「チベット(アラン・ウィニントン)」(2) 活仏の賓客
筆者は1955年の夏から秋にかけてチベット全土を旅行します。
行く道々は中国共産党の熱烈な歓迎があるものと思えますがおいおいわかっていくでしょう。
1949年に国民党との内戦に勝利した共産党は1950年にチベットに軍事侵攻します。
それを受けて1956年からチベット騒乱が起こり、チベット人漢人双方共に大きな犠牲を出すのですがこの旅行はその前年。
動乱前年のチベットをイギリス人はどう見たのでしょうか。
さて本文。
チベットに入る前に筆者は同行する各国の視察団のメンバーと共に健康診断を受けます。
血圧についてかなり厳重な検査が行われたようです。
ご存じのようにチベットは標高が非常に高い高原の国です。
低地からきたものは、彼が健康な若者であったとしても、空気中の酸素の含有量の低さに適応するだけの赤血球の数をもつようになるまでには、六週間から二ヶ月くらいはかかる。その間、二、三歩坂をのぼっても、すぐ目まいがしたり、動悸が早くなったり、たちまち消耗したりする。(略)私が聞かされたところでは、その状態は、あたかも心臓が、その一鼓動ごとに胸部をぶちやぶろうとしているように、また脈を打つ血液が、鼓動する鋼鉄の環で脳髄を圧搾しようとしているかのように感じられるそうである。(P8)
高山病になったこともないので想像もつきません。高地訓練してからじゃないとかなり辛い所のようですね。
ともあれ血圧診断で合格した筆者と一行は、チベット入りする前に成都に何日か滞在します。
成都はラサの東1200km。チベットを目指す人が必ず通過する都市ですがそれでも東京~博多間の1.5倍です。大陸内ではこれでも近い方なんでしょう。
さて筆者と一行は「成都少数民族学院」で幾日かを過ごします。
少数民族を同化させたがっているはずの中共ですのでこの学校で何を教えているのかが気になります。
ちょっとだけ調べてみましたが今はその名前ではなく西南民族学院となっている様子です。
共産党はなぜわざわざ外国人記者を学校で過ごさせたのでしょうか?
弾圧などしていないというアピールでしょうか?
ともあれ筆者はここで幾人かのチベット人の若者と出会います。
ラサの貴族の家で働いていた元小間使いの娘。
同じ家で働いていた厩番の青年と恋に落ちて駆け落ちをして中国軍に救われたとのことです。
身の上話は脚色がついていることがほとんどですのであまり興味はないのですが、仕えていた家の事からチベット貴族がどういう存在であったかを伺わせる記述があってここは興味があります。
社会という天秤でいえば、この二人とちょうど正反対の位置にいるのが、ラサで特殊な貴族の、美しい息女、ジョーマ・ブージェである。その貴族ほ多年、ラマ教の支配的宗派の活仏であったから、もちろん、結婚は禁じられていた。だが彼は、前の第十三世ダライ・ラマの気にいりだったので、五十四歳の年に、恋におちいった噂、教皇から結婚の許しをえた。彼の娘は、数人の子たちのうちの長女で、ラサで買入れた高価な英国製ウーステッドの寛衣を着、大きな金の腕時計をもっていたが、それは秒をきざむだけでなく、月相までしめすという、ひどくごていねいなものだった。彼女は、高雅なチベット服装をしていたが、頭には先きのとがった工人帽をかぶり、おさげにした髪をその中へたくしこんでいた。
チベット貴族というものは贅沢なものだったんだぞ、という描写になっています。
贅沢の限りを尽くすチベット貴族、搾取に苦しむ一般のチベット人というような記述が続くのかもしれません。
あと一妻多夫の制度についての記述もありますね。
私は、一妻多夫の制度について、彼女にきいてみたーこの問題について、私は何回となく質問したが、これが最初の質問だったーすると彼女はいった。「はい、そうです。たしかに一妻多夫制はあります。だが、私の家族ほ、それをいいこととみとめていません。私は、大の女が二人か三人の夫を持っているのを、いくつか知っています。夫たちはみな兄弟です。しかし、二、三人以上になることはありません。その理由は、わかりません」
原始的な結婚制度を共産党の指導により改めた、という事を言いたいのでしょうか?
次は年長の学生、ジャイジ・ロブについての記述と移ります。
ジャイジ・ロブはカム地方に住んでいた小部族の首長の息子です。
彼の父が率いる部族は、マジャ族との抗争に勝利を収めて豊かな生活を享受しますが、逆恨みからチベット政府のお尋ね者となってしまいました。
カムでの生活が危うくなったロブの父は、ロブを甘粛省へ送って移住先の土地を探させます。
そしてロブは国民党と戦闘中の人民解放軍に出会うわけです。1950年のことです。
「あんたもわかってくださると思うが、おれたちは、蒋介石の連中には怨みを持つわけがあった。おれは、事情はどういうことか、あんまりはっきりわからなかったけれど、もし解放軍が蒋介石を敵にしているのなら、おれは解放軍の味方だった。それで、解放軍の輸送を手伝ってやった。それからまた、解放軍が渉外事務といっている仕事もやった。軍隊の先頭に立って、人民に向って、解放軍はよい軍隊で、荷をはこぶ費用はぜんぶはらってくれるし、家畜を殺すことはないのだと説明しました」
ロブの部族は、国民党軍に苦しめられていたようですね。
「敵の敵は味方」とは毛沢東の言葉ですが、その通りの事を人民解放軍は実践してロブの部族を味方につけたわけです。
ロブは解放軍の露払いをしながらカムに近づいていきます。
そして解放軍の仲裁によりロブの部族は敵対している部族と和解します。
おかげでロブの部族はカムの地に安住でき、家畜の盗難の少ない社会が到来し、今では首長であった彼の父親は県政府の役員となって活躍の場をそこへ移すことになりました。
そして、父の薦めと解放軍の援助でもってロブは成都へ教育を受けに来たという次第です。
共産党の懐柔策がよくわかるお話ですが、話し合いで部族間の調停を行い、結果として平和な暮らしができるようになってみな満足しているのでしたら、これはあまり細かい非難はせず認めるべきでしょう。
共産党支配により喜んでいた人もいた、ということですね。
最後にロブは、長年敵対していた宿敵、マジャ族の若者と友人になれたことを筆者に紹介します。
ロブは、やはり学生になってきているマジャ族の一人を私に、紹介した。二人はたがいにしたたか肩をたたきあい、それからロブは説明した。「最初は、われわれは顔を会わせたくもなかった。そして、昔の根のかたをつける時をねらって待っていました。だが、その根のおかげで、われわれはたっぶり話し合って、手を振り合うことになったんです。われわれは決闘しないことに同意して、友だちになった」
私がひねくれてるのかもしれませんが、何かうさんくさいですね(笑)。
ともあれ筆者は民族学院での滞在を終わらせてラサへと出発します。
旅に出かける前に、成都でこうした学生たちとかたり合って、チベットの強烈なにおいを嗅がされた私は、行程2400キロ以上におよぶ、「聖都」への旋に出発することが待ち遠しくてたまらなくなった。
どんな共産党のご用意が待っているのでしょうか。
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コメント
とにかく死ねカス
投稿: 人造人間 | 2009年5月30日 (土) 13時29分