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2007年10月 3日 (水)

渡嘉敷島(1)

渡嘉敷島

まず渡嘉敷島の正確な位置もわからなかったので調べてみました。
Kouro

http://www.dc.ogb.go.jp/nahakou/gaiyo/03.html

沖縄本島のごく近い西にあるのですね。
そして渡嘉敷島の地図
Tokashiki_map

http://www.ritou.com/ritou/tokashiki-P.html

史実では、19453月27日の朝9時頃、南の阿波連、東の渡嘉志久海岸から米軍が上陸した事になっています。地図上の赤丸は上陸地点です。

上の赤丸部分に、「トカシクビーチ」とあるのは「渡嘉志久」と呼びます。赤松隊の主陣地のあった所です。

下の赤丸部分は「阿波連」という部落です。

この渡嘉志久と阿波連に赤松隊、海上挺身第三戦隊は展開して島を守備していました。

守備していたと言っても、特攻挺で出撃する機会を待っていた、というのが正直な所のようですが。

この小さな島で集団自決のあった328日、何が起こったのでしょうか。

沖縄タイムス「鉄の暴風」には以下のような記述があります。

赤松隊長もこの特攻隊を指揮して、米艦に突入することになっていた。ところが、隊長は陣地の壕深く潜んで動こうともしなかった。出撃時間は、別々に経過していく。赤松の陣地に連絡兵がさし向けられたが、彼は、「もう遅い、かえって企図が暴露するばかりだ」という理由で出撃中止を命じた。舟艇は彼の命令で爆破された。明らかにこの「行きて帰らざる」決死行を拒否したのである。特攻隊員たちは出撃の機会を失い、切歯舵腕したが、中には、ひそかに出撃の希望をつなごうとして舟艇を残したのもいた。それも夜明けと共に空襲されて全滅し、完全に彼らは本来の任務をとかれてしまった。翌二十六日の午前六時頃、米軍の一部が渡嘉敷烏の阿波連、トカクシ、渡嘉敷の各海岸に上陸した。住民はいち早く各部落の待避壕に避難し、守備軍は、渡嘉敷島の西北端、恩納河原附近の西山A高地に移動したが、移動完了とともに赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し「住民は捕虜になる怖れがある。軍が併呑してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難策括せよ」と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝盲として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。

軍が避難しろという、西山A高地の一帯、恩納河原附近は、いざという時に最も安全だと折紙をつけられた要害の地で、住民もそれを知っていた。

住民は喜んで軍の指示にしたがい、号の日の夕刻までに、大半は避難を終え軍神地附近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るべからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。あっけにとられた住民達は、すごすごと高地の麓の恩納河原に下り、思い思いに、自然の洞窟を利用したり、山蔭や、谷底の深みや、岩石の硬い谷川の附近に、竹をきって仮小屋をつくった。

 その翌日、再び、赤松大尉から、意外な命令が出された。「住民は、速やかに、軍陣地附近を去り、渡嘉敷に避難しろ」と言い出したのである。渡嘉敷には既に米軍が上陸している。それに二十八日には、米軍上陸地点においては、迫撃砲による物凄い集団射撃が行われていた。渡嘉敷方面は、迫撃砲の射撃があって危険地帯であるとの理由で、村の代表たちは、恩納河原に踏みとどまることを極力主張した。

 同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。

「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員去砕する」というのである。

 この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わすかに五日目だった。米軍の迫撃砲による攻撃は、西山A高地の日本軍陣地に迫り、恩納河原の住民区も脅威下にさらされそうになった。いよいよあらゆる客観情勢が、のっぴきならぬものとなった。迫撃砲が吠えだした。最後まで戦うと言った、日本軍の陣地からは、一発の応射もなく安全な地下壕から、谷底に追いやられた住民の、危険は刻々に迫ってきた。住民たちは死場所を選んで、各親族同士が一塊り一塊りになって、集まった。手付#を手にした族長や、家長が「みんな、笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手相弾の周囲に、二、三十人が集まった。

 住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、-男、女、老人、子供、嬰児-の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は、互いに梶棒で、うち合ったり、剃刀で、自らの頚部を切ったり、鍬で、親しいものの頚を、叩き割ったりして、世にも恐ろしい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも、同時に起り、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた。(「鉄の暴風」P3335)

米軍の上陸があったのは327日ですがこの本の中では26日となっています。

渡嘉敷島の運命を決めた重要な日なのですがまあ、単なる誤記と言えなくもありません。
この中の赤松大尉は敵には怯え卑怯に振る舞い、住民には高圧的に無慈悲な命令を次々出す鬼のような人物に描かれています。

大江健三郎さんの「沖縄ノート」ではどうでしょうか?

慶良問列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の「部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」という命令に発するとされている。                                                  沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題ほ、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めれねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれほ、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。
(「沖縄ノート」P6970

大江さんは『沖縄戦史』を紹介することで赤松大尉の悪行を紹介しています。記述は鉄の暴風とよく似ていますね。

もっともここには座間味島のことも紹介されていますが現状では手が廻るか自信がないので渡嘉敷島についてのみ調べていきます。

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