摩の技法は進化を続け、世界の陶芸の中でもこれほど巧緻なものはあるまいとまで言われるようになりました。

そして初代から数えて十三代の沈寿官がそれぞれ伝統を育ててきました。
後の十四代沈寿官少年は、中学校に入学するや否や、朝鮮人だという理由で暴力的ないじめに遭います。
十数人からさんざん殴られ、家までたどり着いた少年がそこで見たのは、家の前に立つ両親の姿でした。
きっと少年がいじめに遭うのを予想していたのでしょう。
しかし「もうあんな学校には行かない」という少年に十三代沈寿官氏は冷厳に言い放ちます。

「お前には誇り高い血が流れている。島津義弘に誘われても、当時裏切り者の朝鮮人も住んでいた鹿児島に住むのを潔しとせず、故郷を思い出せるこの苗代川に居を構えた。
当時島津義弘に逆らうことは死を意味した。それにも屈せず誇りを貫き通した先祖の血がお前には流れている」


一番になれ、ケンカも勉強も一番になれ、そうすれば周囲から侮られはせぬ、と父親から諭されて少年は戦うことを決意します。

薩摩では、少年が他の少年に対し右肩をわずかにそびやかすだけで挑戦の意を伝えることができた。

毎日沈少年は他の少年との私闘に明け暮れます。そして三年生になった時、同年の他の少年全てに勝利を得ます。
ケンカに明け暮れた三年間の後に誕生したのは、第十四代沈寿官となるであろう、日本人以上に誇り高い少年でした。

誇り高き若き沈寿官は、芸術的な関心に目覚め、展覧会用の作品を求められるようになります。
しかし十三代の当主にそれをいさめられます。
「展覧会などは浮華なものに過ぎぬ。十三代に渡って続いてきた歴史こそがお前の背負うもので、展覧会などに目をくれる暇などお前にはない」
若き沈寿官は父に初めて逆らいます。
「では私のこの芸術への衝動はどう抑えるのですか。私の人生は何のためにあるのですか。教えて下さい!」

十三代沈寿官翁はひとことだけで答えます。

「息子を、茶わん屋にせい」

わしの役目はそれだけしかなかったし、お前の役目もそれだけしかない、と。

十三代が亡くなった後、家を継いだ沈寿官は、父の教えに従って伝統を守り抜きます。
老境になられてから沈さんは韓国へ旅行に行かれています。
ソウル大に招かれて講演を引き受けた沈氏はソウル大の大講堂で学生達に向かって明るく話しますが最後にこんな話をされます。

「これは申し上げていいかどうか・・・・
私には韓国の学生諸君への希望がある。韓国に来て様々の若い人に会ったが、若い人のたれもが口をそろえて三十六年間の日本の圧政について語った。
もっともでありそのとおりであるが、それを言い過ぎる事は若い韓国にとってどうであろう。言うことはよくても言い過ぎるとなるとそのときの心情はすでに後ろ向きである。
新しい国家は常に前へ前へと進まなければならないというのに、この心情はどうであろう。」

「あなた方が三十六年を言うなら・・・・」

「私は三百七十年を言わねばならない」

何かを感じたらクリックお願いします→Banner2_7

| | コメント (6)

2006年9月 2日 (土)

朝鮮半島の歴史(4)

03 「1910年に日本が大韓帝国を併合した可否は様々だが国際法違反とは言えない」
という所まで行きました。

さて併合後です。
よく韓国人から聞く意見は
「日帝は韓半島の資源や土地を収奪した!悪逆非道だ!」
というものがあります。
実際はどうだったのでしょうか?

朝鮮総督府が算出した朝鮮半島でのお金の収支を示す表があります。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1678618

歳入が歳出を上回った期間はありません。
この資料を捏造だと言う人もきっといます。
しかし併合前の朝鮮にダムがありましたか?
鉄道がありましたか?
デパートが、水道が、学校が、病院がありましたか?

収奪しようとする植民地に35年間に渡ってこんな投資を続けた国などありますか?
まずもって絶対存在してません。

資源について言いますと、当時の朝鮮は鉄、砂金が少々取れたようですが、とても収奪の対象になるレベルではありません。
翻って言うと、もし北朝鮮がイラクのように豊富な資源があったなら、七月の国連決議の姿は変わって、今頃アメリカは戦争準備を進めていることでしょう。

シャルル・ダレの「朝鮮事情」の中にこのような文章があります。
「両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事)は一人もいない」
両班というのが当時の大韓帝国の貴族階級の呼び名ですが、おおむね私腹を肥やすのに熱心だったようです。

どこで読んだか不確かですが、農作業をさぼってばかりの朝鮮の農民に
「なぜそんなに働かないのか?」と日本人が問いました。
すると「収穫を上げてもどうせ両班に持っていかれるだけだ」
との答えが返ってきたと言います。

自分達のやってきた非道な事を日本人の仕業にして後世の人に教育する手段は、韓国と中国とはよく似ています。
詳しいことはまた後日に書くつもりですが、自分達の国で行った拷問の写真を捏造して
「日本の仕業だ!」としている例は枚挙に暇がありません。
今日本に流布している「日本は強欲だった!」という評判は、日本によって特権を奪われた両班階級が腹いせのために流したデマゴギーが原型になっていると思っています。

今日の最後はキム・ワンソプさんの言葉で締めます。

「死亡当時、すべての朝鮮人にとって呪いの対象だった閔妃が、今になって自主独立の殉教者として華麗に復活した現象は、韓国人が直面しているアイデンティティーの混乱を端的に示すものだ。
 韓国人が朝鮮王朝を慕い、日本の統治を受けず朝鮮王朝が継続したなら、もっと今日の暮らしが良くなっていると考えるのは、当時の朝鮮の実態についてきちんと分かっていないためだ。
 特に子供と青少年は、きれいな道ときれいな家、整った身なり、上品な言葉遣いのテレビの歴史ドラマを観ながら、朝鮮もそれなりに立派な社会で、外勢の侵略がなかったならば、静かで平和な国家を保てたろうと錯覚する。
 しかし日本が来る前の朝鮮はあまりに未開で悲惨だったという事実を知らねばならない。」

http://www.amazon.co.jp/gp/product/479421152X/249-5622535-9236368?v=glance&n=465392

何かを感じたらクリックお願いします→人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝鮮半島の歴史(3)

Photo_2 Photo_3 さて朝鮮の自力の近代化が不可能と見てとった日本政府は保護国を経て朝鮮を併合します。
併合自体の賛否について色々調べましたが、賛成派反対派それぞれに根拠があるようです。
細かい内容まで入り込んで個々について述べる事はできるでしょうが、それではおそらくこの問題だけで一年かかりましょう。

興味のある方はwikipediaに賛成派と反対派の主張がまとめられていますのでご参照を
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88

以下に私の意見を申し述べます。
当時のアジアは日本とタイを除いて全ての国が欧米の植民地となっておりました。
植民地となるか強い国になるかを国民は選ばねばなりませんでした。
と言いますか、強くなれなかったらイコール植民地でした。
当時の東南アジア諸国が受けた宗主国からの過酷な植民地支配は後日述べます。
日本は強くなる事を望みました。
強くなるために、我が国と、直接の脅威であるロシアとの間に位置する朝鮮を併合しました。
そのことは、現在の価値観で善悪に分類できるものではありません。
強いて言うなら、民族が生き延びるということが正義であったと思っています。

もちろん、富国強兵のために犯罪行為をやってはいけないのですが、今さら『従軍慰安婦は日本軍がトラックで拉致したんだ!』みたいな意見を言う人はそうはいないと思います。

併合自体が違法だったという主張も数多いのですが、議論が分かれている状態で、明らかに違法であるとはとても言えません。
と言うか、国際法の専門家が見ても違法とは言えないようです。
http://homepage1.nifty.com/okotanpe/05i-x12.htm

感情に満ちあふれた意見は賛成派にも反対派にもたくさんありました。
一国の主権がなくなるような問題を冷静に、第三者の視点で見る事自体が不可能なのだろうと思います。

何かを感じたらクリックお願いします→人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝鮮半島の歴史(2)

さて日韓併合までの朝鮮半島の歴史を簡単に述べました。
さて日韓併合です。本題です。
人類史上最悪の植民地支配と言われているPhoto_1 らしい日韓併合です。

最初の写真はソウルにある、李氏朝鮮時代に建立された南大門という建物です。
非常に古い木造建築物として有名なのですが、左の写真は1897年撮影。
右は、正確にはわからなかったのですが1930年代でしょう。
日本併合化のソウルはこのように町並みが変わっていったのです。
興味のある方は併合前後の写真がたくさんありますのでどうぞ↓
http://photo.jijisama.org/index.html

日本は朝鮮の人々を搾取するために併合を行ったと思っている人、いませんか?
とってもとっても違います。
日本人は朝鮮の人達と一緒にロシアに立ち向かおうとしたのです。

言いにくい事ですが朝鮮は併合の時までは日本の奈良時代レベルの未開社会でした。
儒教社会の持つ停滞しやすい性格が原因なのか、清の搾取が原因なのか、朝鮮民族のケンチャナヨ精神が原因なのか、そのどれもが当てはまるのか、現時点で私も単純に断定はできません。
(ケンチャナヨっていうのはハングル語で『気にしない』って語感ですね)
とにかく当時の大韓帝国は世界有数の最貧国だったのです。
そして、放っておくと早晩ロシアが占領してしまう国だったのです。

昨日の日記にロシアの南下指向について書きました。
当時の日本人がロシアに対して持っていた恐怖感は現代の私たちにはとても想像できません。
無遠慮で国際ルールを守らない軍事国家、それも世界最大の陸軍国が朝鮮半島という軍事空白地帯のすぐ後ろにいるのです。
今私たちが北朝鮮に抱いている感覚よりはるかに恐怖だったことでしょう。

日本は朝鮮の自力での近代化を随分支援したと思います。
福沢諭吉、渋沢栄一らは朝鮮の近代革命を目指す金玉均を、私財をなげうって支援しました。
甲斐あってクーデターが一時成功しますが結局、ロシアに事大しようとする閔妃に敗れ、日本に亡命しますがやはり閔妃に暗殺されてしまいます。
この閔妃という女性は当時の朝鮮国王の妃なんですが、かなり頭の回る女性だったようです。
しかしロシアを頼って国を守ってもらおうなんて、あなた泥棒に自分の家守れと(略

とにかく、金玉均のクーデター失敗後、朝鮮の自力での近代化は無理と日本側は判断しました。
幕末の英雄である勝海舟は、「今に朝鮮に西郷隆盛のような者が現れる」と期待しながら「そろそろ現れそうなものだが・・・」と言いつつ死んでいきました。
金玉均を支援した福沢諭吉は、朝鮮という存在全てに望みを失い「脱亜論」を書き記しました。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/datuaron.html
日本が、「朝鮮は自分達が面倒を見ねばどうにもならない」と思わざるを得なかった事が両国の不幸の始まりです。

何かを感じたらクリックお願いします→人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝鮮半島の歴史(1)

ロシアの次に朝鮮半島を見てみましょう。
日本が植民地支配を行ったとさんざん非難されている事を吟味するには朝鮮半島の事情を理解しないと片手落ちです。

・衛氏朝鮮(BC195~BC108)最初の国家
 衛満によって建国、漢の武帝により滅ぼされる。

・原三国時代(BC108~AD四世紀中頃)
 楽浪郡(漢の出先機関)
 馬韓(半島西南部。百済の原型と言われる。農耕民族)
 辰韓(半島東南部。秦から逃れた亡命人が中心と言われる。12の小国に分かれていた)
 弁韓(半島南部・鉄の産地として栄える)

・三国時代(AD四世紀中頃~676)
 ①高句麗
 楽浪郡を攻め滅ぼし一時は半島ほぼ全域を領有。
 しかし隋との戦争で国力を落とし、新羅唐連合に攻め滅ぼされる。
 ②百済
 倭(日本)・高句麗と連合して新羅唐連合軍に対抗。
 日本との友好関係から現在も取り沙汰されることが多い国である。
 660年に新羅に攻め滅ぼされる。
 ③新羅
 百済・高句麗を滅ぼし唐を半島から駆逐し統一国家を作る。

・新羅(676~935)
 強力な王朝制度を作るも官僚の腐敗などを契機に国力を浪費し、農民反乱を境に戦国 時代を招き(後三国時代)後高句麗を前身とする高麗に滅ぼされる。

・高麗(918~1392)
 宋~契丹~金~元~明への朝貢を行うことにより比較的安定した政権を作る。
 高麗磁器、三国史記などにより文化の充実した時代とされる。
 征東行省(元の出先機関)には高麗の国王が任命され、元と共に日本侵攻を計る。
 李成桂のクーデターにより滅ぼされる。

・李氏朝鮮(1392~1910)
 明~清への朝貢を行うことにより比較的安定した政権を作る。
 清の徹底した属国扱いにより朝鮮民族の感情に屈折した影響を与えその影響は現在でも見られる。
 1897年に宗主国が清から日本へと代わる事になり、これ以後13年は大韓帝国と呼ばれる。
 1910年に日本に併合される。

以上が簡単な朝鮮半島の歴史です。
知らなかった事が多く調べていても新鮮でした。
ここで特筆すべきは918年より続いている他国への朝貢だと思います。
現代の感覚では信じられない徹底した属国扱いが行われており、
「弱い」ということはここまで国民の精神を蹂躙してしまうのだなと自分などは思いました。
以下に清への従属ぶりを示す事項を簡単に列挙します。

・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、牛3000頭、
 馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない。

(参照:http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea2.html

このような他国からの支配を918年から受けていて、国民感情が鬱屈しないはずがありません。
自分は最近日韓翻訳チャットに出入りする事が多いのですが、韓国の人は90%以上が国の格の上下に異様にこだわります。
日本人には想像できない鬱屈した劣等感があることが体感できます。
現在の韓国の反日行動を見る上で、劣等感という要素を抜きにして語る事は不可能です。

何かを感じたらクリックお願いします→人気blogランキングへ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

日韓併合(4)

Photo さて次は創氏改名についてやりましょう。
よく言われている意見を韓国国定歴史教科書より引用しましょう。
-------------------------------------------
わが民族は日帝の内鮮一体、日鮮同祖論、皇国臣民化のような荒唐無稽なスローガンのもとで、わが国の言葉と歴史を学ぶことができなかった。また、皇国臣民の誓詞暗誦、宮城遥拝、神社参拝はもちろん、はなはだしくはわれわれの姓名までも日本式に変えるように強制した。日帝はこれを拒否する人に対しては投獄、殺傷までも躊躇せず、このような政策に従わない宗教系統の学校は閉鎖された。
-------------------------------------------

笑えると言うか、どこから突っ込んでいいかわからない教科書なんですが今日はそれは置いておきます。

創氏改名に絞って話していきます。
金正日さんと李英順さんが結婚したとします。
日本なら奥様の英順さんの名前が金英順になるところです。
しかし当時の大韓帝国では名前は変わらずずっと李英順さんでした。
日本の一部であった朝鮮地方で、そのような名前制度を続けていくのはとても戸籍管理がやりにくい事でした。
ですから、家の代表となる「氏」を定めよ。
というのが創氏改名令です。
正確には「1939年11月10日朝鮮総督府制令第19号」と言います。

さて氏というのは一家に一つというのが当時の朝鮮総督府の政策でしたが、姓はそのままでよいという仕組みでした。
つまり
「あそこは金正日さんと李英順さんの家庭だよ」
であったのが
「あそこは金さんの家だよ。奥さんの氏は金、姓名は李英順」
というのが制令の内容です。
しかもこれは強制ではなく、当時でさえ20%が届け出をせずによく、それについての罰則など何もありません。
届け出がない家庭については戸主の姓がそのまま氏になるというだけです。

添付の画像をご覧下さい。
以下に読み下し文を載せます。

-------------------------------------------
期限は刻々に迫る 八月十日限り 今熟慮断行の時
認識を誤って悔いを子孫に残さぬよう

△好機を逸さぬよう!
△即刻届け出しましょう!

1. 創氏届け出は八月十日までです。その後創氏届けはできません。名の変更には期限がありません。
2. 八月十日までに氏の届けをなさぬ者は従来の戸主の姓がそのまま氏となる結果、戸主の姓が金なれば、金が氏となり、妻尹貞姫は戸主の氏に従い金貞姫となり、子婦の朴南祚は金南祚となり、紛雑するおそれがあります。
 この結果は内地式を設定しなかったことをかえって後悔することになるだろうと思われます。
3. 氏と姓とを混同する向きがあるようですが、氏は家の称号であり、姓は男系の血統を表するもので、両者の性質は全然異なっております。
4. 氏を設定すると従来の姓がなくなるという誤解があるようですが、氏設定後においても姓および本貫はそのまま戸籍に存置されますから心配ありません。
5. 門中または宗中は同一の氏を設定しなければならぬと考えられている人もありますが、大いなる誤解であります。氏は家の称号であるがゆえに、各家異なる氏を設定するのが当然であります。
6. 氏選定について熟慮中のようですが、考えすぎるとかえって迷うおそれがありますから、速やかに簡明なものに決定するのがもっとも理想的であります。
7. 期限も迫りました。不審の点は早く府面邑または法院へお問い合わせください。

大邱地方法院

府面邑--->市町村
-------------------------------------------

今まで夫婦といえども別々の姓を名乗っていた慣習が変わることになるので、当時の朝鮮の人々にとまどいはあっただろうし、それが最善の政策であったかと言うのは私も疑問に思う事もあります。
しかし、併合された地を日本と同じように植民地のような差別をせずに行政を行うのであれば、考えつくした政策だと思っています。

よく読んでみてください。
優しい訓令だとは思いませんか?
当時の総督府の朝鮮の人達に対する愛情が伝わってくる文章とは思いませんか?

何かを感じたらクリックお願いします→人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日韓併合(3)

従軍慰安婦問題についても述べたいと思います。
この話の元ネタは吉田清治なる人物の
『私の戦争 犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 1983)
という本です。
この本の中で日本軍の兵士はトラックで次々と若い女性を拉致してまわる悪逆非道な兵士として描かれております。

1991年に朝日新聞がこの問題で一大キャンペーンを行い、韓国全土に日本への非難の嵐は吹き荒れ、当時の宮沢首相や河野官房長官は事実未確認のまま謝罪を行うという事態にまで追い込まれました。

そしてその後、強制連行の舞台となった済州島で韓国の新聞やソウル大学の教授らが調査を行っておりますがそのような証言は一つも得られませんでした。

それなのになぜ未だに慰安婦問題が日韓の間で問題になっているのかと言いますと、多数の元慰安婦の証言があるからですがこれがまたとんでもない。

他サイトからの引用です。

韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を出版した。

今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは、9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。
残る二人が、金学順さんと、冒頭の4~5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行されたとは述べていない。

結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、というのが実態である。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html
(引用終わり)

記憶があやふやなのか嘘言ってるのか勘違いしてるのかわかりませんが有名な元慰安婦である黄錦周さんの証言を引用します。
【1】従軍慰安婦と戦後補償 (著者:高木健一) ■「生活は貧しく、12歳の時100円で売られた。ソウルの金持ちの家で小間使い。1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、その家の娘の身代わりとなって満州に連行され慰安婦となった。」

【2】国連・経済社会理事会クマラスワミ報告(1996年1月4日)■「17歳のとき、日本人の村の指導メの妻が、未婚の朝鮮人少女全員に、日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。」 

【3】日本TV企業"TBS"「ここが変だよ日本人」というTV-Programより■「私は19歳で学校を卒業する25日前に、日本軍に引っ張り出され、仕方なく慰安所に行ったんだ!」 

【4】日韓社会科教育交流団韓国を訪問(1997夏期)■「満18歳になった時のある日、男がやって来て、村から娘を提供するように言いました。」

【5】元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会(1997年12月5日)■村の班長(日本人)に「一家に一人は行かなくては」と脅かされ、1941年、韓国を離れましたが、到着した場所は、慰安所でした

【6】黄錦周さんの証言を聞く会(2001.07.17/ 東京大学にて)■「14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスの道具にされた。つらい体験だった。」

貴方がもし裁判官だったら、こんな年齢も連行時の状況もむちゃくちゃな証言を採用するでしょうか?
元慰安婦の証言は全てがこのような荒唐無稽なものです。
こんなめちゃくちゃな証言によって多くの日本人が今でも罪悪感に責められているのです。

日本軍によって強制連行された慰安婦など一人も存在しません。
しかるに現在の韓国の盧武鉉政権下の首相である韓明淑はこのような事を発言しています。
「日本のせいでアジアには多くの“めぐみさん”がいる」

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/08/05/20060805000019.html

横田めぐみさんとこんなデタラメな話を同列で論じられるだけでも横田さんのご両親に対してこれ以上ない失礼な事だと思います。

何かを感じたらクリックお願いします→人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日韓併合(2)

Asahis

さて1910年の併合以来朝鮮は日本の一地方でした。
併合についての善悪の問題は置いておいて、事実そういう行政がなされていました。
日本で国家総動員法が施行されたのは1938年
その第四条に定める強制徴用が始まったのは1939年でした。
しかしいわゆる「内地」と台湾についてはすぐにこれが行われましたが朝鮮半島には適用されていませんでした。
自由募集→官斡旋→強制徴用という段階を経てやっと1944年に朝鮮でも強制徴用が始まりました。

なぜ朝鮮では強制徴用を行わなかったのでしょうか?
答えは「必要がなかった」からです。
つまり強制的に行わなくとも労働力が集まったのです。

当時の朝鮮は自力での近代化が全くなされておらず、朝鮮の人民は働くたくとも働ける場所がありません。
同じ国に豊かな地方があればそちらへ出稼ぎに行くのは現代でも珍しいことではありません。
そんな事情から日本国内には朝鮮の人民の流入が続いていました。
あまりそれが甚だしいので朝鮮総督府は
『朝鮮総督府令第6号「労働者募集取締規則」(1918年1月29日)』
という政令を出して規制するほどでした。

昭和34年7月13日の朝日新聞の記事を紹介させていただきます。
朝日新聞はこういう報道を行ったその同じ口で
「強制連行の犠牲者に日本は謝罪と賠償を」とか言ってます。
素朴に、報道機関としての見識を疑ってしまいますね。

さて強制徴用が当時として非合法に行われた事ではない事がわかったのですが、現在でも
「日本軍は朝鮮人をトラックに乗せて拉致し、日本に連れて来た」
というような声をまだたくさん聞きます。

それに対して一言言いたい
「怪しげな証言はたくさんあるが、日本軍がそれを強制的に行ったという証拠はあるのか?」
証言の通りのようなことが行われていたとすれば日本軍にそれを示す証拠が残っていなければいけません。
というか、そこまでの証拠がなければ、当時の日本軍を犯罪者扱いしてはいけないのです。

全裸で佐世保駅前に一日立つ事を賭けてもいいですが、そういう証拠は一つも残っていません。
日本軍が非合法な犯罪を行っていたという証拠がある方はぜひ見せてください。
証拠がなければ、これを裁判だとすると無罪です。
強制連行について日本は朝鮮に謝罪する事は何一つしておりません。

何かを感じたらクリックお願いします→人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日韓併合(1)

「日本は朝鮮半島に残虐な植民地支配をしたんだ」
と思ってる方多いんじゃないでしょうか?
私も以前はそう思っていました。

よくやり玉に挙がってるのは
・強制連行(徴兵)
・創氏改名
・従軍慰安婦

あたりが多いようです。
ひとつひとつ私が集めた証拠を挙げていきましょう。
今日は強制連行について

当時朝鮮に住んでいた人達は
「日本軍の命令によって生活基盤のある住み慣れた朝鮮を離れて無理矢理日本に連行され、鉱山などの辛い労働に従事させられた」
と思っている人、いませんか?
結論を先に言ってしまうと
「ほとんどの人は自主的に日本に来て、終戦後も自主的に残っている」
のです。

国家総動員法による強制徴用が始まったのは日本国内では1939年です。
その時、朝鮮半島ではまだ徴用は始まっていませんでした。
朝鮮においてそれが実行されるのは終戦の一年前である1944年11月です。
ここで
「何かおかしいな?」
と思いませんか?

何かを感じたらクリックお願いします→人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)