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2007年8月15日 (水)

幕府山事件(1)

Honda2

ここの所言い訳できない日本軍の捕虜殺害資料ばかり目に付くのでちょっと気分が暗くなっております。
正直これ以上調べたくもないのですが、幕府山事件はどうしても押さえておきたいので調べた結果だけを列挙します。

幕府山事件は前回のエントリーでも述べましたが日本軍の捕虜殺害事件を語る時に必ず登場する有名な事件です。
しかし今なお謎な部分もあり、多くの歴史家の研究対象であり続けています。

まず何かと取りざたされる本多勝一さんの著書「南京への道」より田中三郎さんの証言です。
この田中さん、仮名となっていますが本名は栗原さんと言われて、試行錯誤掲示板でよくお見かけする「核心」さんのお父さんです。

「南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側が否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う。中国側では「四〇万人が虐殺された」といっているらしいが、それは果たしてどこまで具体的な資料をもとにしたものなのか。あと二〇年もたてば、もう事実にかかわった直接当事者は両国ともほとんどいなくなってしまうだろう。今のうちに、本当に体験した者が、両国ともたがいに正確な事実として言い残しておこうではないか。真の日中友好のためにはそのような作業が重要だと思う。」
「描虜が降参してきたからって、オイソレと許して釈放するような空気じゃ全然ない。あれほどにもやられた戦友の仇ですよ。この気持ちほ、あのとき戦った中国側の兵隊にだって分かってもらえると思います。仮に10万殺そうと20万殺そうと、あくまで戦闘の継続としての処理だった。あのときの気持ちに、〝虐殺〟というような考えはひとカケラもありません。みんな『国のため』と思ってのことです。」

以上は生の言葉として記載されています。
下の文は本多さんがまとめているようですね。

第10軍の杭州湾上陸は戦局を一変させた。いわゆる「日軍百万上陸」の報に猛スピードで逃げる蒋介石軍と猛追する日本軍。田中さんの両角部隊の場合、鎮江でやや苦労したあとは大した会戦もなしに長江ぞいに南京へ接近した。途中に造りかけのトーチカがたくさんあり、これが完成していたら大変だったな、と田中(栗原)さんは思った。南京の北で長江が二つに分流し、広い方が大きく湾曲してから十数キロ東でまた合流するあたりに烏龍山という砲台の陣地があるが、ここへ進撃したときはもう組織的抵抗はなかった。さらに分流ぞいに幕府山の手前まできたとき、一挙に膨大な中国兵が投降してきた。各中隊はこれを大わらわで武装解除すると、着のみ着のままのほかは毛布一枚だけ所持を許し、中国兵の「廠舎」だった土壁・草屋根の大型バラックのような建物の列に収容した。これが前記の新聞報道と写真の捕虜群である。その位置は幕府山の丘陵の南側、つまり丘陵をはさんで長江と反対側だったと田中さんは記憶し、当時のスケッチでもそのように描いている。
 収容されてかちの捕虜たちの生活は悲惨だった。一日に、中華料理などで使われる小さな〝支那茶碗″に飯一杯だけ。水さえ支給されないので、廠舎のまわりの排水溝の小便に口をつけて飲む捕虜の姿も見た。
 上からの「始末せよ」の命令のもと、この捕虜群を処理したのは入城式の17日であった。捕虜たちにはその日の朝「長江の長洲(川中島)へ収容所を移す」と説明した。大群の移動を警備すべく、約一個大隊の日本軍が配置についた。なにぶん大勢の移動なので小まわりがきかず、全員をうしろ手にしばって出発したときは午後になっていた。廠舎を出た四列縦隊の長蛇の列は、丘陵を西から迂回して長江側にまわり、4キロか5キロ、長くても6キロ以下の道のりを歩いた。あるいは銃殺の気配を察してか、あるいは渇きに耐えきれずか、行列から突然とびだしてクリーク(水路か沼)にとびこんだ者が、田中(栗原)さんの目にした範囲では二人いた。ただちに水面で射殺された。頭を割られて水面が血に染まるのを見
て、以後は逃亡をこころみる者はいなかった。
 この護送中のこと、田中さんは丘陵の中腹に不審な人影を見た。丘の頂上には日本軍がいたが、中腹に平服らしい人間がちらと認められたという。あるいは国際諜報機関の何かではないかと、なんとなく不安を感じたままになっていた。少なくとも目撃者はいたに違いないと田中さんは思っている。
 捕虜の大群は、こうして長江の川岸に集められた。ヤナギの木が点々としている川原である。分流の彼方に川中島が見え、小型の船も二隻ほど見えた。
 捕虜の列の先頭が着いてから三時間か四時間たつころ、掃虜たちも矛盾に気付いていた。川中島へこの大群を移送するといっても、それらしい船など見えないし、川岸にそのための準備らしい気配もないまま日が暮れようとしている。それどころか、捕虜が集められた長円形状のかたまりのまわりは、川岸を除いて半円形状に日本軍にかこまれ、たくさんの機関銃も銃口を向けている。このとき田中(栗原)さんがいた位置は、丘陵側の日本兵の列のうち最も東端に近いところだった。
 あたりが薄暗くなりかけたころ、田中さんのいた位置とは反対側で、捕虜に反抗されて少尉が一人殺されたらしい。「刀を奪われてやられた。気をつけよ」という警告が伝えられた。田中さんの推測では、うしろ手に縛られていたとはいえ、さらに数珠つなぎにされていたわけではないから、たとえば他の者が歯でほどくこともできる。危険を察知して破れかぶれになり、絶望的反抗をこころみた者がいたのであろうが、うしろ手にしばられた他の大群もそれに加われるというような状況ではなかった。
 一斉射撃の命令が出たのはそれからまもないときだった。
 半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあびせる。一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄・阿鼻地獄であった。田中さん自身は小銃を撃ちつづけたが、いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めたためにできた巨大な〝人柱〟である。なぜあんな人柱ができたのか正確な理由はわからないが、おそらく水平撃ちの銃弾が三方から乱射されるのを、地下
にはむろんかくれることができず、次々と倒れる人体を足場に、うしろ手にしばられていながらも必死で駆け上り、少しでも弾のこない高い所へと避けようとしたのではないか、と田中さんは想像する。そんな〝人柱″が、ドドーツと立っては崩れるのを三回くらいくりかえしたという。一斉射撃は一時間ほどつづいた。少なくとも立っている者は一人もいなくなった。

最後の「人柱」の話は読んでいてたまらなくなります。
これだけの事を経験されて「あのとき戦った中国側の兵隊にだって分かってもらえると思います」というのがピンと来ません。
南京戦を経験した者だけが言える言葉かもしれませんね。

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コメント

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日露戦争時には、捕虜に寛大であったのに・・・。
それだけ余裕がない戦だったのでしょうね。

投稿: 椎名 | 2007年8月15日 (水) 07時17分

ああ 松山ですねえ。
そうですね。「マツヤマー」て言いながら降伏してきたお話よく聞きます。

拡大不拡大で混乱していた上層部、宣戦布告できない状況などが捕虜に対する扱いを非常にあやふやにしてしまったようですね。
それにしても「マツヤマ」の頃の日本軍とあまりに違いすぎるのがまだ納得いきません。
納得いくまで調べることとしますよw

投稿: daikichi | 2007年8月15日 (水) 12時58分

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