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2007年10月 3日 (水)

渡嘉敷島(3)

曾野綾子さんの安里元巡査への取材の様子をご紹介します。

安里家は中城の、明るく開けた岡の上にある、新築のモダーンな白い家であった。庭に一本のパパイヤの若木が、ういういしく風に揺れていた。

「恩納河原へ行く前に、分散していた村民をお集めになったのは、どういう理由だったんですか」

「私は地理がわからないので、赤松隊長を探すのに二日かかったわけです。私が、渡嘉敦島へ来てから赤松隊長に会ったのもその日が初めてですからね」

「自決の日が?」

「はい。二十二日に島へ着いて、二十三日がもう空襲ですから。そういうわけで(赤松)隊長さんに会った時はもう敵がぐるりと取り巻いておるでしょう。だから部落民をどうするか相談したんですよ。あの頃の考えとしては、日本人として捕虜になるのはいかんし、又、捕虜になる可能性ほありましたからね。そしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させてお

いてくれ、ということだったです。

 しかし今は、砲煙弾雨の中で、部隊も今から陣地構築するところだし、何が何だかわからない、せっばつまった緊急事態のときですから、そうとしか処置できなかったわけです」

「それで恩納河原が比較的安全な場所だということになった訳ですか」

「私としては比較的安全な場所と思ったわけです、しかも友軍のいるところとそう離れていませんし」

「すると恩納河原へ避難せよという場所の指定はなかったんですか?」

「場所の指定はないですね。思い思いに避難小屋を作ってあったですよ」

「住民は恩納河原に集まれ、といわれた、ということになっているんですが」

恩納河原というのが自決場所のようです。

地図で調べてみましたがこちらの

http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&time=&date=&ttype=&q=%E6%81%A9%E7%B4%8D%E6%B2%B3%E5%8E%9F&sll=36.5626,136.362305&sspn=41.230092,70.488281&ie=UTF8&ll=26.191796,127.360125&spn=0.04544,0.068836&z=14&om=1

「国立沖縄青少年交流の家」あたりが恩納河原と言われていたようですね。

渡嘉志久、阿波連から米軍が上陸。ちょっと不確かですが渡嘉敷からも米軍が上陸してきたとすればここしか逃げ場がなかったでしょう。
元巡査の回想まだ続きます。

「いや各々自分の思い思いのままの避難小屋という立派な小屋を作ってあったですよ。敵はもう上陸してくる。とにかく山の中で、一応かくれておこうと、避難させたわけですよ。隊長も、生きられるまでは生きてくれ、そういう趣旨のもとに、部隊の隣のところに、状況を見ながら……

そういうことだったですがね。戦争のどさくさにまぎれて、皆、あの時、おしつけなかったですからね。集めたら、こういう結果になってしまって。村長以下、皆、幹部もね、捕虜になるよりは死んだ方がいい、その時、私は生かすために、ここ迄苦労して、避難して来たのにね。雨の中を皆、つれて来たのに……敵もおらんのに、どうして死ぬことができるか、とわしは反対(したんです)……生かすために連れて釆た、隊長もそういうお考えで、こっちに、近くで静かにしているように、戦闘の邪魔になるからですね。そういうこと、言うたわけですよね。

 しかし皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群衆心理で半狂乱になっていますからね。恐怖に駆られて……この戦争に会った人でないと(この恐怖は)わからんでしょう。だから、しいて死ぬという、自決しようという、部隊が最後だということの○○(一語不明)を受けて、死のうという。私は今のままなら死ねないなあ、と言ったですがね」

「村の主だった方はあの狭い沢の中で死ぬということについて相談をなさったんですか」

「はい、その人たちは、もう半狂乱になって、恐怖に駆られて、もうこれは当然、捕虜になるよりは死んだ方がましということになって、日本人だという精神じゃっていって、やむを得なかったですね。ことに離島であって、離島になればなるほど、そういう精神が強固ですよ。私はあく迄生きるために釆たんだから、しいてあれなら、アメリカ兵が来て、一人でも会って戦闘でもして(から死のうと思ったのです)、部隊がもう最後という時に、一人は部隊のレンラクに出た筈ですよ。その時に、敵の手相弾、艦砲と共に手相弾投げた音があったですよ。それをもう友軍の最後だ、斬り込み総攻撃だと思って、ああなってしまったわけですよ」

「重大決定をなさろうとしていらした時はどういう方々がいらっしゃいましたか」

「自決する時ですか」

「はい」

「村長とか防衛隊の何人か、役場関係の人もおったと思いますが」

「それで、どうしても死ぬということに…」

「ええ、どうしても死ぬという意見が強かったもんで、わしはサジ投げて・…‥わしはどうしても死ぬ前にアメリカに対抗してでなけれは死ぬ気なかったです。それだけははっきりしてます」

「それから」

「レンラク員を部隊に出しました。その時に突然、友軍とアメリカ軍の射撃があったわけですが、それをもう部落の人は、友軍の最後の総攻撃だと思い違いしてですね、ひどかったもんですからね。死にたい死にたいということで……」

「きっかりと万歳を三唱なさったという説もありますが」

「とにかくいったんは万歳といったわけです」

「それは誰かが万歳を主唱したという訳ではないんですね。なんとなく…

「ええ、なんとなくやったわけじゃないですかねえ」

 友軍の近くにいれば心強いというのはあの当時の誰もが持っていた気持だと安里氏はいう。そして、隊長の最初の意図が伝わらない、ばかりか、全く、反対に書かれているのが辛いと、安里氏はくり返すのである。                                                                                       

「自決の後はどうされましたか」

「重傷者は匿いてですね。それから友軍の機関銃でも借りて、死のうということになって、残って歩ける人たちは行ったです。ところが部隊は、今うちこまれるから、危険だから……又、部隊だって機関銃かすわけはないですよ。その時に皆集まって、がやがやするもんだから、敵の探知器に知られて、ひどくうちこまれたですよ。それからはもう、皆死ぬ気持がなくなったわけですよ。今まで死のうとしてたんだけど」

「第二玉砕場には、それからいらしたわけですね」

「はいはい」
(P123~127)



沖縄タイムスの記者に良心があれば、安里巡査にも取材せずに文章を書いて出版するなどなかったと思います。

しかし昭和二十五年当時の良心というのは、軍の悪口を言うのが良心だったのかもしれません。

しかし事実に基づいていない事で傷つく人の存在を感じる想像力があれば、赤松元大尉の娘さんがどんな思いで育ったかをこのような人たちは考えなかったのでしょうか?

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