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2007年8月16日 (木)

幕府山事件(2)

Bakuhuyama

幕府山事件、今回は中間派の秦郁彦教授の見解です。長くなりますがご辛抱ください。

一回の集団殺害では最大規模とされながら今なお謎をはらむ幕府山惨劇の主役は、第十三師団の山田支隊(歩103旅団長山田栴二少将指揮、歩65連隊基幹)である。

(略)幕府山を占領したとき、周辺でぞろぞろと大量の捕虜が投降してきた。鈴木明氏が発掘した山田旅団長メモは「投降兵莫大にて始末に困る」とあり、正確な人数は記していないが、十二月十七日の『朝日新聞』は、「持余す捕虜大量、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦難の種」の見出しで次のように伝えている。

「(南京にて横田特派員十六日)両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大量捕虜とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬほどの少数のため手が廻りきれぬ始末、先ず銃剣を棄てさせ付近の兵営に押込んだ。一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ・・・・・・一番弱ったのは食事で、部隊さへ現地で求めてゐるところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一屋だけは到底食はせることが出来なかった」

前回の記事の栗原さんの回想で「中国兵の「廠舎」だった土壁・草屋根の大型バラックのような建物の列」と表現されていたのが「二十二棟の大兵舎」のようですね。ついこの間まで使っていた兵舎だったのでしょうか?なぜ茶碗もないのかちょっと不思議に思いました。

七名という端数までついているので、正確にカウントしたかに見えるが、異論もあり、実数は八千くらいとの説もある。

この大量の捕虜はどこからやってきたのか。『朝日新聞』は教導隊所属と伝えているが、紫禁山で破れた総隊の全員が逃げ込んでも、これほどの数にはならないはずで、「参謀らしき者もいたが、コメをやると奪いあい、青い草をむしって食べたり、掠奪したらしい新品の靴をかかえたり、同じ敗残兵でも上等には見えなかった。多分、南京から脱出した警察隊」(歩65、平林貞治少尉の回想)だったのかも知れない。

女も少しいたというから、難民もまじっていた可能性もあり、首実検して非戦闘員と判定した者は釈放したとも、相当数(一説には四千人(が火事にまぎれて逃亡したともいう。一万四千余と八千の差はこうした釈放者や逃亡者なのかも知れない。

ともあれ大量の捕虜をかかえこんだ山田支隊長と両角連隊長は困惑し、まず江北を前進中の師団司令部へ、ついで軍司令部へどうすべきか問い合わせた。山田メモは次のように記す。

「十五日 捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ、『始末せよ』との命を受く。各隊食料なく、困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食料ありときき運ぶ。捕虜に食わせることは大変なり。

十六日 相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合せをなさしむ。捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり」

この山田メモは「南京戦史資料集Ⅱ」に収録されている陣中日記のようです。

陣中日記を正として読むと、やはり確固たる方針がなかったことがわかりますね。

山田支隊とは二千か三千程度の兵数だったようですから、それよりはるかに多い投降兵に驚いて困惑している姿が浮かびます。

鈴木明氏が山田元少将から聞いたところによると、この間に軍司令部から憲兵将校が見まわりに来たので、案内して描虜の大群を見せ、「君これが殺せるか」というと、クリスチャンのその将校はうなずいて帰って行ったが、別に軍司令部の参謀から支隊長へ強く、「始末せよ」と電話で連絡してきた。この参謀は上海派遣軍兼中支部方面軍情報参謀の長勇中佐だったと鈴木氏は推測しているが、それを裏書きする材料は二つある。

一つは松井大将の専属副官だった角良春少佐で、『偕行』シリーズ(14)(昭和六十年三月号)で大要次のように証言している。

「十二月十八日朝、第六師団から軍の情報課に電話があった。

  『下関に支部人約十二、三万人居るがどうしますか』

情報課長、長中佐は極めて簡単に『ヤッチマエ』と命令したが、私は事の重大性を思い松井司令官に報告した。松井は直ちに長中佐を呼んで、強く『解放』を命ぜられたので、長中佐は『解りました』と返事をした。

 ところが約一時間ぐらい経って再び問い合せがあり、長は再び『ヤッチマエ』と命じた」

もう一つは、昭和十三年春、長が田中隆吉に語った次のような「告白」である。

 「鎮江付近に進出すると……退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた……(自分は)何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の描虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話に依り伝達した。

 命令の原文は直ちに焼却した。この命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しと言う訳には行かなかった」(田中隆吉『裁かれる歴史』)

 この二つの証言は、前者が九十一歳の老人の記憶、後者は十年後の伝聞という性格から、事実

誤認と思われる要素をふくむが、総合すると山田支隊の描虜問題を指しているように思える。

幕僚が上官の意図に反する指示(指導)をすることは、軍隊の性格上本来はありえないはずだが、下克上、募僚専制の風潮が横溢していたこの時期には必ずしも珍しくなかった。

長はそのなかでも別格の暴れ者で、南京戦線でも粗暴、奇矯な振舞いが目立った。頭山満(右翼の巨頭)から贈られた陣羽織を着て馬にまたがり、従兵に旗差物を持たせて澗歩する姿を目撃した人もいるくらいで、命令違反や捕虜虐殺も、彼を知る人の間では「長ならやりかねない」とうなずく人が多い。

そこへ山田支隊は十九日に浦口へ移動せよ、との命令が届く。支隊長もかばいきれず、捕虜たちの運命は決った。

 山田メモには、

「十八日 捕虜の件で精一杯。江岸に視察す

 十九日 捕虜の件で出発は延期、午前総出で始末せしむ。軍から補給あり、日本米を食す

 二十日 下関より浦口に向う。途中死体累々たり。十時浦口に至り国東支隊長と会見」 

と簡潔にしか記されていないので、捕虜の「始末」が実行された日時はほっきりしないが、十七日夕方に補充兵として着隊した大寺隆上等兵(7中隊)の次のような日記から判断すると、十七日夕方から夜にかけてだったと思われる。

「十八日 今朝は昨日に変る寒さ、夙は吹く、小雪は降る。

 整列は○八三〇。後藤大隊長、矢本中隊長の訓示の後、各分隊に分かれる。午后は皆捕虜兵の片付に行った、オレは指揮班のため行かず。

昨夜までに殺した描虜は約二万、揚子江岸二か所に山のように重なっているそうだ。七時だがまだ片付隊は帰って来ない。

十九日 午前七時半、整列にて清掃作業に行く。揚子江岸の現場に行き、折重なる幾召の死骸に驚く。今日の使役兵師団全部。石油をかけて焼いたため悪臭甚だし。午后二時までかかり作業を終わる」

描虜の大群は、田山大隊の兵士たち(百数十人)に護送され、上元門付近の仮収容所から四列縦隊で長蛇の列を作って江岸まで五キロ以上の道のりを歩いた。数時間かかって江岸に到着したときには日も暮れかかっていた。柳の木が点々としている川原で、少し沖に大きな中州が見え、小型の舟も二隻ほどいた、と栗原利一伍長は回想する。捕虜たちは対岸またほ中洲に舟で運び、釈放すると聞かされて、おとなしく行軍してきたのだが、ここに至って異様な空気に感づいたと思われる。

一人の掃虜が監視役の少尉の軍刀を奪ったのがきっかけになってか、連隊史が記すように渡江中に対岸の中国軍に撃たれたせいか、大混乱となり、機関銃と小銃が火を吐いた。集団脱走とも暴動ともつかぬ殺戮は一時間以上もつづき、夜が明けたあとには二千~三千の描虜の死体がころがり、「処刑」した方の日本軍も将校一、兵八人が混乱に巻きこまれて死んだ。

現場は下関の下流で八卦洲という大きな中洲と向きあい、中国側が草鞋峡とか燕子磯と呼ぶ江岸のあたりで、中国側が五万人前後の「大虐殺」があった地点として従来から指摘しているところである。つまり概略の地点だけは日中双方の主事が符合するが、その他の細部は食いちがいが多く、事件の本質について関係者の間でも解釈が分かれている。これらの疑問点を簡条的に整理してみよう。

1 現場は一か所か二か所か〕

中国側の証言を集めた『証言・南京大虐殺』には、「十二月十八日、草鞋峡における五七四一                                                                                             八人の殺害」と「日付不明、燕子磯(中洲をふくむ)における三万または五万人の殺害」(いずれも対象に難民をふくむ)が併記されている。二件とも東京裁判では訴追されず、生存者が少ないせいか、輪郭がはっきりしない。おそらく同一の事件つまり山田支隊の事件を指すと思われるが、江岸内陸部の凹地の二か所だったという不確実な情報もある。断言できないが、日本側の関係者は一か所だったはずと主張している。

2 殺害した人数〕

日本側関係者の間では、慧のほぼ全員という点では一致するが、江岸への連行=殺害数は五千~六千(栗原)二千(星俊蔵軍曹、千~三千人(平林少尉)とまちまちで、一万数千や八千人との差は不明のままである。連行中に逃亡したり、泳いで中洲に逃れた者もいるというが、確実ではない。

3 計画的殺害かハブニングか〕

 この「暴動」が「釈放」の「親心」を誤解した捕虜の疑心から起きたのか、実は「処刑」を計画した日本側のトリックを感づかれて起きたものか、は微妙なところである。

上海派遣軍参謀副長上村利道大佐は、ニ十一日の日誌に、「N大佐(注:西原一策大佐か)より聞くところによれば、山田支隊措虜の始末を誤り大集団反抗、敵味方共に機銃にて撃ち払い散逸せしものかなりある。下手なことをやったもの」と書いている。

どちらともとれる微妙な言いまわしである。山田支隊関係者の多くはハプニング説をとるが、もし釈放するのならなぜ昼間につれ出さなかったのか、後手にしばった輪虜が反乱を起こせるのか、について納得の行く説明はまだない。     7

両角連隊長の子息に当る両角良彦氏が書いた『東方の夢』に、ナポレオンがシリア遠征時に、師団長の反対を押し切って、三千人の描虜を虐殺した話が出てくる。空腹の捕虜たちはトリックで海岸へつれ出され、海中へ逃げ出したのを銃撃で皆殺しにしたというから、状況としては瓜二つである。

 ともあれ、この措虜の〝反乱〟が、南京アトローシティで最大級の惨事であったことに変りはない。

「南京事件『虐殺』の構造」P140~148

人数、要因などに複数の論点があり未だ論争の的になっている幕府山事件ですが、捕虜を計画的に収容しようとしたと思いたい私にとっては救いになるような箇所がありません。

次回は東中野教授の解釈をご紹介します。

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コメント

なぜ栗原利一の息子の話で南京大虐殺があったことが証明されてしまうのか?

1.栗原利一は魚雷営の1日目の中国人の2千人の斬首について、息子に話していた。

2.大湾子の捕虜殺害は1万3千5百人である(スケッチブックより)。

3.65連隊は全体で2万人の捕虜を殺害した(小野賢二氏の聞き取りより)。
  (当時の新聞なども同じ数字を捕獲捕虜として挙げている。)

4.魚雷営の捕虜殺害は65連隊である(小野賢二氏の聞き取りなどにより)。
  (魚雷営の2日目、3日目は5千人が殺害されている。)

結果として65連隊の2万人の捕獲捕虜の殺害について全て明白になる。

栗原利一は全体で7万余人と記述している(スケッチブックより)。
これは当時公表された捕獲捕虜や遺棄死体数とほぼ一致する。

つまり、日本陸軍は南京陥落時に全体として7万余人の捕虜を確信的に殺害したのである。

(中国側の30万人は死体の数なので矛盾しない。)

投稿: 核心 | 2008年11月10日 (月) 16時37分

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