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2007年10月 3日 (水)

渡嘉敷島(5)

信憑性は常に疑いながら更に資料の紹介をしていきます。

「ある神話の背景」には当時の古波蔵村長の長いインタビュー記事が載せられています。

「集団自決の数日前ごろは、どういうお仕事が一番大きなものでしたか?」

 私は尋ねた。

「その頃、防衛召集というものがあるにはあったんですが、私には、召集されたことにして実際には、村民の指導をせよ、というような話があったんです」

「もし、空襲があったときとか、敵が上って来た時には、どういうふうに逃げろという話は、軍との間に打ち合わせができていましたんですか?」

「いいえ、全然そういう語はありませんでした」

「敵が上陸した日は一日どういうふうにお過しでしたか」

「つまり敵は阿波連と渡嘉志久方面から上陸して釆ましたですね。それで軍の方も引上げて西山高地へ行ったんです。今の基地の下側の方です。そこに軍は動いた。我々の方、こんど、そこへ行く手前の恩納河原ですね、そこはずっと川がありましてね、山の際で狭いですから、飛行機の爆撃が来ても、まあ、安全地帯な訳です。そこが砲弾の死角に入るんで安全地帯だと思われたので、そこに陣取っておった訳です」

「恩納河原へ行くということは、誰いうともなく?」

「誰いうともなくです。そこで一日を過してその翌日の晩、大雨降りです」

 安里巡査に集められて人々は寄り集って来た。道はぜんぜんわからない。村の人でも入ることを禁じられていた保安林であった。平生から、草木も伐採してはいけないことになっていた。道案内は、村の老人がしてくれた。皆は、二日か三日分くらいの食糧をもって、滑りやすい道を歩いて行った。

軍の方がそこへ集れという所を彼らは目ざして歩いているつもりであった。住民の方は軍に近い方が安全だと思っていた。

(今となってはお互いに地点を確認することも不可能な)その土地に着いてから彼らはタコ壷を掘りかけた。道具がないから、飯盒などいろいろなもので掘った。ようやく体半分ぐらいはいる穴を掘ったところで、ここは軍陣地だというので追い出された。そして結果的には却って敵に近い自決場へ追いやられた。もっともこの詰も赤松隊側からは否定されている。隊側によれば複廓陣地に各隊を配備して壕を掘り出した時には住民はその地点に一人もいはしなかったという。

「古波蔵さんは始終、村の方の先頭に立ってお歩きになりました?」

「先頭といっても、住民と一緒にしか歩きませんでしたね。こっちが指揮しても……自然にそう固まってますから」

「玉砕場にいらしてどうなさいました?」

「初めからそこを玉砕場と決めていた訳ではないですからね」

「それは勿論そうです」

 録音器の中の私の声は慌てて訂正している。

「そこへ集結したらもう防衛隊がどんどん手榴弾を持って来るでしょう」

「配られて何のためだとお思いでした? その時もうぴーんとわかったんですか」

「それから敵に殺されるよりは、住民の方はですね、玉砕という言葉はなかったんですけど、そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたんじゃなくて住民もそうきいたし、防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて来て……安里巡査も現場にきてますよ」

「そこで何となく皆が敵につかまるよりは死んだ方がいい、と言い出したわけですか」

「そうなってるわけですね。追いつめられた状況、手榴弾を配られた状況」

「しかし配られても、まだきっかけがないでしょう」

「その後に敵が上って釆たわけです。迫撃砲がばんばん来る。逃げ場がないです……これだけははっきり言えますが、安里(巡査)さんは赤松さんに報告する任務を負わされているから、といって十五米ほど離れて谷底にかくれていましたよ。君も一緒にこっちへ来いと言ったら、そこへは行かない。見届けますと言って隠れていました」

「それから誰がどういうふうにして皆、死に出したのですか」

「そういう状況ですからね、お互いに笑って死にましょう、と」

「ですけど、手榴弾を抜き出したきっかけのようなものがあったんですか。たとえば、かりに誰かがいよいよ決行しょうと言ったとか」

「決行しようは、ないですね。敵が上陸したということが、まあ、いか(け)ないということですね。何にしてももう決行しようということになって」

「皆、喋ったわけじゃなくて、そういう気持になったわけですか?」

「はい、気持になってるわけです」

 それから古波蔵氏は手榴弾をぬいたが発火しなかった。住民の中には、正しい使い方を知らないものも多かったが、古波蔵氏の場合はそうではなかった。弾が不良品だったのである。そのうちに、隣も隣も発火して、死に出した。

「一発が発火すると、そのまわりに十四、玉名おるですから、破片が当って苦しんでいるのも出て来る訳です。その苦しい状況が、もうこんなに苦しいなら殺してくれ、というようなことになったんです」

「それから後、どうなさいましたか」

 私は辛い質問を続けねばならなかった。

「それからもう、そのへんにいるわけに行かないし、敵は上陸しているし、私はもう家族を置いて自分一人で陣地に馳け出したんですよ。軍隊で機関銃の経験があったもんですからね。軍には機関銃三門あったですかな。敵はもうすぐ前ですからね。機関銃貸さんかって言いましたらね、隊長に許可がなければ貸さないと。敵はすぐそこに来ているのだから貸しなさい、いや貸さない。

それから陣地に一週間おらされたですよ。妻子も私がどこへ行ったかわからないですよ」

「奥さん、心配なさったでしょうね。一週間、しかし、何のために留めおかれたんでしょうね」

「さあ、わかりませんね。警戒されておったのじゃないかと思いますね」

「その間、何をしていらっしゃったんですか」

「何もしません」

「その頃、まだ、赤松隊には壕もないでしょう?」

「壕も完全にないですね。そのへんにいました」

「それから後で!自決のあとで、又もや住民の方が、もう一度頼れるのは軍だけだ、というので、陣地内になだれ込んだそうですね」

「あれはもう、あそこを通らんと恩納河原へ行けないんですね」

「そしたらそこで陣地の方へ来ちゃいけないというわけですか」

「そこに安住の場所を求めるつもりで来てたわけじゃないですけど」

P116~121)

古波蔵村長の証言でもやはり、手榴弾は防衛召集兵が配ったものとされています。

赤松大尉が防衛召集兵に向かって「これで住民を自決させよ」と言って手榴弾を配っていたのならともかく現在までの所そういう証言はありません。

これはやはり防衛召集兵に配った手榴弾が勝手な使われ方をしてしまった可能性が高いのではないでしょうか。

もうひとつ注目すべき部分は赤字にした

そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたんじゃなくて住民もそうきいたし」

という部分です。

非常にあやふやな書き方をされています。

誰が指令を出したのか誰が指令を受けたのかが書かれていません。

「こっちだけがきいたんじゃなくて」という部分はつまり「俺だけじゃなくてみんな聞いてるんだから本当なんだ」という気持ちが裏にある言い方のように思えます。

そして非常に重要な部分にもかかわらずすぐに防衛隊や安里巡査の方に話題をスライドさせています。

この証言は曽根さんのリライトは入っておらずテープに取った録音をそのまま聞こえるままに書いているようです。安里巡査の証言に「一語聞き取れず」などという表現があることがそれを表しています。

この言葉を発した時の古波蔵元村長の胸中にはどんな思いがあったのでしょうか。

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渡嘉敷島(4)

手榴弾についてもよく争点になっているようです。

「鉄の暴風」には以下のような記載があります。

住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。(P35

ここを確認するために曾野さんは赤松元大尉に問いただします。

「自決命令は出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が死ねと言われたのだと思っても仕方がありませんね」

私は質問を始めた。
「手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵には、これは正埋軍ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。

今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います」

 赤松氏は答えた。

「でも実際に、皆さん、集団自決をみられたんでしょう」

 私は尋ねた。これはかなり実は核心を衝いた質問になっていたのだが、私には気がつかなかった。

「薄団がずぶ濡れになって、女の子の髪が泥の中にめり込んでいたのは見たのです」

 赤松氏は言った。

 暫く、重い沈黙が流れた。

「しかしどう思い返してみても、私が亡くなった方をみたのは、ほんの数人なんです。『鉄の暴風』に書かれているように三百二十九人もの屍がるいるいとしているという状況は見たことがないんです」

(「ある神話・・」P130131

「防衛召集兵」と言う言葉を知らなかったので調べてみました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AC%E9%9B%86%E4%BB%A4%E7%8A%B6

「青紙の「防衛召集」とは、空襲などの際に国土防衛のため、予備役・補充兵役・国民兵役(在郷軍人と呼ぶ)を短期間召集すること。(資料・加藤陽子著、吉川弘文館、1996年刊「徴兵制と近代日本」より )」

つまりよく言う「赤紙」ではなく「青紙」というのが防衛召集令状で、そうやって招集された兵は主に予備役や補充兵などの年輩の方が多かったようです。

そう言った「防衛召集兵」はどのような仕事をしていたのか検索してみました。

防衛召集は、正規の手続きを経ることなく、現地部隊が恣意的に戦場動員をしている事例が多い。十七歳から四十五歳までというのは、法のたてまえであって、戦場になってからは十五歳以下の少年や六十歳以上の高齢者まで根こそぎ戦場へ動員された。このようにして戦場に動員された人々は、陣地構築や砲弾運びに使役され、戦闘訓練も受けず、武器も与えられず、一般に階級章もなかった。竹槍だけを持たされていたことから「棒兵隊(ボーヒータイ)」と自嘲する人々も多かった。これらの防衛隊員をひきいて班長や隊長となり、軍当局と隊員との間に立って苦労したのが、役場吏員として、あるいは学校教師として召集を免れていた年配者(在郷軍人)たちであった。

 一九四五年(昭和二十)六月二十三日には「義勇兵役法」が公布されている。この法律によって、十五歳から六十歳までの男子、十七歳から四十五歳までの女子は、すべて「国民義勇戦闘隊」に編成されることになっていた。本土決戦にあたっては産業報国隊なども編成がえをして、二八〇〇万人の国民義勇戦闘隊が動員されることになっていた。戦時立法は、ついに女性に兵役義務をおわせるところまでゆきついたのである。これは、沖縄戦における根こそぎ動員が先例となったものと考えられる。

http://www.k0001.jp/sonsi/vol05a/chap01/sec00/cont00/docu018.htm

簡単に言ってしまうと終戦前の「何でも動員」の時代の産物だったような感じですね。

もう一つ疑問だったのがこの赤松隊は特殊艇で米艦に突撃するのが任務だった訳ですので、そういう手榴弾、小銃などの装備は不十分じゃなかったのかな?と言うものですが、これはまあ、本来の守備隊が沖縄に引き抜かれる事になり、赤松隊しか渡嘉敷島にはいないという状態であったので多少の装備はあったのじゃないかと思います。

さてどうやら赤松隊は、地元の男性が中心であった防衛召集兵に手榴弾を渡したようです。

断定はできません。

その防衛召集兵が手榴弾を自決用に転用してしまったらしいというのが赤松元大尉の言い分です。

隣の座間味島ではこういう証言も出ているようです。

2007年9月29日(土) 朝刊 1・27面 

手榴弾配り自決命令/住民が初めて証言

検定撤回きょう県民大会

 一九四五年三月二十五日、座間味村の忠魂碑前に軍命で集まった住民に対し、日本兵が「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と手榴弾を渡していたことが二十八日、同村在住の宮川スミ子さん(74)の証言で分かった。長年、座間味村の「集団自決(強制集団死)」について聞き取りをしてきた宮城晴美さん(沖縄女性史家)は「単純に忠魂碑前へ集まれでなく、そこに日本軍の存在があったことが初めて分かった」と指摘している。一方、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(主催・同実行委員会)が二十九日午後三時から、宜野湾海浜公園で開かれる。(又吉健次)

 忠魂碑前で日本兵が手榴弾を配ったとする証言は初めて。

 宮川さんは当時、座間味国民学校五年生。米軍が座間味島を空襲した四五年三月二十三日に、母のマカさんとともに家族で造った内川山の壕に避難していた。二十五日夜、マカさんが「忠魂碑の前に集まりなさいと言われた」とスミ子さんの手を引き壕を出た。

 二人は、米軍の砲弾を避けながら二十―三十分かけ、忠魂碑前に着いた。その際、住民に囲まれていた日本兵一人がマカさんに「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と言い、手榴弾を差し出したという。スミ子さんは「手榴弾を左手で抱え、右手で住民に差し出していた」と話す。

 マカさんは「家族がみんな一緒でないと死ねない」と受け取りを拒んだ。スミ子さんはすぐそばで日本兵とマカさんのやりとりを聞いた。二人はその後、米軍の猛攻撃から逃れるため、あてもなく山中へと逃げた。

 聞き取りが当時の大人中心だったため、これまで証言する機会がなかった。スミ子さんは「戦前の誤った教育が『集団自決』を生んだ。戦争をなくすため、教科書には真実を記してほしい」と力を込めた。

 宮城さんは「日本軍が手榴弾を配ったことが、さらに住民に絶望感を与え、『集団自決』に住民を追い込んでいった」と話している。

 一方、県民大会の実行委員会は五万人以上の参加を呼び掛けており、九五年十月二十一日に開かれた米兵暴行事件に抗議の意思を示した県民大会以来十二年ぶりの規模となる。県議会や県婦人連合会、県遺族連合会など二十二団体の実行委員会と約二百五十(二十八日現在)の共催団体が超党派で加わっている。

 大会では実行委員長の仲里利信県議会議長や仲井真弘多県知事、「集団自決」の体験者、女性、子ども、青年団体などが文部科学省に抗議の意思を示す。文科省が高校歴史教科書から沖縄戦の「集団自決」への日本軍の強制を削除させた検定意見の撤回を要求する。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200709291300_01.html

この話は、私などから見れば「米軍に捕らえられて死ぬより苦しい思いをするよりは手榴弾で早く死んだ方が楽ですよ」といわば安楽死を勧めるようなものじゃなかったかと思えます。

しかしこの話の受け取り方はそれぞれでしょう。

「自決せよ」とは言われていないまでも「自決に追い込まれた」という言い方にはなってしまうのでしょう。

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渡嘉敷島(3)

曾野綾子さんの安里元巡査への取材の様子をご紹介します。

安里家は中城の、明るく開けた岡の上にある、新築のモダーンな白い家であった。庭に一本のパパイヤの若木が、ういういしく風に揺れていた。

「恩納河原へ行く前に、分散していた村民をお集めになったのは、どういう理由だったんですか」

「私は地理がわからないので、赤松隊長を探すのに二日かかったわけです。私が、渡嘉敦島へ来てから赤松隊長に会ったのもその日が初めてですからね」

「自決の日が?」

「はい。二十二日に島へ着いて、二十三日がもう空襲ですから。そういうわけで(赤松)隊長さんに会った時はもう敵がぐるりと取り巻いておるでしょう。だから部落民をどうするか相談したんですよ。あの頃の考えとしては、日本人として捕虜になるのはいかんし、又、捕虜になる可能性ほありましたからね。そしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させてお

いてくれ、ということだったです。

 しかし今は、砲煙弾雨の中で、部隊も今から陣地構築するところだし、何が何だかわからない、せっばつまった緊急事態のときですから、そうとしか処置できなかったわけです」

「それで恩納河原が比較的安全な場所だということになった訳ですか」

「私としては比較的安全な場所と思ったわけです、しかも友軍のいるところとそう離れていませんし」

「すると恩納河原へ避難せよという場所の指定はなかったんですか?」

「場所の指定はないですね。思い思いに避難小屋を作ってあったですよ」

「住民は恩納河原に集まれ、といわれた、ということになっているんですが」

恩納河原というのが自決場所のようです。

地図で調べてみましたがこちらの

http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&time=&date=&ttype=&q=%E6%81%A9%E7%B4%8D%E6%B2%B3%E5%8E%9F&sll=36.5626,136.362305&sspn=41.230092,70.488281&ie=UTF8&ll=26.191796,127.360125&spn=0.04544,0.068836&z=14&om=1

「国立沖縄青少年交流の家」あたりが恩納河原と言われていたようですね。

渡嘉志久、阿波連から米軍が上陸。ちょっと不確かですが渡嘉敷からも米軍が上陸してきたとすればここしか逃げ場がなかったでしょう。
元巡査の回想まだ続きます。

「いや各々自分の思い思いのままの避難小屋という立派な小屋を作ってあったですよ。敵はもう上陸してくる。とにかく山の中で、一応かくれておこうと、避難させたわけですよ。隊長も、生きられるまでは生きてくれ、そういう趣旨のもとに、部隊の隣のところに、状況を見ながら……

そういうことだったですがね。戦争のどさくさにまぎれて、皆、あの時、おしつけなかったですからね。集めたら、こういう結果になってしまって。村長以下、皆、幹部もね、捕虜になるよりは死んだ方がいい、その時、私は生かすために、ここ迄苦労して、避難して来たのにね。雨の中を皆、つれて来たのに……敵もおらんのに、どうして死ぬことができるか、とわしは反対(したんです)……生かすために連れて釆た、隊長もそういうお考えで、こっちに、近くで静かにしているように、戦闘の邪魔になるからですね。そういうこと、言うたわけですよね。

 しかし皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群衆心理で半狂乱になっていますからね。恐怖に駆られて……この戦争に会った人でないと(この恐怖は)わからんでしょう。だから、しいて死ぬという、自決しようという、部隊が最後だということの○○(一語不明)を受けて、死のうという。私は今のままなら死ねないなあ、と言ったですがね」

「村の主だった方はあの狭い沢の中で死ぬということについて相談をなさったんですか」

「はい、その人たちは、もう半狂乱になって、恐怖に駆られて、もうこれは当然、捕虜になるよりは死んだ方がましということになって、日本人だという精神じゃっていって、やむを得なかったですね。ことに離島であって、離島になればなるほど、そういう精神が強固ですよ。私はあく迄生きるために釆たんだから、しいてあれなら、アメリカ兵が来て、一人でも会って戦闘でもして(から死のうと思ったのです)、部隊がもう最後という時に、一人は部隊のレンラクに出た筈ですよ。その時に、敵の手相弾、艦砲と共に手相弾投げた音があったですよ。それをもう友軍の最後だ、斬り込み総攻撃だと思って、ああなってしまったわけですよ」

「重大決定をなさろうとしていらした時はどういう方々がいらっしゃいましたか」

「自決する時ですか」

「はい」

「村長とか防衛隊の何人か、役場関係の人もおったと思いますが」

「それで、どうしても死ぬということに…」

「ええ、どうしても死ぬという意見が強かったもんで、わしはサジ投げて・…‥わしはどうしても死ぬ前にアメリカに対抗してでなけれは死ぬ気なかったです。それだけははっきりしてます」

「それから」

「レンラク員を部隊に出しました。その時に突然、友軍とアメリカ軍の射撃があったわけですが、それをもう部落の人は、友軍の最後の総攻撃だと思い違いしてですね、ひどかったもんですからね。死にたい死にたいということで……」

「きっかりと万歳を三唱なさったという説もありますが」

「とにかくいったんは万歳といったわけです」

「それは誰かが万歳を主唱したという訳ではないんですね。なんとなく…

「ええ、なんとなくやったわけじゃないですかねえ」

 友軍の近くにいれば心強いというのはあの当時の誰もが持っていた気持だと安里氏はいう。そして、隊長の最初の意図が伝わらない、ばかりか、全く、反対に書かれているのが辛いと、安里氏はくり返すのである。                                                                                       

「自決の後はどうされましたか」

「重傷者は匿いてですね。それから友軍の機関銃でも借りて、死のうということになって、残って歩ける人たちは行ったです。ところが部隊は、今うちこまれるから、危険だから……又、部隊だって機関銃かすわけはないですよ。その時に皆集まって、がやがやするもんだから、敵の探知器に知られて、ひどくうちこまれたですよ。それからはもう、皆死ぬ気持がなくなったわけですよ。今まで死のうとしてたんだけど」

「第二玉砕場には、それからいらしたわけですね」

「はいはい」
(P123~127)



沖縄タイムスの記者に良心があれば、安里巡査にも取材せずに文章を書いて出版するなどなかったと思います。

しかし昭和二十五年当時の良心というのは、軍の悪口を言うのが良心だったのかもしれません。

しかし事実に基づいていない事で傷つく人の存在を感じる想像力があれば、赤松元大尉の娘さんがどんな思いで育ったかをこのような人たちは考えなかったのでしょうか?

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渡嘉敷島(2)

「鉄の暴風」に描かれた赤松大尉は悪意に満ちた人物として登場します。

     米軍に臆して特攻を中止する。

     住民に「軍陣地に避難せよ」と命じたのに軍の壕には「入るな」と言う。

     その次の日には「軍陣地から去り、米軍のいる渡嘉敷に行け」と言う。

     同じ日に住民に「自決せよ」と命令する。

箇条書きにしても感想は変わりません。
ひどいものですね。。。

しかしここで「本当にそうだったのだろうか」と私たちと同じ疑問を持った曾野綾子さんの記述を紹介します。

もし自決命令があったとしたら、赤松隊長が村人に一人一人「自決せよ」と言って回ったなどということはなかろうと思います。

赤松隊長から住民への意思伝達の順序はどうだったのでしょうか?

命令系統の一端を示す記述が山川泰邦さん著「秘録沖縄戦史」にあります。

三月二十七日-「住民は西山の軍陣地北方の盆地に集結せよ」との命令が赤松大尉から駐在巡査安里喜順を通じて発せられた。

安里巡査というのがキーマンのようですね。

「ある神話の背景」には当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏のこんな証言もあります。

「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

(P122123

当時の村長も言っている所からも安里巡査が軍との連絡役だった可能性は非常に高いと言えるでしょう。

曾野さんはこの安里さんに直接話を聞きに行かれます。

その前に曾野さんは、「鉄の暴風」の取材がどうだったかを伺わせる話を書いておられます。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前にほ訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。(123

「鉄の暴風」の出版は昭和25年です。

このような重大な命令の存在の可否について沖縄タイムスのみならず他の報道機関も20年間ほったらかしだったというのは何という事なのでしょうか。

安里氏がこの命令を受領していなければ他の渡嘉敷村の誰が受領したというのでしょうか。

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渡嘉敷島(1)

渡嘉敷島

まず渡嘉敷島の正確な位置もわからなかったので調べてみました。
Kouro

http://www.dc.ogb.go.jp/nahakou/gaiyo/03.html

沖縄本島のごく近い西にあるのですね。
そして渡嘉敷島の地図
Tokashiki_map

http://www.ritou.com/ritou/tokashiki-P.html

史実では、19453月27日の朝9時頃、南の阿波連、東の渡嘉志久海岸から米軍が上陸した事になっています。地図上の赤丸は上陸地点です。

上の赤丸部分に、「トカシクビーチ」とあるのは「渡嘉志久」と呼びます。赤松隊の主陣地のあった所です。

下の赤丸部分は「阿波連」という部落です。

この渡嘉志久と阿波連に赤松隊、海上挺身第三戦隊は展開して島を守備していました。

守備していたと言っても、特攻挺で出撃する機会を待っていた、というのが正直な所のようですが。

この小さな島で集団自決のあった328日、何が起こったのでしょうか。

沖縄タイムス「鉄の暴風」には以下のような記述があります。

赤松隊長もこの特攻隊を指揮して、米艦に突入することになっていた。ところが、隊長は陣地の壕深く潜んで動こうともしなかった。出撃時間は、別々に経過していく。赤松の陣地に連絡兵がさし向けられたが、彼は、「もう遅い、かえって企図が暴露するばかりだ」という理由で出撃中止を命じた。舟艇は彼の命令で爆破された。明らかにこの「行きて帰らざる」決死行を拒否したのである。特攻隊員たちは出撃の機会を失い、切歯舵腕したが、中には、ひそかに出撃の希望をつなごうとして舟艇を残したのもいた。それも夜明けと共に空襲されて全滅し、完全に彼らは本来の任務をとかれてしまった。翌二十六日の午前六時頃、米軍の一部が渡嘉敷烏の阿波連、トカクシ、渡嘉敷の各海岸に上陸した。住民はいち早く各部落の待避壕に避難し、守備軍は、渡嘉敷島の西北端、恩納河原附近の西山A高地に移動したが、移動完了とともに赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し「住民は捕虜になる怖れがある。軍が併呑してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難策括せよ」と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝盲として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。

軍が避難しろという、西山A高地の一帯、恩納河原附近は、いざという時に最も安全だと折紙をつけられた要害の地で、住民もそれを知っていた。

住民は喜んで軍の指示にしたがい、号の日の夕刻までに、大半は避難を終え軍神地附近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るべからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。あっけにとられた住民達は、すごすごと高地の麓の恩納河原に下り、思い思いに、自然の洞窟を利用したり、山蔭や、谷底の深みや、岩石の硬い谷川の附近に、竹をきって仮小屋をつくった。

 その翌日、再び、赤松大尉から、意外な命令が出された。「住民は、速やかに、軍陣地附近を去り、渡嘉敷に避難しろ」と言い出したのである。渡嘉敷には既に米軍が上陸している。それに二十八日には、米軍上陸地点においては、迫撃砲による物凄い集団射撃が行われていた。渡嘉敷方面は、迫撃砲の射撃があって危険地帯であるとの理由で、村の代表たちは、恩納河原に踏みとどまることを極力主張した。

 同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。

「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員去砕する」というのである。

 この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わすかに五日目だった。米軍の迫撃砲による攻撃は、西山A高地の日本軍陣地に迫り、恩納河原の住民区も脅威下にさらされそうになった。いよいよあらゆる客観情勢が、のっぴきならぬものとなった。迫撃砲が吠えだした。最後まで戦うと言った、日本軍の陣地からは、一発の応射もなく安全な地下壕から、谷底に追いやられた住民の、危険は刻々に迫ってきた。住民たちは死場所を選んで、各親族同士が一塊り一塊りになって、集まった。手付#を手にした族長や、家長が「みんな、笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手相弾の周囲に、二、三十人が集まった。

 住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、-男、女、老人、子供、嬰児-の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は、互いに梶棒で、うち合ったり、剃刀で、自らの頚部を切ったり、鍬で、親しいものの頚を、叩き割ったりして、世にも恐ろしい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも、同時に起り、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた。(「鉄の暴風」P3335)

米軍の上陸があったのは327日ですがこの本の中では26日となっています。

渡嘉敷島の運命を決めた重要な日なのですがまあ、単なる誤記と言えなくもありません。
この中の赤松大尉は敵には怯え卑怯に振る舞い、住民には高圧的に無慈悲な命令を次々出す鬼のような人物に描かれています。

大江健三郎さんの「沖縄ノート」ではどうでしょうか?

慶良問列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の「部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」という命令に発するとされている。                                                  沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題ほ、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めれねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれほ、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。
(「沖縄ノート」P6970

大江さんは『沖縄戦史』を紹介することで赤松大尉の悪行を紹介しています。記述は鉄の暴風とよく似ていますね。

もっともここには座間味島のことも紹介されていますが現状では手が廻るか自信がないので渡嘉敷島についてのみ調べていきます。

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集団自決について

沖縄が今騒動に包まれています。
沖縄タイムズの記事をご紹介します。よくご存じの方は飛ばして読んでください。

2007年9月30日(日) 朝刊 1面 
11万人結集 抗議/検定撤回 9・29県民大会 

私たちは真実を学びたい。次世代の子どもたちに真実を伝えたい―。高校歴史教科書の検定で、文部科学省が沖縄戦「集団自決(強制集団死)」から日本軍強制の記述を削除したことに抗議する「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(主催・同実行委員会)が二十九日午後、宜野湾市の宜野湾海浜公園で開かれた。大会参加者は当初予想を上回る十一万人(主催者発表)。宮古、八重山を含めると十一万六千人に達し、復帰後最大の“島ぐるみ”大会になった。大会では日本軍の命令、強制、誘導などの記述を削除した文科省に対し、検定意見撤回と記述回復を求める決議を採択した。
 戦争を体験した高齢者から子どもまで幅広い年代が参加、会場は静かな怒りに包まれた。県外でも東京、神奈川、愛媛などで集会が開かれ、検定意見撤回と記述回復を求める県民の切実な願いは全国に広がった。

 大会実行委員長の仲里利信県議会議長は「軍命による『集団自決』だったのか、あるいは文科省が言う『自ら進んで死を選択した』とする殉国美談を認めるかが問われている。全県民が立ち上がり、教科書から軍隊による強制集団死の削除に断固として『ノー』と叫ぼう」と訴えた。

 仲井真弘多県知事は「日本軍の関与は、当時の教育を含む時代状況の総合的な背景。手榴弾が配られるなどの証言から覆い隠すことのできない事実」とし、検定意見撤回と記述復活を強く求めた。

 「集団自決」体験者、高校生、女性、子ども会、青年代表なども登壇。検定撤回に応じず、戦争体験を否定する文科省への怒りや平和への思いを訴えた。

 渡嘉敷村の体験者、吉川嘉勝さん(68)は「沖縄はまたも国の踏み台、捨て石になっている。県民をはじめ多くの国民が国の将来に危機を感じたからこそ、ここに集まった。為政者はこの思いをきちっと受け止めるべきだ」とぶつけた。

 体験文を寄せた座間味村の宮平春子さん(82)=宮里芳和さん代読=は、助役兼兵事主任をしていた兄が「玉砕する。軍から命令があった」と話していたことを証言した。

 読谷高校三年の津嘉山拡大君は「うそを真実と言わないで」、照屋奈津美さんは「あの醜い戦争を美化しないで」とそれぞれ訴えた。

 会場の十一万人は体験者の思いを共有し、沖縄戦の史実が改ざんされようとする現状に危機感を募らせた。宮古、八重山の郡民大会に参加した五市町村長を含み、大会には全四十一市町村長が参加した。

 実行委は十月十五、十六日に二百人規模の代表団で上京し、首相官邸や文科省、国会などに検定意見の撤回と記述回復を要請する。

 仲里実行委員長は「県民の約十人に一人が参加したことになる。県民の総意を国も看過できないだろう」と、記述回復を期待した。

検定見直し国会決議も/超党派視野民主が検討

 民主党の菅直人代表代行は二十九日、政府や文部科学省に「集団自決(強制集団死)」で軍強制を削除した検定のやり直しを求め、応じない場合は超党派で国会決議案提出を検討する意向を示した。また、国会の委員会審議の参考人として「集団自決」体験者を招き、証言を直接聴取する考えも明らかにした。

 教科書検定撤回を求める県民大会に出席した後、記者団の取材に応じた菅代表代行は「臨時国会の代表質問や予算委員会審議で取り上げ、文科省の調査官のコントロールでねじ曲げられた検定のやり直しを求める」と強調。「検定の見直しや規則を変えることに応じなければ、国会の意思を問う」とした。野党共闘を軸に、与党にも働き掛け、超党派で提出する考えを示した。

 大会に出席した共産党の市田忠義書記局長は「県民大会の決議の趣旨であれば賛同する」、社民党の照屋寛徳副党首も「検定撤回を求め、国会の意思を示すべきだ」と賛同。国民新党の亀井久興幹事長も「決議に賛成したい」とし、野党各党とも国会決議案提出に賛成する意向だ。

 一方、与党側は、参加した公明党の遠山清彦宣伝局長が「撤回を求めるのは同じだが、国会決議で個別の検定を見直すことは今後の政治介入を許す危険性もあり、慎重に対応したい」との考え。自民党の県選出・出身でつくる「五ノ日の会」の仲村正治衆院議員は「今回の大会決議で要請することが先だ。今後の対応は党の協議次第だ」と述べるにとどまった。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200709301300_01.html

この問題を検証してみたいと思いましたので集団自決について集中的に調べたいと思います。
どちらにしろ更新滞ってますが南京事件にはお待ちいただきます。

まず争点は、渡嘉敷島に於て自決命令があったかどうか、に絞ります。
参考資料はまずは次の三点
・鉄の暴風
http://www.amazon.co.jp/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E8%A8%98-%E9%89%84%E3%81%AE%E6%9A%B4%E9%A2%A8-%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9%E7%A4%BE/dp/4871270017/ref=pd_bbs_sr_1/250-3434259-5258664?ie=UTF8&s=books&qid=1191371233&sr=8-1

・沖縄ノート
http://www.amazon.co.jp/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%A4%A7%E6%B1%9F-%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4004150280/ref=sr_1_1/250-3434259-5258664?ie=UTF8&s=books&qid=1191371271&sr=1-1

・ある神話の背景
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E8%83%8C%E6%99%AF%E2%80%95%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%83%BB%E6%B8%A1%E5%98%89%E6%95%B7%E5%B3%B6%E3%81%AE%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA-1977%E5%B9%B4-%E6%9B%BD%E9%87%8E-%E7%B6%BE%E5%AD%90/dp/B000J8SLJA/ref=sr_1_3/250-3434259-5258664?ie=UTF8&s=books&qid=1191371306&sr=1-3

遺族会が作った戦史や戦闘詳報などもあるようですが入手できればそれも検討していきたいですね。

形としては「ある神話の背景」が「鉄の暴風」の記述を批判する形で書かれている関係上、その批判が妥当なものかを検討していくことになるかと思います。
私の感情としては「自決命令などなかったに違いない」というものがあるのですが、ゆめそれに引っ張られないように、算数を解くような気持ちで読んでいきたいと思います。

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