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2007年2月25日 (日)

中島中将の日記「捕虜ハセヌ方針ナレバ」(1)

1980年代初旬に、中島今朝吾中将の陣中日誌が日本で発見されました。
中島中将は南京攻略戦当時の上海派遣軍、第16師団の師団長でした。
その中島中将の12月13日の日誌をご紹介します。

十二月十三日 天気晴朗

一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり 支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも 一部の外人が居りて辛ふじて面倒を見あり  出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く 何れ兵は自然に死して往くならん
  此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果なるべし
  依りて師団は 使用の目的あれば何れへなりと立除(退)くことを要求せり
  又日本軍が手当することは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底始末に堪えざるなり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除すること すら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ十三日夕はトラツクの大活動を要したりし乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る
一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり
一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云ふ暇なくして東奔西走しつつあり
一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵キ(器)の収集も之を為さざるべからず兵キ(器)弾薬の如き相当額のものあるらし
 之が整理の為には爾後数日を要するならん

(「南京戦史資料集1」P219~P220 または「南京戦史資料集」(旧版)P325~P326)
(コピー元:http://www.geocities.jp/yu77799/matumoto.html

この「南京戦史資料集」は現在入手困難でして、私も現物を見て確認したい所なのですがままなりません。
上の引用は、虐殺否定派と言われているグース氏のサイトよりのものですが、これは日誌の全文ではありません。
こういう時は全文を通読した方がよいのですが、全文を載せているサイトは「ゆう」氏のページなどになるようです。興味のある方はご参照下さい。
http://www.geocities.jp/yu77799/nakajimakesago.html

この赤太字部分について、まず笠原教授はどう解読しているのか読んでみましょう。

この13日に第16師団だけで、処理(処刑)して殺害しようとした投降兵、敗残兵は二万三千人を超える膨大なものとなった。
(岩波新書「南京事件」P155)

大変あっさりした記述です。
普通に読めば「捕虜を殺せ」としか読めませんから無理もないでしょう。

さて中間派の秦郁彦教授はどう解釈しているでしょうか?

問題は捕虜の「処理」だが、中島日記(13日)に、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルココトナシ」とあるように、捕虜を認めず殺害するのが師団長の方針だったらしい。
ただしこの方針は文書による命令や指示で伝達されたものではなく、口頭による指導として伝えられたようだ。
たとえば、児玉義雄大尉(歩38連隊副官)は次のように証言している。
「彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として”支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ”と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだ、とショックを受けた。(中略)参謀長以下参謀にも電話で意見具申しましたが、採用するところとならず(略)」
児玉大尉のいう師団副官とは宮本四郎大尉のことであろうが、その宮本副官は13日に一万の捕虜が出た報告を伝えると、参謀長が即座に「捕虜はつくらん」と指示したと遺稿に記している。(「轍跡」)
宮本証言では、この捕虜は助命されたらしいというが、その消息ははっきりしない。
いずれにせよ、師団長の方針がどこにあったか推測できよう。

(中公新書「南京事件」P117~118)

この児玉義雄大尉(少佐)の証言の(中略)が私はどうにも嫌なものですから、全文を掲載しているサイトがないか探してみました。
左翼勢力のサイトですがありました。

連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
 師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。
 参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
 部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。
『証言による<南京戦史>(5)』 (内田『「戦後補償」を考える』p.35-36)

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/horyo.htm

さて、秦教授の文章からわかることはまず、16師団の捕虜の処刑は文章による命令では残っていないと言うことですね。
116連隊問題でも取り上げましたが、戦場での臨機応変の命令は、口頭で伝えられることも多かったようですから、残っていないのも仕方ないと思われます。

最後に否定派の東中野教授はどう解釈しているでしょうか?

文章の捻れ
もし、即時銃殺が当初からの方針であったのであれば、中島師団長は、当初からの「投降兵即時銃殺」という方針に立って、その方針の貫徹に奮闘するのだが、千、五千、一万、の群集ともなると多すぎて、とても銃殺すらできない、と嘆いていたはずである。
 これを、先の日記に模して文章化すると次のようになる。
大体捕虜にはしない方針なれば片端から之を片付くる(即ち銃殺する)こととなしたるも千五干一万の群集ともなると多過ぎて銃殺することすら出来ず
 つまり「捕虜ハセヌ方針」が捕虜処刑命令であったと仮定すると、「片端から銃殺しようとするのだが、多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と書かれて当然であった。
 ところが、そうは書かれなかった。「片端から銃殺しようとするのだが、武装を解除することすら出来ず」と書かれてあった。
 捕虜処刑命令であったと仮定する時、文章に、不自然な捩れが生じてくるのである。この捩れこそ、この誤った仮定から生み出されていた。
 捕虜即時処刑という命令など出ていなかったのではないか。そう仮定してみるのもよいであろう。
 そうすると、右の不可解な疑問は、全て、氷解してゆくのである。

「捕虜ハセヌ方針」の真の意味
 この日記には、「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」とか、「当初ヨリ予定ダニセザリシ処ナレバ」というように、ダニとかスラといった強意の副助詞が用いられている。
『国語大辞典』を持ち出すまでもなく、だにもすらも、「程度の甚だしい一事(軽量いずれの方向にも)を挙げて他を類推させる」働きをする。

 つまり、陣中日記の作者は「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」と書き記すことにより、「捕虜ハセヌ方針」の貫徹など、到底不可能、と匂わした。
 換言すれば、「捕虜ハセヌ方針」という最終目的を達成する手段が、支那兵の「武装ヲ解除スルコト」であった。
 では、問題の「捕虜ハセヌ方針」とは、何であったのか。三つのことが考えられる。
 まず、銃殺の方針であったという従来の通説である。しかし、銃殺が当初からの方針であったのであれば、すでに述べたように、中島師団長は「大体捕虜にはしない銃殺の方針であったから、投降兵が来るや、これを片端から銃殺しようとするのだが、千、五千、一万の群集ともなると多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と記していたことであろう。
 ところが、陣中日記の作者は、「銃殺することすら出来ない」とは書かなかった。従って、即時処刑の方針ではなかったことになる。
 では、捕虜にする方針であったのか。しかし、これは、言うまでもなく、「捕虜ハセヌ方針」に反する。となると、残るは、投降兵の追放しかない。戦場の投降兵にたいしては、処刑するか、捕虜とする、追放するか、三つの方針しかないからである。従って、「捕虜ハセヌ方針」とは「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。
 その「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」という表現から、当初の方針(即ち捕虜にはしないで武装解除してから追放することなど)など、とても遂行できないという悲鳴が聞こえてくるのである。

(展展社「『南京虐殺』の徹底検証」P117~120)

さて、この東中野教授の解釈には

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

についての言及がありません。
捕虜を武装解除するのになぜ壕が必要なのか、この疑問について触れるべきだと思います。
すぐ後ろにくっついている文章ですから当然これは読んでおられるはずなのですが何故でしょうか?
申し訳ないのですが東中野教授の資料検討の精査性に疑問を感じます。

次回以降は、肯定派の代表としてのK-K氏
http://members.fortunecity.com/kknanking/log/log02.html
(「柳」さんとのやり取り部分)

否定派の代表としてのグース氏
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8312/index.html
この二氏の見解を紹介していくことで妥当性を発見していきたいと思います。


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2007年2月18日 (日)

捕虜虐殺命令を検証する(6) 左翼の反論

引き続きネット上の左派論客である、k-kさんの東中野説の批判について検討してみましょう。

http://wiki.livedoor.jp/kknanking/d/%c2%e866%cf%a2%c2%e2%cc%e4%c2%ea%a1%a1%c5%ec%c3%e6%cc%ee%c0%e203

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http://wiki.livedoor.jp/kknanking/d/%c6%ee%b5%fe%c2%e7%b5%d4%bb%a6%a1%a1%cf%c0%c5%c0%a4%c8%b8%a1%be%da
(左メニュー:第66連隊問題→●東中野説批判→○第1大隊戦闘詳報は「素人の作文」だったか?)

東中野教授の以下の記述について論評されてます。
では、実際に、第一大隊副官が第一大隊の戦闘詳報を作製したのであろうか。戦場のこと故、大隊副官の負傷による戦線離脱も考えられる。小宅小隊長は次のように述べるのである。
《戦闘詳報について言えば、第四中隊の戦闘詳報は私が書いていました。もちろん捕虜処刑などありませんから、そんなことは書いていません。
 大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかったと思います。》
 たしかに、小宅小隊長代理の言うように、一刈第一大隊長は戦線から離脱していた。そのため第一大体命令-----たとえばすでに見た「第四中隊ハ全員ヲ以テ捕虜ノ監視ニ任ズベシ」という命令----などは、渋谷大尉(第一大隊長代理)の発令となっている。
 つまり、渋谷副官が実際の戦闘を指揮していた。そのため渋谷副官は戦闘の一瞬一瞬に瞬間的な判断を迫られ、戦闘詳報をどうするという立場にはなかった。他方、もう一人の大根田副官は、実戦の経験不足からして、戦闘詳報については暗かった。

 従って、戦闘詳報については素人ばかりの大隊であった。そのため、まともな戦闘詳報は書けなかったというのが、小宅小隊長代理の証言であった。つまり、第一大隊の戦闘詳報は素人の作文に近かったのである。

小宅証言の信憑性
【1】一刈大隊長が負傷した後、戦闘詳報をまともに作成できるのが渋谷大尉だけになった
小宅曹長の証言
大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです
という部分について。「野州兵団の軌跡」183ページから
山田聯隊長は、第一大隊付きの渋谷仁太大尉を長に挺身隊を編成した
という部分を引用されて更に
渋谷大尉は「副官」ではなく、「大隊付き」の将校であった。一般的に、歩兵大隊の副官は少尉を1人充てることとなっており、大尉であった渋谷を副官とすることや、大隊副官を2人充てることなどは当時の慣例にそぐわず、この点からみても、渋谷大尉が副官であったとは考えられない。
と論評されています。

記述を見るにどうやらk-kさんは「野州兵団の軌跡」も自由に参照できるようですね。

以下に116師団の編成表をご紹介します。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/sougou/sosikizu/D114.htm
確かに副官には少尉となっていますね。
残念ですが小宅曹長の証言があやふやであった事がひとつ証明されてしまいました。

【2】大根田少尉は戦闘詳報の作成に詳しくなかった
資料での裏付けがとれなかったと書いておられます。以下論評
少尉という階級は、将校の一番最初の階級であり、実戦を含め、軍務すべてに関して経験が少ないものであろう。
このような意味で、本当に、大根田少尉は戦闘詳報作成に関して際立って「暗かった」と言えるのであろうか?この点、疑問が残るところである。

暗かろうが暗くなかろうが、虚偽の事を詳報に書くというのとはまた少し違う話ですね。
ですから私もここはノーコメントで。

【3】大隊の戦闘詳報は、素人ばかりでまともなものは作成できなかった
小宅曹長の証言について
1つは誤認していたものであり、1つは妥当性に疑問が残るものであった。
と論評されています。

そして東中野教授の以下の文
戦闘詳報は文字どおりこの戦闘に関するすべての事実を詳報するもので、副官または書記が作製し、大隊長の決済を経て連隊に報告するもので、責任者は大隊長ということになります。

ここについて
この見解に整合性をつけるならば、大隊本部の書記も「素人」でなければならない。
とされています。これはその通りですね。
更に
当時、第66連隊第1大隊本部には、小野文助、木村徳延軍曹、稲沢伍長、菅沼伍長という下士官の書記が確認できる(『野州兵団奮戦記』より)。
とあります。
野州兵団の軌跡なのか郷土部隊奮戦記なのか引用もとがごっちゃになっていますがこれは誤記でしょうね。
やはりこれだけのメンツが揃っていて「素人集団だから適当なこと書いちゃったんだよ」
というのは論拠として弱いです。

東中野の見解について
おおもとの小宅曹長の証言に信頼性がないことで東中野教授の論自体にも信頼がおけないことが書かれています。これもその通りですね。
あと、戦闘を実際にしていた期間と詳報を作成していた期間とに少し時間的ずれがあることから考えられることを述べられていますがここはもう触れないでおきます。

結論として
気持ちはわかりますけどちょっと強引すぎます>東中野教授
と述べるしかありません。

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2007年2月17日 (土)

慰安婦関連ニュース マイク・ホンダ議員の活動

昨年10月に、米議会でレイン・エバンス議員らによって提出されていた慰安婦関連法案が不採択になったことをエントリーとして書き記していました。
http://daikichi1966.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_a4a5.html

やれやれと一安心していたら今度はエバンス議員の跡継ぎと言っていいような存在がまた同じような事を画策しております。マイク・ホンダと言う議員です。
Honda_mike

【ワシントン=山本秀也】米下院に提出された慰安婦問題での対日非難決議案をめぐる公聴会が15日、韓国人元慰安婦らが出席して開かれた。決議案を提案したマイク・ホンダ議員は、「いまを逃せば、日本政府に慰安婦問題をめぐる責任を認知させる歴史的な機会は失われる」と、決議案の採択を訴えた。

下院のアジア太平洋小委員会で証言したのは、李容洙さん、金君子さんの韓国人元慰安婦2人と、オランダ人元慰安婦(現オーストラリア国籍)のジャン・ラフ・オハーンさんら。長時間にわたり、「日本政府は公式に謝罪し、補償を支払ってほしい」(金さん)、「20万人の女性が拷問された」(オハーンさん)などと訴えた。決議案採択運動を進める「慰安婦問題ワシントン連合」の徐玉子会長は、日本の歴史責任などを認めた村山内閣が「日本軍部の圧力で短命に終わった」と発言した。
 フォレオマバエガ委員長ら出席議員からは日本批判の発言が目立ったが、共和党のローラバッカー議員は「日本政府は何度も謝罪しており決議案は不要」として、日本を擁護した。
公聴会を前に、加藤良三駐米大使は同委員長に書簡と資料を送り、慰安婦問題に関する日本政府の対応を説明。駐米大使館では「決議案が採択されないよう最大限努力する」としている。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/asia/39495/


ネット上でこの問題について情報を集めてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%80
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?cat=27
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-399.html
http://blogs.yahoo.co.jp/omekoijiro/46020103.html
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2007/02/post_056c.html

マイク・ホンダが中国韓国とのつながりが深い議員であるという事はわかりました。
さてこの公聴会で発言した三女性とはどういう人たちなのでしょうか?
上記リンク内の記事より抜粋します。

では、証言者である元慰安婦とはどんな人物なのかというと、韓国人は、金君子(キム・クンジャ)、李容洙(イ・ヨンス)の二人、オランダ人はジャン・ラフ=オハーンという人。
実は、共通項がこの3人にはある。3人ともバウネットが主催した、あの「女性国際戦犯法廷」の登場人物だからである。日本政府に謝罪どころか、責任者処罰を要求した、あの茶番劇に登場したくらいだから、ほぼ何を主張するのか想像ができよう。

では金君子さんの証言を検証してみましょう。


金君子(キムグンジャ)さん(79)。「私は天涯孤独。この世に生きて、何も残すものがない」と、硬い表情で天井を見つめた。
幼い時に両親が死んで養女に。17歳の時、家に朝鮮人2人が来た。「工場で働かせてあげる」。列車で連行されたのが旧ソ連国境近くの中国・琿春。慰安所だった。

(朝日新聞大阪版平成18年2月26日の記事)

幼いとき両親をなくした金さんは、六十数年前、日本植民地時代の韓国江原道で、養女に出された。ある日、養父から「お使いに行っておくれ」と言われて、汽車に乗せられた。女性たちがたくさんいて、兵隊の姿も見えた。
(北海道新聞平成17年6月23日)

親に売られたのが本当の所でしょうが、そこをぼかした書き方になっていますね。

私は10歳で父、14歳で母を亡くし、孤児でした。あの頃はみんなそうでしたが、大変な暮らしで、他人の家に働きに出て日銭を稼いでいましたが、16歳の時、チョロンの巡査の養女になりました。……1942年3月、養父に「お金を稼げるところがあるから」と言われて、朝鮮人の軍人に連れて行かれました。
(平成17年11月「東京の高校生 平和のつどい」での発言)

かなり正体がわかってきました。
黄錦周と同じ類のウソばっかりのようです。

次行きましょう。李 容洙さん

一九四四年、私が満十六歳の秋のことです。(略)……それから何日かたったある日の明け方、プンスン(引用者註・友人で「飲み屋」の子ども)が私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。
 母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。……行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に服の包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。包みをそうっと開けてみると、ほんとうに赤いワンピースと革靴が入っていました。それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。私を入れて娘たちが全部で五人いました。

(韓国挺対協での1992年の証言http://cotodama-2667.iza.ne.jp/blog/entry/118008/

日本人に騙されたようです。気の毒に、とか申し訳ない!と思うのが普通ですね。
しかしこれが2005年の証言ではかなり様子が違います。

私はいつも母と一緒に寝ていたのですが、ある日の夜寝ていたら、コソコソと音が聞こえました。起きて見てみたら、ある女性が首のほうに何かを突きつけられながら、こちらを覗いていました。それでそこをよく見てみたら、帽子を深くかぶった軍人が立っていました。その女性が、私を見て何も言わずに手振りで私を呼んでいたので、私は怖くなり、部屋を出て外の居間のところで座っていました。するとその女性と軍人が一緒に居間まで入ってきて、その女性が片手で私の肩を抱いて、もうひとつの手で口を塞いで私を連れて行きました。その時軍人が、私の背中に何かを突きつけていました。そういう風に私は連れ去られていきました。
(韓国挺対協での2005年の証言http://cotodama-2667.iza.ne.jp/blog/entry/118008/

おやおや、連行時の状況がだいぶ変わりましたね。
引用元を読んでみますと、「軍人から殴られたことはないけど経営者からぶたれた」という発言が13年後には軍人に蹴られたことになってたりしまして「ああ。。。またかあ」って感じです。


蛇足ですがもう二例ほど

1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。その後、連れて行かれた先の台湾で、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの暴行を受けた。「解放」(日本の敗戦)後、しばらくしてから韓国に戻る。

http://tateiwa.kir.jp/0n/z01.htm

日本は1947年まで戦争してたってことでしょうか?この類の証言は見飽きました。

十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけた。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-06-26/13_0201.html

連行された時の年齢が10才から20才みたいにクルクル変わる証言も読んできましたのでこの程度ではまだ甘いですね。笑

疲れてきましたけどオランダ人女性についても検証を
ジャン・ラフ=オハーンという人についてです。
「20万人が拷問された」などと証言されているようですが、これが慰安婦の事を言っているのだったら大ウソです。
学者の研究でも2万人と言われているのに何を調べた訳でもないこの女性がその十倍の人数をはじき出せると?いい加減にしなさいと言いたいですね。

この方、1942年に慰安婦にされたと主張なさってるそうですが
http://j.peopledaily.com.cn/2002/06/12/jp20020612_18032.html
1994年のオランダ政府報告書の記述を真実だとすると日本軍幹部候補生隊が、オランダ人収容所内の女性を強制的に慰安婦にした「白馬事件」は1944年のことですから、1942年というのは何なのでしょうか?
ここはもう少し情報が出揃うのを待ちたい所です。



法的拘束力はないにしても、日本のマイナスイメージを植え付ける事を目的に行われている中国、韓国、バウネットの活動を日本国民は座していてはいけません。
既に首相補佐官の小池百合子議員の訪米など決定しているようですが、一度「弱者を虐げた加害者」であると印象操作をされると、こちらにどんな正当性があっても、それを払拭するのは困難です。
正義感に訴えるものに弱いアメリカの国民性を考えると、どうかなあと思います。

やはり、元を絶たねばいつまでたっても繰り返しでしょう。
このようなネガティブキャンペーンが行われている源泉は平成5年の河野談話にあります。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

そして、平成18年に結成された「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は河野談話の見直しを求めています。
山谷えり子、中山成彬議員らが中心となっているこの会の活動に期待しましょう!

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2007年2月11日 (日)

映画「南京の真実」が製作されます

「知らされなかった日本」は、映画「南京の真実」の製作を応援しています。

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Bg_headphoto

(公式ページより)
南京陥落70周年の今年 (平成19年・2007年)、米国サンダンス映画祭にて、南京「大虐殺」映画が公開されました。  さらに、中国、カナダ、米国等で計7本の南京「大虐殺」映画製作が予定され、全世界で公開されると言われています。歴史的事実に反し、誤った歴史認識に基づくこのような反日プロパガンダ映画によって、南京「大虐殺」なる歴史の捏造が「真実」として、世界の共通認識とされる恐れがあります。また、そこから生まれる反日、侮日意識が、同盟国の米国だけでなく、世界中の人々に定着しかねません。

 「情報戦争勃発」とも言える危機的事態に、私たちは大同団結し、誤った歴史認識を是正し、プロパガンダ攻勢に反撃すべく、南京攻略戦の正確な検証と真実を全世界に伝える映画製作を決意しました。
 映画は英語版や中国語版等も同時に作り、世界同時公開を目指します。また、インターネットの動画配信も実行する予定です。

 この映画製作には、全国草莽の皆さんの熱いご支援ご協力が必要です。
 是非、映画製作にご参加いただき、祖国日本の誇りと名誉を守りましょう。

平成19年1月

映画「南京の真実」製作委員会
監督  水島 総
日本映画監督協会会員
日本脚本家連盟会員
日本文化チャンネル桜 代表

公式ページ:http://www.nankinnoshinjitsu.com/
水島総監督による、映画「南京の真実(仮称)」の製作発表が1月23日、東京都内のホテルで行われました。
製作発表会見は超満員だったにもかかわらず、当日、翌日の新聞やテレビでは全く報道されていません。
報道機関が腰が引けているのなら我々がこの映画を応援して、一人でも多くの日本人に広めて行かねばなりません。
中共の南京事件に対する過剰なプロパガンタには、日米同盟の離間、チベットや東トルキスタンでの虐殺隠蔽、国内で共産党へ向かう不満そらし、と多様な目的を持って行われています。
(櫻井よしこさんの分析:http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2006/12/post_493.html

誇り高い日本人は今こそ中共の情報戦略と戦っていかねばなりません。
一人でも多くの日本人にこの映画を!

|

2007年2月 9日 (金)

捕虜虐殺命令を検証する(5) 左翼の反論

114師団第66連隊第一大隊に出された捕虜虐殺命令についての東中野教授、秦教授の見解を分析してみました。
ネット上の左派論客である、k-kさんの東中野説の批判について検討してみましょう。

http://wiki.livedoor.jp/kknanking/d/%C2%E866%CF%A2%C2%E2%CC%E4%C2%EA%A1%A1%C5%EC%C3%E6%CC%EE%C0%E201

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http://wiki.livedoor.jp/kknanking/d/%c6%ee%b5%fe%c2%e7%b5%d4%bb%a6%a1%a1%cf%c0%c5%c0%a4%c8%b8%a1%be%da
(左メニュー:第66連隊問題→●東中野説批判→○捕虜虐殺命令は「旅団命令としては出ていなかった」か?)

東中野の主張と根拠

先述しましたが、命令系統は中支派遣軍→114師団→127旅団→66連隊→第1大隊となっております。
この中の一番右の矢印である第一大隊へ捕虜虐殺が出ていれば、その手前の段階である
「第一二八旅命第六十六号」と「一一四師命甲第六十二号」にも虐殺命令が出ていなければおかしいというのが東中野教授の主張なわけです。
命令内容の重大性から考えるとそれも無理のない主張であると考えます。

ここをk-k氏はどう分析しているか?

この前提は、日本軍の命令システム上、ある部分では正しい見解だと言えるだろう。それは、正式な作戦命令である場合、必ず指揮下の全ての部隊に下達されるからである。
ただし、ここで重要なポイントは、それが正式な作戦命令であった場合に限る点である。
つまり、正式な作戦命令ではない命令や指示の場合には、必ずしもこのような命令形態をとるわけではない。
指揮下の特定の部隊にのみだけ、指示や命令を出すことも十分あり得るのである。

つまり、東中野教授は
「こんな重大な命令が連隊長の一存で出せるわけがない」と主張されていますが、k-k氏は
「特定の部隊にのみ出された命令だ」と主張されてるわけですね。
これは「捕虜虐殺を連隊長権限で決定していたはずだ」という意味でしょうね。

捕虜殺害命令の検証

12月13日午後二時に出された66連隊から第一大隊への命令の全文です。

イ、旅団命令により捕虜は全部殺すへし
  其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何
ロ、兵器は集積の上別に指示する迄監視を附し置くへし
ハ、連隊は旅団命令に依り主力を以て城内を掃蕩中なり
  貴大隊の任務は前の通り

k-k氏はここで「ハ」の部分に着目して、「これは第一大隊に特化した命令である」と強調されています。
これはその通りでしょう。
上意下達の形では、下の方に行くほど命令の内容が細かくなっていくものです。

そして、連隊と旅団とのやり取りについて以下のように書かれています。

一方、「旅団命令により捕虜は全部殺すへし」という部分に関して、第66連隊と第127旅団との間でどのようなやり取りがなされたのか判断できないので、捕虜殺害命令が、第127旅団が発令した正式な作戦命令であったのか(この場合、直隷下の部隊は全て命令を受け取ったことになる)、第127旅団から第66連隊に対してのみ出された命令だったのかを判断する史料はない。

「第66連隊と第127旅団との間でどのようなやり取りがなされたのか判断できない」とありますが、秦郁彦教授の著書には、連隊と旅団とのやり取りについての記述がございました。

場外警備を命ぜられ、監視に当たった渋谷仁太第一大隊長代理から上部に方針を問い合わせると、返事がすぐに来ない。
「郷土部隊奮戦記」(『サンケイ』栃木版 昭和三十八年)によると、問い合わせは山田連隊長から秋山旅団長へ、さらには末松師団長へとリレーされたのち、十三日午後になって処分命令が届く。

k-kさんともあろうものがこの記述の存在を知らないはずがないのですが、秦教授に信を置いていないのかそれとも「郷土部隊奮戦記」に信を置いていないのか?

結論

この捕虜殺害命令に関して、旅団と連隊との間での命令の形態は判断できないが、連隊と第1大隊との間で直接やり取りされた命令であったことがわかり、東中野が前提としていた正式な作戦命令ではなかったことが明確となった。

とありますが、ちょっと意味付けが強引ですね。
66連隊から第一大隊に出された命令の(ハ)の部分
ハ、連隊は旅団命令に依り主力を以て城内を掃蕩中なり
  貴大隊の任務は前の通り

この一文をもって、虐殺は連隊長の独断で行われた、という結論になってしまうのは無理があり過ぎます。

東中野は、この捕虜殺害命令を、「旅団命令により」と明記されているにも関わらず、「旅団命令としては出ていなかった」と主張した。しかし、東中野の主張の前提が否定されてしまったことにより、この主張の妥当性は消失したといえるだろう。

郷土部隊奮戦記の事が一切書かれていないので、k-kさんの認識から離れて考えることにしましょう。
この記述を信頼するかどうかで解釈が分かれるように感じます。
記述に信頼性があるのならば、旅団命令が出ているか否かに関わらず、虐殺命令が事実だった可能性が高まります。
信頼性がないのならばやはりこの命令だけが異質であって信頼性にも疑問を残さざるをえません。

次回は同じくk-k氏の分析「第1大隊戦闘詳報は「素人の作文」だったか」について考察したいと思います。

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2007年2月 6日 (火)

捕虜虐殺命令を検証する(4)

肯定派の分析をする前に、中間派の秦郁彦さんはこの捕虜虐殺命令をどう解釈しているかに触れたいと思います。
中公新書「南京事件」の156ページよりの記述をご紹介します。


捕虜は全部殺すべし

まず114師団の説明から
○114師団は宇都宮で編成された特設師団であること。
○再招集の兵が多く平均年齢が高いこと
などが紹介されています。
東中野教授の本と違うのは、「野州兵団の軌跡」という郷土部隊史からの引用が多い点です。

ともあれ記述は114師団の南京での戦闘に移っていきます。
雨花台攻防戦での奮戦が描写されています。
中華門付近で投降した捕虜は蒋介石直系の第88師団だったようです。
投降した捕虜は食事を与えられ、戦闘詳報による「貪食」の描写があります。

その後、この捕虜たちに運命が訪れます。

場外警備を命ぜられ、監視に当たった渋谷仁太第一大隊長代理から上部に方針を問い合わせると、返事がすぐに来ない。
「郷土部隊奮戦記」(『サンケイ』栃木版 昭和三十八年)によると、問い合わせは山田連隊長から秋山旅団長へ、さらには末松師団長へとリレーされたのち、十三日午後になって処分命令が届く。
大隊の戦闘詳報はその経過を次のように記す。
「八、午後二時零分連隊長より左の命令を受く
      左記
 イ、旅団命令により捕虜は全部殺すべし
   其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何」

上層部にとまどいが見られた後、処刑の命令が出された事が記述されています。

疑問点が二つあります。
①東中野教授は、「第二大隊に捕虜処刑の命令が出ていなかったから第一大隊にも出ていなかったはずだ」という解釈をなされていますが、捕虜の取り扱いについて第一大隊から上部への問い合わせがあったことは書かれていません。
東中野教授はこの「郷土部隊奮戦記」を見ていないということなのでしょうか。

②「場外警備を命ぜられ」とありますが、そのような命令書は現存しているのでしょうか。
それともこの「郷土部隊奮戦記」に命令の記述があるという事なのでしょうか。

元資料を当たれないとこういう時に少しもどかしいですね。

疑問点はそのままですが読み進めていきましょう。
おそらくこの「郷土部隊奮戦記」からの引用と思われますが、捕虜の刺殺に参加した兵士の日記がここで紹介されます。

午後五時、南京外廊にて敵下士官兵六名を銃剣を以て刺殺す。
亡き戦友の敵をとった。
全身返り血を浴びて奴ののど笛辺りをつきたるや、がぶ血を吐いて死ぬ。
背中と云はず腰と云はず、刺して刺して刺しまくり、死ぬるや今度は火をつけてやる。
中に、ウナリ乍ら二、三尺はい出すのがある。生温かい血が顔にはねる。
手を洗わず夕食を全く久し振りで食べる。

この証言をしたのは誰なのかが気になりますが、そこは書かれていませんね。
証言は常に信憑性を意識しながら読み進めねばなりませんが、東中野教授の著書でも捕虜の刺殺自体は否定されていませんから、このような投降兵の処刑があったこと自体は信憑性が高いと思います。我々日本人はこの事自体に目を背けてはなりません。

東中野教授と秦教授の分析で大きく違うのは、処刑命令が架空のものであったとするかどうかです。
東中野教授は、小宅曹長の証言をもって、命令の異質さを際だたせる記述をされています。
対して秦教授の著書からは、この命令が出る前の指導部の逡巡めいたものが読みとれます。
まだまだ別の資料に目を通す必要がありますが、やはり処刑命令が架空であったという推測は自分にはできません。

そして、東中野教授の著書の記述も不明な点はありましたが秦教授の著書にも上述二点の疑問点があります。
疑問をすぐに解決するのは不可能と思いますが、なるべく多くの資料に目を通して、すりあわせるように浮き出てくる可能性の高い事象を自分なりにつかんでいくしかないと思っています。

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2007年2月 3日 (土)

南京関連ニュース 「30万人」に学術的根拠ない 南京事件で中国人学者

日中両国の歴史研究者交流を進めている東京財団主催の講演会が1月30日、東京都港区の日本財団ビルで行われ、程兆奇・上海社会科学院歴史研究所教授と張連紅・南京師範大教授が中国における南京事件研究の現状などを紹介した。

 南京事件は日中間の歴史認識の隔たりの最大のテーマのひとつ。中国では「日本軍国主義のシンボル」と位置づけられ、南京軍事裁判で示された30万人の犠牲者数は「南京大虐殺記念館」にも刻まれている。これに対し程教授は「現在の資料で犠牲者数を確定することはできない」と述べ、30万の数字が学術的根拠を欠くことを認めた上、今後、幅広い学術研究を進める考えを示した。

 東京財団によると両教授は中国における南京事件の代表的な研究者。日本でも関心の高いテーマであり、会場には満席の250人が詰め掛けた。

 両教授によると中国で南京事件の研究が始まったのは1980年代以降。当時、南京に在住した外国人や中国人の日記、生存者の目撃談など28巻1500万字分の資料が集まっており、年内にはさらに20巻の資料が整備される予定という。

 張教授は「中国の研究は、日本で高まった南京事件否定説に対抗するところから始まった」と述べ、当初から政治的イデオロギーの影響を色濃く受けていたことを明らかにするとともに「近年の中国民衆の反日感情の高まりは学術研究の在り方にも影響を与えている」と語った。

 「学術的根拠がないのなら虐殺記念館の30万人の数字は削るべきではないか」との会場からの質問には「1学者として決められる問題ではないが、自分が経営しているのであればこの数字は使わない」と答えた。

 歴史問題は日中間の最大の政治問題にもなっており、安倍首相は就任後の訪中で学者による共同研究を提案、両国の有識者による初会合が昨年末、北京で開かれている。笹川日中友好基金でも2001年、「日中若手歴史研究者会議」を立ち上げ、昨年、5年間の研究成果を一冊にまとめた「国境を越える歴史認識 日中対話の試み」が日中両国で同時出版されている。(M)
http://blog.canpan.info/koho/archive/64 より

中共が現実認識能力を発揮してきました。
上の記事を読んでいただけるとおわかりになるように、今まで中共が声高に主張し続けた「南京30万虐殺」に、体制側と判断できる学者が異を唱えました。
これを、学問的良心による発言と取る方は少ないでしょう。
中共の首脳部が、「南京、靖国などで『直接』日本を非難するのは得策ではない」と判断を変化させていると見るのがポイントです。

中共の国内矛盾は次第に頂点に近づいています。
格差問題も公害問題も人権弾圧問題も、あと一歩で中共政府の転覆に繋がるというレベルまで不満が高まっています。
そういった諸問題を解決するための方策の一つとして、日本を東方鬼として悪玉にしてガス抜きを計るというやり方をしてきたのが中共ですがそれも通じなくなってきたのでしょう。
なぜなら、日本にそっぽを向かれては中共が困るからです。

日本の公害防止に関する技術は世界でトップクラスです。
電力業界の脱硫脱硝技術、水処理業界の浄化技術などが代表的なものです。
一滴の石油を極力無駄にしないための効率利用の技術も群を抜いています。
日本では1の電力を作るのに1の重油が必要ですが、中国ではこの技術が拙いために、同じ電力を作るのに4~5倍の重油が必要と言われています。

中共はもちろん資源確保の努力をしています。アフリカ、東南アジア諸国への武器輸出を効果的に使った経済関係の構築がそれです。
東シナ海のガス田問題も中共の資源獲得欲を現しています。

しかし日本の技術供与がなければどうにもならないほど追いつめられているのです。
これまでさんざん苦労してかき集めていた資源コストが、環境技術さえあれば1/5になるとなればそれも当然でしょう。
元々南京で30万人殺されたなどとは、胡錦涛も江沢民も思ってはいません。
あくまで損得で「ここは言わないようにしようか」と思っている事を忘れてはなりません。

そして、主導権は日本が握っていることも忘れてはなりません。
我々の先達が営々と築いてきた環境技術を今こそ戦略的に使うべきです。
露骨ですが「国連常任理事国に賛成してくれれば技術供与は可能」「春暁の日本の試掘を認めれば技術供与は可能」といった駆け引きが必要です。

そのような主張する外交を行う事によっての副次効果は計りしれません。
国連での日本の発言力が強まれば横田めぐみさんの帰国も可能性が上がりますし、法輪功やチベットなどへの人権弾圧も制御できる可能性があります。
もっと直接的な日本への軍事的圧力に対抗できる手段も飛躍的に増えると考えます。

南京で見せた中共の観測気球を、今こそ日本は積極的に撃ち落とすべきです。

外務省は、環境技術を武器にして日本の国益を確保せよ!

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2007年2月 1日 (木)

捕虜虐殺命令を検証する(3)

誰が戦闘詳報を執筆したのか

この戦闘詳報は12月31日から執筆作業にかかったことが当時の中隊長の証言により明らかにされています。
実際の戦闘より19日ほど後ですね。

戦闘詳報の文責について小宅曹長はこのように証言しています。

戦闘詳報は文字通りこの戦闘に関する全ての事実を詳報するもので、副官または書記が作成し、大隊長の決済を経て連隊に報告するもので、責任者は大隊長ということになります。

執筆者は大隊副官ということですね。
ではこの戦闘詳報は副官が書いていたのか?同じく小宅曹長の証言続きます。

大隊の戦闘詳報は、一刈さんが倒れ、まともなのは渋谷(大隊副官)だけです。渋谷さんは実際の大隊の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかったと思います。

辛口な評価かもしれませんが、当時の大隊というのは、大隊長一人が負傷しただけでそこまでバラバラになってしまうものでしょうか?
もちろん、大隊の「長」ですから、隊にとってとても大切な存在であった大隊長の負傷は痛恨の事です。
しかし大隊長が負傷したら、序列で隊長に次ぐ者が後を接いで指揮をするというのが組織というものです。
一人が負傷したら途端にバラバラで、戦闘詳報もデタラメになってしまうというほど人材がいなかったのでしょうか?

疑問は残るものの、検証を続けましょう。
東中野教授は以下のように仰います。

ともあれ、第一大隊は何らかの理由で投降兵を処刑した。
しかし、戦闘終了後、戦闘詳報に処刑の理由を書く段になった時、実際にはありもしなかった「捕虜は全部殺すべし」という架空の旅団命令にその理由を求めた。

さらに辛口なのですが、旅団命令が架空だったら、なぜこの戦闘詳報が採用されて軍の記録として残ってしまったのか全くわかりません。
ありもしない命令だったとすると、旅団司令部がこれを見たら
「何勝手な事書いてるんだ!責任者は出てこい!」
となるのではないでしょうか?

でっちあげにしろ何にしろ、現実的に処刑は行われました。
命令がでっちあげなら、どういう理由で処刑をしたのでしょうか?
東中野教授は小宅曹長の証言を引用しながら以下のように書いておられます。

小宅小隊長代理の証言によれば、投降兵は収容先で「騒然」としていた。
騒然となった投降兵がそのあと暴れ出して統制がきかなくなり、投降兵の釈放が困難になった。
そこでやむなく投降兵の処刑が断行されたのであろう。

東中野教授の立場にたって強引に解釈すると
「捕虜が不穏の動きをしたので処刑した。しかし戦闘詳報にはそれを書きにくいので旅団命令で処刑したことにした。」
となってしまいます。
なぜこんな、日本軍の立場が悪くなるような詳報をでっちあげてしまったのか理解できません。
大隊は悪くない、旅団命令が悪いのだ、とでも主張したかったのでしょうか?

第一大隊戦闘詳報についての東中野教授の解釈は今回で終わりになります。
まとめとして以下を列挙しておきます。

●上部組織から下部組織に流れる命令の一貫性を見ると、一つだけ違和感のある命令が旅団より出されている。
●命令が記載されている戦闘詳報については、誰が執筆したのかわからない。
●当時の大隊首脳部は負傷者がいて混乱していた。
●架空の命令を記載したと断定するには無理がありすぎる。

旧日本軍を愛する私の立場でも、この戦闘詳報を無効と判断することはできませんでした。
否定派の筆頭格である東中野教授をもってしてこの様子だと、この虐殺命令は実際にあったと判断されても仕方ないと捉えています。

次回は、虐殺肯定派がこの戦闘詳報をどう分析しているか、東中野教授の見解についてどう反論しているか、について考察したいと思います。

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