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2007年10月 3日 (水)

渡嘉敷島(4)

手榴弾についてもよく争点になっているようです。

「鉄の暴風」には以下のような記載があります。

住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。(P35

ここを確認するために曾野さんは赤松元大尉に問いただします。

「自決命令は出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が死ねと言われたのだと思っても仕方がありませんね」

私は質問を始めた。
「手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵には、これは正埋軍ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。

今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います」

 赤松氏は答えた。

「でも実際に、皆さん、集団自決をみられたんでしょう」

 私は尋ねた。これはかなり実は核心を衝いた質問になっていたのだが、私には気がつかなかった。

「薄団がずぶ濡れになって、女の子の髪が泥の中にめり込んでいたのは見たのです」

 赤松氏は言った。

 暫く、重い沈黙が流れた。

「しかしどう思い返してみても、私が亡くなった方をみたのは、ほんの数人なんです。『鉄の暴風』に書かれているように三百二十九人もの屍がるいるいとしているという状況は見たことがないんです」

(「ある神話・・」P130131

「防衛召集兵」と言う言葉を知らなかったので調べてみました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AC%E9%9B%86%E4%BB%A4%E7%8A%B6

「青紙の「防衛召集」とは、空襲などの際に国土防衛のため、予備役・補充兵役・国民兵役(在郷軍人と呼ぶ)を短期間召集すること。(資料・加藤陽子著、吉川弘文館、1996年刊「徴兵制と近代日本」より )」

つまりよく言う「赤紙」ではなく「青紙」というのが防衛召集令状で、そうやって招集された兵は主に予備役や補充兵などの年輩の方が多かったようです。

そう言った「防衛召集兵」はどのような仕事をしていたのか検索してみました。

防衛召集は、正規の手続きを経ることなく、現地部隊が恣意的に戦場動員をしている事例が多い。十七歳から四十五歳までというのは、法のたてまえであって、戦場になってからは十五歳以下の少年や六十歳以上の高齢者まで根こそぎ戦場へ動員された。このようにして戦場に動員された人々は、陣地構築や砲弾運びに使役され、戦闘訓練も受けず、武器も与えられず、一般に階級章もなかった。竹槍だけを持たされていたことから「棒兵隊(ボーヒータイ)」と自嘲する人々も多かった。これらの防衛隊員をひきいて班長や隊長となり、軍当局と隊員との間に立って苦労したのが、役場吏員として、あるいは学校教師として召集を免れていた年配者(在郷軍人)たちであった。

 一九四五年(昭和二十)六月二十三日には「義勇兵役法」が公布されている。この法律によって、十五歳から六十歳までの男子、十七歳から四十五歳までの女子は、すべて「国民義勇戦闘隊」に編成されることになっていた。本土決戦にあたっては産業報国隊なども編成がえをして、二八〇〇万人の国民義勇戦闘隊が動員されることになっていた。戦時立法は、ついに女性に兵役義務をおわせるところまでゆきついたのである。これは、沖縄戦における根こそぎ動員が先例となったものと考えられる。

http://www.k0001.jp/sonsi/vol05a/chap01/sec00/cont00/docu018.htm

簡単に言ってしまうと終戦前の「何でも動員」の時代の産物だったような感じですね。

もう一つ疑問だったのがこの赤松隊は特殊艇で米艦に突撃するのが任務だった訳ですので、そういう手榴弾、小銃などの装備は不十分じゃなかったのかな?と言うものですが、これはまあ、本来の守備隊が沖縄に引き抜かれる事になり、赤松隊しか渡嘉敷島にはいないという状態であったので多少の装備はあったのじゃないかと思います。

さてどうやら赤松隊は、地元の男性が中心であった防衛召集兵に手榴弾を渡したようです。

断定はできません。

その防衛召集兵が手榴弾を自決用に転用してしまったらしいというのが赤松元大尉の言い分です。

隣の座間味島ではこういう証言も出ているようです。

2007年9月29日(土) 朝刊 1・27面 

手榴弾配り自決命令/住民が初めて証言

検定撤回きょう県民大会

 一九四五年三月二十五日、座間味村の忠魂碑前に軍命で集まった住民に対し、日本兵が「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と手榴弾を渡していたことが二十八日、同村在住の宮川スミ子さん(74)の証言で分かった。長年、座間味村の「集団自決(強制集団死)」について聞き取りをしてきた宮城晴美さん(沖縄女性史家)は「単純に忠魂碑前へ集まれでなく、そこに日本軍の存在があったことが初めて分かった」と指摘している。一方、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(主催・同実行委員会)が二十九日午後三時から、宜野湾海浜公園で開かれる。(又吉健次)

 忠魂碑前で日本兵が手榴弾を配ったとする証言は初めて。

 宮川さんは当時、座間味国民学校五年生。米軍が座間味島を空襲した四五年三月二十三日に、母のマカさんとともに家族で造った内川山の壕に避難していた。二十五日夜、マカさんが「忠魂碑の前に集まりなさいと言われた」とスミ子さんの手を引き壕を出た。

 二人は、米軍の砲弾を避けながら二十―三十分かけ、忠魂碑前に着いた。その際、住民に囲まれていた日本兵一人がマカさんに「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と言い、手榴弾を差し出したという。スミ子さんは「手榴弾を左手で抱え、右手で住民に差し出していた」と話す。

 マカさんは「家族がみんな一緒でないと死ねない」と受け取りを拒んだ。スミ子さんはすぐそばで日本兵とマカさんのやりとりを聞いた。二人はその後、米軍の猛攻撃から逃れるため、あてもなく山中へと逃げた。

 聞き取りが当時の大人中心だったため、これまで証言する機会がなかった。スミ子さんは「戦前の誤った教育が『集団自決』を生んだ。戦争をなくすため、教科書には真実を記してほしい」と力を込めた。

 宮城さんは「日本軍が手榴弾を配ったことが、さらに住民に絶望感を与え、『集団自決』に住民を追い込んでいった」と話している。

 一方、県民大会の実行委員会は五万人以上の参加を呼び掛けており、九五年十月二十一日に開かれた米兵暴行事件に抗議の意思を示した県民大会以来十二年ぶりの規模となる。県議会や県婦人連合会、県遺族連合会など二十二団体の実行委員会と約二百五十(二十八日現在)の共催団体が超党派で加わっている。

 大会では実行委員長の仲里利信県議会議長や仲井真弘多県知事、「集団自決」の体験者、女性、子ども、青年団体などが文部科学省に抗議の意思を示す。文科省が高校歴史教科書から沖縄戦の「集団自決」への日本軍の強制を削除させた検定意見の撤回を要求する。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200709291300_01.html

この話は、私などから見れば「米軍に捕らえられて死ぬより苦しい思いをするよりは手榴弾で早く死んだ方が楽ですよ」といわば安楽死を勧めるようなものじゃなかったかと思えます。

しかしこの話の受け取り方はそれぞれでしょう。

「自決せよ」とは言われていないまでも「自決に追い込まれた」という言い方にはなってしまうのでしょう。

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保守系SNS『国民の総意』

新しい風を求めてNET連合 

の白紙撤回を求める署名にご協力をお願いします。

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コメント

こんにちは。
久々に更新された~、と思ったら一気に6つもエントリーされたので読むのに時間がかかりました(^^;

自分も沖縄の件についてはまだまだ不勉強なのですが、「・・・いわば安楽死を勧めるようなもの・・・」の部分は今の私の認識と近いです。

引用されている記事中に出てくる沖縄女性史家の宮城晴美さんの母・初枝さんは座間味島で手榴弾を受け取ったときの様子を手記に書かれていますが、「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさい」と言われて受け取ったそうです。このあたりのことは、当事者でもあっても受け取り方が様々でしょうから「命令」に該当するかどうかの判断は分かれるのもやむなしといったところでしょうか・・・。

沖縄の問題は、地理的・時間軸的にも狭い範囲の出来事にもかかわらず、豊富な資料がある南京や慰安婦問題と違って「証言」が中心となるので本当に判断は難しいですね。

もちろん、慶良間の赤松隊長、座間味の梅沢隊長の話とは違ったところでも同時進行的に様々な出来事があったはずでしょうから、安易な断定は避けなければと私は思っています。

座間味島の件は私も半年ほど前にエントリーを書いたことがあるので、もしよろしければ(^^ゞ
http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-350.html

投稿: j.seagull | 2007年10月 5日 (金) 21時11分

おお seagullさんブログお持ちでしたのですね!

読ませていただきましたが、木崎軍曹の、状況を考えれば優しさの現われと自分などには読めます。
それを殊更に悪し様に変質させてしまうのは朝日のみならず日本人の多くに見られます。
最近「仕方がないのかなあ。。。」と絶望的な気分にもなってくるんですが梅澤さんや赤松さんのお気持ちや親族の気持ちなど考えると辛いですね。

ともあれ渡嘉敷島のことしか調べられてなかったので座間味についてここまでseagullさんが調べておられたのはとても嬉しく勉強になりました。
気まぐれな更新で申し訳ないのですがこれからもよろしくお願いいたします。

投稿: daikichi | 2007年10月11日 (木) 17時58分

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