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2007年2月25日 (日)

中島中将の日記「捕虜ハセヌ方針ナレバ」(1)

1980年代初旬に、中島今朝吾中将の陣中日誌が日本で発見されました。
中島中将は南京攻略戦当時の上海派遣軍、第16師団の師団長でした。
その中島中将の12月13日の日誌をご紹介します。

十二月十三日 天気晴朗

一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり 支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも 一部の外人が居りて辛ふじて面倒を見あり  出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く 何れ兵は自然に死して往くならん
  此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果なるべし
  依りて師団は 使用の目的あれば何れへなりと立除(退)くことを要求せり
  又日本軍が手当することは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底始末に堪えざるなり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除すること すら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ十三日夕はトラツクの大活動を要したりし乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る
一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり
一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云ふ暇なくして東奔西走しつつあり
一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵キ(器)の収集も之を為さざるべからず兵キ(器)弾薬の如き相当額のものあるらし
 之が整理の為には爾後数日を要するならん

(「南京戦史資料集1」P219~P220 または「南京戦史資料集」(旧版)P325~P326)
(コピー元:http://www.geocities.jp/yu77799/matumoto.html

この「南京戦史資料集」は現在入手困難でして、私も現物を見て確認したい所なのですがままなりません。
上の引用は、虐殺否定派と言われているグース氏のサイトよりのものですが、これは日誌の全文ではありません。
こういう時は全文を通読した方がよいのですが、全文を載せているサイトは「ゆう」氏のページなどになるようです。興味のある方はご参照下さい。
http://www.geocities.jp/yu77799/nakajimakesago.html

この赤太字部分について、まず笠原教授はどう解読しているのか読んでみましょう。

この13日に第16師団だけで、処理(処刑)して殺害しようとした投降兵、敗残兵は二万三千人を超える膨大なものとなった。
(岩波新書「南京事件」P155)

大変あっさりした記述です。
普通に読めば「捕虜を殺せ」としか読めませんから無理もないでしょう。

さて中間派の秦郁彦教授はどう解釈しているでしょうか?

問題は捕虜の「処理」だが、中島日記(13日)に、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルココトナシ」とあるように、捕虜を認めず殺害するのが師団長の方針だったらしい。
ただしこの方針は文書による命令や指示で伝達されたものではなく、口頭による指導として伝えられたようだ。
たとえば、児玉義雄大尉(歩38連隊副官)は次のように証言している。
「彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として”支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ”と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだ、とショックを受けた。(中略)参謀長以下参謀にも電話で意見具申しましたが、採用するところとならず(略)」
児玉大尉のいう師団副官とは宮本四郎大尉のことであろうが、その宮本副官は13日に一万の捕虜が出た報告を伝えると、参謀長が即座に「捕虜はつくらん」と指示したと遺稿に記している。(「轍跡」)
宮本証言では、この捕虜は助命されたらしいというが、その消息ははっきりしない。
いずれにせよ、師団長の方針がどこにあったか推測できよう。

(中公新書「南京事件」P117~118)

この児玉義雄大尉(少佐)の証言の(中略)が私はどうにも嫌なものですから、全文を掲載しているサイトがないか探してみました。
左翼勢力のサイトですがありました。

連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
 師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。
 参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
 部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。
『証言による<南京戦史>(5)』 (内田『「戦後補償」を考える』p.35-36)

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/horyo.htm

さて、秦教授の文章からわかることはまず、16師団の捕虜の処刑は文章による命令では残っていないと言うことですね。
116連隊問題でも取り上げましたが、戦場での臨機応変の命令は、口頭で伝えられることも多かったようですから、残っていないのも仕方ないと思われます。

最後に否定派の東中野教授はどう解釈しているでしょうか?

文章の捻れ
もし、即時銃殺が当初からの方針であったのであれば、中島師団長は、当初からの「投降兵即時銃殺」という方針に立って、その方針の貫徹に奮闘するのだが、千、五千、一万、の群集ともなると多すぎて、とても銃殺すらできない、と嘆いていたはずである。
 これを、先の日記に模して文章化すると次のようになる。
大体捕虜にはしない方針なれば片端から之を片付くる(即ち銃殺する)こととなしたるも千五干一万の群集ともなると多過ぎて銃殺することすら出来ず
 つまり「捕虜ハセヌ方針」が捕虜処刑命令であったと仮定すると、「片端から銃殺しようとするのだが、多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と書かれて当然であった。
 ところが、そうは書かれなかった。「片端から銃殺しようとするのだが、武装を解除することすら出来ず」と書かれてあった。
 捕虜処刑命令であったと仮定する時、文章に、不自然な捩れが生じてくるのである。この捩れこそ、この誤った仮定から生み出されていた。
 捕虜即時処刑という命令など出ていなかったのではないか。そう仮定してみるのもよいであろう。
 そうすると、右の不可解な疑問は、全て、氷解してゆくのである。

「捕虜ハセヌ方針」の真の意味
 この日記には、「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」とか、「当初ヨリ予定ダニセザリシ処ナレバ」というように、ダニとかスラといった強意の副助詞が用いられている。
『国語大辞典』を持ち出すまでもなく、だにもすらも、「程度の甚だしい一事(軽量いずれの方向にも)を挙げて他を類推させる」働きをする。

 つまり、陣中日記の作者は「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」と書き記すことにより、「捕虜ハセヌ方針」の貫徹など、到底不可能、と匂わした。
 換言すれば、「捕虜ハセヌ方針」という最終目的を達成する手段が、支那兵の「武装ヲ解除スルコト」であった。
 では、問題の「捕虜ハセヌ方針」とは、何であったのか。三つのことが考えられる。
 まず、銃殺の方針であったという従来の通説である。しかし、銃殺が当初からの方針であったのであれば、すでに述べたように、中島師団長は「大体捕虜にはしない銃殺の方針であったから、投降兵が来るや、これを片端から銃殺しようとするのだが、千、五千、一万の群集ともなると多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と記していたことであろう。
 ところが、陣中日記の作者は、「銃殺することすら出来ない」とは書かなかった。従って、即時処刑の方針ではなかったことになる。
 では、捕虜にする方針であったのか。しかし、これは、言うまでもなく、「捕虜ハセヌ方針」に反する。となると、残るは、投降兵の追放しかない。戦場の投降兵にたいしては、処刑するか、捕虜とする、追放するか、三つの方針しかないからである。従って、「捕虜ハセヌ方針」とは「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。
 その「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」という表現から、当初の方針(即ち捕虜にはしないで武装解除してから追放することなど)など、とても遂行できないという悲鳴が聞こえてくるのである。

(展展社「『南京虐殺』の徹底検証」P117~120)

さて、この東中野教授の解釈には

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

についての言及がありません。
捕虜を武装解除するのになぜ壕が必要なのか、この疑問について触れるべきだと思います。
すぐ後ろにくっついている文章ですから当然これは読んでおられるはずなのですが何故でしょうか?
申し訳ないのですが東中野教授の資料検討の精査性に疑問を感じます。

次回以降は、肯定派の代表としてのK-K氏
http://members.fortunecity.com/kknanking/log/log02.html
(「柳」さんとのやり取り部分)

否定派の代表としてのグース氏
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8312/index.html
この二氏の見解を紹介していくことで妥当性を発見していきたいと思います。


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コメント

武装解除に壕は必要だと思いますよ.
大量の武器を解体処分するわけにも行かないので,手っ取り早いのは壕を掘って,そこに投棄した後,然るべき部隊に爆破・焼却処分させるのが最も手軽な方法でしょうから.

東中野教授はこれを想定したんじゃないでしょうかね?

投稿: delphinidae | 2007年2月27日 (火) 15時28分

えっと,処理=処刑ではないですよ.処刑なら処刑と書いたでしょうから.

陸軍内では捕虜の取り扱いについて,ハーグ陸戦協定等の遵守を命じた通達が既に出されており,武装解除の後に宣誓させ解放するよう命じているようです.それと,上海派遣軍第13師団司令部発で「多数ノ俘虜アリタルトキハ、之ラ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ、師団司令部二報告スルラ要ス。又、俘虜中、将校ハ、之ヲ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、師団司令部二護送スルヲ要ス。此等ハ軍ニ於テ情報収集ノミナラズ宣伝二利用スルモノニ付、此ノ点、部下各隊ニ、徹底セシムルヲ要ス。但シ、少数人員ノ俘虜ハ、所要ノ尋問ヲ為シタル上、適宜処置スルモノトス」という命令がされているようです.

その意味でも,処置=処刑ととるのはミスリードではないでしょうか.もともと日本軍には捕虜を収容し管理する余力がないため,捕虜にはせず,武装解除・尋問のうえ,今後戦闘に関与しない(武装しないとか)という宣誓をさせた後に釈放するのがデフォルトだったんじゃないでしょうかね?

投稿: alphonse | 2007年2月27日 (火) 19時29分

>デルさん
おお お久しぶりですw

武装解除が目的だったという解釈があるのだとは思っているのですが、前後の部分に書かれた

一、天文台附近の戦闘に於て工兵学校教官工兵少佐を捕へ彼が地雷の位置を知り居たることを承知したれば彼を尋問して全般の地雷布設位置を知らんとせしが、歩兵は既に之を斬殺せり、兵隊君にはかなわぬかなわぬ

とか、

一、本日正午高山剣士来着す 
  捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
  時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり

とかの部分もあわせ読むと、武装解除が目的ってのも無理矢理に感じてしもてですね。。。
なんでまたこんな書き方するのでしょうか。

>alphonseさん
こんばんは。
ええと、alphonseさん=デルさんでしょうか?

肯定派のサイトですが組織図を
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/sougou/sosikizu/G_syanhai.htm
この編成表が正しいものとして考えますと、上海派遣軍の方針として捕虜の武装解除がうたわれている文書があればいいのですが、今のところまだ見つけきれておりません。
私が調べきれる範囲など狭いものですが、13師団と16師団とがまるきり逆のことしてるように読めるのが鬱ですよ。
何か他に良い史料ないもんですかね。。。

投稿: 代吉 | 2007年3月 1日 (木) 00時45分

ごめんなせぇ.うっかり,新聞社用HNで書いちゃった.

命令不達や不徹底の可能性も否定は出来ないんだけど,確かに資料がほしいところですねぇ.「戦闘に関する教示」は大量の捕虜が出た場合の教示なので,一概には言えないかも.とはいえ,次官通牒陸支密第1772号もあるし……

うっかりついでに,13師団の教示はガイシュツでしたね(汗)

「捕虜はとらない方針」というのは,当時日中は交戦国ではありませんでしたから,「捕虜」という名称や扱いが出来ない(捕虜にすると国際問題になる)ため,形式上捕虜にはしないという解釈もあるにはあるんですが・・・・・

投稿: delphinidae | 2007年3月 1日 (木) 10時56分

うーん 正式な戦争ではないから捕虜という名前を使わないってことですかね。
原則から言えば正式な戦闘ではないのなら国際法遵守の必要性もないって意見もあるようですね。
秦郁彦さんの著書にあった記述ですが、憲兵の記録などの超A級史料がほしいところです。
逆に言うと、決定打に欠ける材料しかないから論争が激烈になっているのでしょうけどね。

投稿: 代吉 | 2007年3月 1日 (木) 23時56分

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