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2007年8月12日 (日)

捕虜の処遇 識者の見解

中島今朝吾中将の指揮する16師団が捕虜をどう扱ったかについて調べていたのですが、その課程で色々な識者の見解に触れることができました。
肯定派、中間派、否定派の順に列挙していきましょう。

○肯定派

・笠原十九司教授
ハーグ陸戦条約の第二十三条の戦闘中の禁止事項として、「敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること」が定められている。右の66連隊のように助命すると約束して投降を呼びかけて捕虜にし、収容して後に刺殺したのであるから、明らかな背信行為であり、重大な国際法違反である。しかし、戦闘詳報の記録には、犯罪行為をやったという意識はまったくない。
(「南京事件」P157)

・藤原彰教授
方面軍司令官松井石根対象は、捕虜の処置についての関心はあまりなかったと思われる。戦後のものと思われるインタビューの中で、南京での捕虜殺害について次のように述べている。
さういふよやうな勢で捕虜も相当できたけれども、捕虜に食はせる物もない。さういう状態で戦闘しつつ捕虜が出来るから捕虜を始末することが出来ない。それでちょん斬ってしまうといふことになった。それで大したことではないのだが、南京の東南方の鎮江との間のところで一万余の捕虜があったのだけれども、そんなのは無論追撃中だから戦闘中と見てもよろしい、又捕虜となっても逃亡する者もあるし、始末が付かぬ者だからシヤーシヤーと射ってしまったのだ。
その死骸が川に流れた。それから問題になったのだ。だからその問題は所謂半戦闘行動である。
捕虜の大量処刑を戦闘行動の一部だとしているのである。松井の捕虜処分の認識については、偕行社の『南京戦史資料集』の解題でも、「松井大将の捉えていた「南京事件」は、外国権益の侵害と一般市民に対する掠奪、暴行、強姦の軍紀風紀問題で、捕虜処分の問題は視野の外であったようだ」としているほどで、ほとんど関心外だったと思われる。捕虜を処分することを、国際法上の犯罪とは考えていなかったのである。
(「南京の日本軍」P35~36)

・洞富雄教授
秦氏(第65連隊の従軍作家であった秦賢助氏)の回想録で注目さるべき点がひとつある。それは、二万の捕虜群の処置について、軍司令部が参謀本部および陸軍省にたいして、再三にわたって請訓し、そのつど中央は適当に処理せよという、あいまいな命令を与えたという事実である。請訓の具体的内容は明らかでないが、秦氏の言うところが真実であるとすれば、この捕虜の虐殺にかんするかぎり、終局的にそれを命令した上海派遣軍司令部もしくは「中支那方面軍」司令部はもとよりのこと、それを阻止しようとしなかった中央もまた、重大な責任を負わなければならないことが知られるわけである。
(「南京事件」P90)

○中間派

・秦郁彦教授
問題は捕虜の「処理」だが、中島日記(十三日)に、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシ」とあるように、捕虜を認めず殺害するのが、師団長の方針だったらしい。ただしこの方針は文書による命令や支持で伝達されたものではなく、口頭による指導として伝えられたようだ。
(「南京事件『虐殺』の構造」P117~118)

・北村稔教授
ここで、中国軍捕虜と日本軍の置かれていた状況を冷静に考えてみたい。まず第一に、食料を調達してきて二万人近い捕虜に食べさせるのは、捕虜を収容した日本軍の部隊ですら十分な食料を確保していなかった状況では不可能であった。それでは、一部の日本軍部隊が行ったように、中国軍捕虜を釈放すべきであったのか。軍閥の兵士を寄せ集めた部隊であれば、兵士は故郷に帰り帰農したかもしれない。しかし捕虜の中には中央軍の精鋭も含まれており、戦争が続いている状況下での捕虜の戦線復帰を促し、日本軍には自分の首を絞めるようなものである。要するに中国軍捕虜も日本軍も、期せずして絶体絶命の状況に置かれてしまったのである。
「皆殺せ」の命令を出した人間の残忍性を認めるのは簡単である。しかし当時の日本軍には一体どのような方法があったのか。捕虜収容に見込みのたたない日本軍の抜け道は、捕虜を餓死させることであったかもしれない。しかしそのためには時間と監視要員が必要で、捕虜の暴動に発展する危険もあった。かくして、せっぱつまったうえでの「皆殺せ」であり、これは状況に対処出来なくなった日本軍の悲鳴ではないのか。
(「南京事件」の探求」P113~114)

○否定派

・東中野教授
もし即時銃殺が当初からの方針であったのであれば、中島師団長は、当初からの「投降兵即時銃殺」という方針に立って、その方針の貫徹に奮闘するのだが、千、五千、一万の群衆ともなると多すぎて、とても銃殺すらできない、と嘆いていたはずである。これを、先の日記に模して文章化すると次のようになる。
大体捕虜にはしない方針なれば片端から之を片付くる(即ち銃殺する)こととなしたるも千五千一万の群衆ともなると多すぎて銃殺することすら出来ず
つまり「捕虜ハセヌ方針」が捕虜処刑命令であったと仮定すると、「片端から銃殺しようとするのだが、多過ぎて、銃殺することすら出来ず」と書かれて当然であった。
ところが、そうは書かれなかった。「片端から銃殺しようとするのだが、武装を解除することすら出来ず」と書かれてあった。
捕虜処刑命令であったと仮定する時、文章に、不自然な捻れが生じてくるのである。この捻れこそ、この誤った仮定から生み出されていた。
捕虜即時処刑という命令など出ていなかったのではないか。そう仮定してみるのもよいであろう。そうすると、右の不可解な疑問は、総て、氷塊してゆくのである。
(「『南京虐殺』の徹底検証」P117~118)

・防衛庁防衛研究所戦史室
南京占領後の捕虜の処遇も十分とは言いがたい。
これは激戦直後の将兵の敵愾心、捕虜収容設備の不備などによるものであるが、捕虜殺害の数はさほど大でないようである。
第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。
これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦死した。なお第十六師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。
(戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)P437)

戦闘捕虜の殺害に関してはまず最初に触れた66連隊問題、そして山田支隊の幕府山事件、そしてこの中島中将の16師団問題と、この三つが語られる事が多いのですがどの研究者の解釈にも共通しているのが、日本軍に捕虜についてのしっかりした方針がなかった事です。
最高司令官の松井石根大将からして上のような認識なのですからその配下の将兵が一貫した方針がある方がおかしいですね。
これが松井大将個人の不勉強に帰するものなのか、当時の日本陸軍の固癖なのかは置いても、計画性のない殺害だから罪がないなどとはとても言えません。
明治の陸海軍の指導部と比べると、認識の甘さがそこかしこに見られます。なぜこんな粗漏な軍隊になってしまったのでしょうか。
ここで私個人の認識を持ち出すのも妙ですが、日露戦役の直前に産まれた私の祖母は
「日本は勝ってばかりで調子に乗っとったんじゃ」とよく言っておりました。
案外この辺が一番的確なのかなあ、とも思います。

該当部分を抽出していて気づいた事として、「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」に、十六師団の捕虜は陸軍刑務所跡に収容したという記述があったことです。
東中野教授も推定の形で似た内容を書いている所ですが、収容について補強する内容が欲しい所です。
しかし補強内容がこれから発掘されるのは正直難しいと感じています。

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コメント

つかですね。
旧日本軍に関しては、もう少し軍事的側面からの言及があって良いと思うんですよ。
旧日本軍オタでも十中八九、旧軍の軍事的常識を逸脱した組織であるとの認識なんです。
南京の虐殺(他に適当な名前がないのでこう書きますが)とかは瑣末で、戦争全体を見た場合に軍部の暴走と言う問題も抜きでも、
軍事上の初歩の初歩、基本の基本を疎かにしていてたアホな軍隊なんですよ。
一方の連合国側では「オペレーショナルリサーチ」と言う、学者を集めて戦術・兵器の統計学的分析を進めて、実際に運用している。
もてる戦力・国力以前に、本来注力すべき部分で中小企業と世界的大企業の事業部くらいの差があった訳です。
所謂「軍部の暴走」も含めて、軍組織として稚拙だった事が問題で、そちらを詰めてみると面白いと思います。

投稿: にか | 2009年10月 9日 (金) 20時53分

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