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2007年1月28日 (日)

捕虜虐殺命令を検証する(2)

上意下達の軍隊命令の中で、この命令だけが違和感を感じさせる内容であることを前回紹介しました。
次の段落では、問題の第一大隊の戦闘詳報を詳しく分析されています。
戦闘詳報には

●第一大隊麾下の四つの中隊のうち、1~3中隊は既に城内に入っていて、中華門付近で第四中隊が戦闘していたこと。
●その第四中隊は別師団所属の軽装甲車中隊と協力して中華門付近で戦闘していたこと。
戦況は白兵戦に移行していったこと。
●投降する支那兵が出てきたこと。
●投降する支那兵を支那将校が背後から射殺していたこと。
 などが書かれていたと言うことです。

実際の戦闘詳報を見ながら検討したい所ですがこれは孫引きです。
偕行社の「南京戦史」をぜひ入手したいですね。

そして以下のような光景が描写されています。

午後七時頃、(東中野註:12月12日)手榴弾の爆音も断続的となり・・・・捕虜1,500余名及び多数の兵器弾薬を鹵獲(略)最初の捕虜を得たる際、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にして・・・服装検査をなし、負傷者は労はり・・・

先に記述した「1~3中隊は既に城内に入っていて、中華門付近で第四中隊が戦闘していたこと。」
が事実であれば、この投降兵を受け入れたのは第四中隊であろうことが書かれています。

「事実であれば」とわざわざ断りを入れているのは元の戦闘詳報を見ていないので確信できないからです。
都合のいい引用で都合のいい論理を構築するのが簡単だということは慰安婦問題の書籍検討で身にしみました。
これはどの学者さんでも起こり得ることですので、東中野教授にも同じ接し方をしたいと思います。

とにかく、第四中隊が投降兵を受け入れたという前提で進めます。
12月12日19:30に、第一大隊長代理から第四中隊に
「第四中隊は全員をもって捕虜の監視に任ずべし」
と命令した文書が残っているようです。

そしてここで小宅伊三郎曹長の回想になります。
小宅曹長は第四中隊麾下の第一小隊長代理でしたが、この時は負傷した第四中隊長に代わって第四中隊の指揮をしていました。
その当人である小宅曹長が、「三名を伝令として派遣」したことはなかったと言われているそうです。

その小宅曹長の言葉です。

12月12日、第四中隊の戦力は半減していたが、第一線で戦っていた第三中隊の右側に進むように命令を受けて、私は第一小隊、第三小隊、指揮班の計6、70人を指揮して第三大隊の援護に向かった。
ですから、当時の第四中隊は私が指揮していたことになります。
もちろん第一線の戦場ですから、我々の中隊長がどこにいるのか、他の小隊がどこにいるのか分かりませんでした。

12月7日に第四中隊長が負傷しておりまして、その後小宅曹長が中隊の指揮をしていたということだろうと思います。
ですからここで「我々の中隊長がどこにいるのか」という記述が出るのは妙に感じます。
五日間も中隊長の存在がわからなかったということでしょうか?
虐殺肯定派はこのあたりを厳しく突いてきていそうですが、それは後日まとめて検証しますのでここでは置きます。

小宅曹長の証言続きます。
兵士厰の建物の前にある陸橋で指揮を取っていたが、やがて中国軍が後退し、その中に白布を振っている兵も見えたので射撃を禁止し、彼らに対して手招きをした。
すると、城壁上から私を狙って撃ってきて、5、6発が私の近くに当たった。
それでも中国兵は三三五五降伏してきたので、私のところで、私のところで検問して後に送った。
検問している途中、中国軍の逆襲にそなえたり、井上戦車隊長との打ち合わせがあり、どのくらい捕虜がいたのか正確には分からない。
あとで1200の捕虜がいて、他の隊が捕まえた捕虜2、300も合わせると1500になると聞いた記憶がある。
しかし、あのとき1200人の捕虜を検問して武装解除するだけの時間があったのかと考えてみると、とても1200人もいたとは言えない。

そこで12月12日夜の戦闘詳報から
(十二日夜)
捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二十名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。
食事を支給せるは午後十時頃にして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。

この、証言と戦闘詳報とを組み合わせて東中野教授は

それにしても、1500食分も用意できたであろうか。
この間、三時間足らずであった。その間に、1500名の武装解除と、1500食分の食事の準備は不可能に近い。
投降兵の数はもっと少なかったであろう。


捕虜の人数が戦闘詳報より少なかったであろう事を推論されています。
もともと戦闘詳報は、人数の把握などには向いていない資料だと思っていましたが、ここでも同じ認識を繰り返させていただきます。
1500名というのは信頼できるものではないと思います。

しかし小宅曹長の証言も少し疑問がありますね。
戦車隊との打ち合わせで検問の場所に立ち会えなかった小宅曹長が人数について断定的な事を言えるはずもありません。
「少なかったであろう」と言うのはその通りかと思いますがその根拠として小宅曹長の証言ということでは、少し弱いと思います。

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2007年1月27日 (土)

捕虜虐殺命令を検証する(1)

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東中野修道【「南京虐殺」の徹底検証】に、114師団第66連隊第一大隊の戦闘詳報についての検証が書かれていますのでまとめてみます。
結論としては
「この戦闘詳報は偽物だろう」と書いておられるようですが、妥当性を自分なりに考察してみます。

第五章 争点の解釈(1)-旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ

「旅団命令により捕虜は全部殺すべし」
児島襄氏が戦闘詳報を発見したこと。
通常の命令形態が
中支派遣軍→114師団→127旅団→66連隊→第1大隊
であることが書かれています。

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第114師団命令
大きな命令系統から分析を行っていまして、最初の段階である「114師団→127旅団」の流れが検証されています。
図にあるように114師団麾下には127、128と二つの旅団が存在していました。
12月13日午前九時半発令の「114師団命甲第62号」の命令が書かれています。
一、城内の敵は頑強に抵抗しつつあり。
二、師団は攻撃を続行し城内の敵を殲滅せんとす。
三、両翼隊は城内に進入し、砲撃はもとよりあらゆる手段を尽くして敵を殲滅すべし。
   これがため要すれば城内を焼却し特に敗敵の欺騙行為に乗ぜられざるを要す。

128旅団の命令書は現存しているものの、127旅団のそれが確認できていない事が書かれています。
以下128旅団から麾下部隊への検証。

第128旅団命令
12月13日正午発令の「歩128旅命第66号」が紹介されています。
一、城内の敵は頑強に抵抗しつつあり。
二、右翼隊は城内に進入し、共和門、公園路、中正路の線(含む)以南の地区を掃討せんとす。
三、第一線両連隊は全力をもって進入しあらゆる手段を尽くして敵を殲滅すべし。
   これがため要すれば城内を焼却し特に残敵のため欺騙行為に乗ぜざるを要す。

師団命令を忠実に下達して、より命令内容を細かくしているのがわかります。
その二時間後、127旅団麾下の66連隊より問題の命令が下達されるわけです。
もう一度繰り返して載せておきます。

(十三日午後二時)
連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。
その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。

捕虜は全部殺すべきという命令は、それより上部の組織の命令としては出ていなかった様子です。
66連隊が独断で命令した可能性があります。以下そのチェック。
図でわかるように66連隊麾下には三つの大隊があります。
問題の命令は第一大隊ですが、第二大隊の陣中日誌を東中野教授は検証されています。

そこで、その陣中日誌を点検してみると、処刑命令が出たとの記録がない。
つまり、連隊長が傘下の部隊に命令した形跡がない。
従って、連隊長独断説は考えられないのである。

陣中日誌の定義をと思って探してみたのですが、明確な定義がないようです。
つまり兵士や将校が思い思いに陣中で戦闘の模様を書き記したものという事かと存じます。
第二大隊の陣中日誌をいくつ検証したのかわかりかねますのでここはちょっと判断保留。
第三大隊の日誌は検証されたのか質問してみたいですね。

次に第一大隊にだけ特別な命令を出したのかどうかを検討されてます。
当時の小隊長代理の軍人さんの証言をもって、連隊長以下でそのような独断ができないのでは?と考察されています。
私もここはそう思いますね。
投降してきた捕虜の扱いについては軍や師団など大きい単位での方針がありましょうから、それにそって下部は動くものと思います。
現に第13師団の「戦闘に関する教示」を示されています。
「多数の俘虜ありたるときは、これを射殺することなく、武装解除の上、一地に集結監視し、師団司令部に報告するを要す。」
日本軍が正常な指揮命令の形態を持っているのならばこのような方針の上で下部は動いていたはずなのです。

そして東中野教授は以下にこのように述べています。
「そうなると、考えられることは唯一つである。この戦闘詳報を作成した第一大隊に、何か問題があったのではないか」

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2007年1月24日 (水)

捕虜虐殺命令

Nakajima04

前回、114師団第66連隊第一大隊の戦闘詳報の戦闘詳報について取り上げました。
投降して武装解除した捕虜を全て殺せという連隊長命令が出ていました。
この命令の背景を調べたいと思っていますが、肯定派の学者の書いた本には、命令の背景までは書かれていないようです。
手元にある資料は肯定派のものが多いので、否定派の書籍を入手するまで少々お待ち下さい。

さて、この戦闘詳報についてともう一点、16師団の師団長であった中島今朝吾中将の日記の内容についても論点としたいと存じます。
問題となる部分を抜粋します。

十二月十三日 天気晴朗
(略)
一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたるも千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失いゾロゾロついて来るから安全なるものの之が一旦騒擾せば始末に困るので部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ 十三日夕はトラックの大活動を要したり乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず
斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

普通に読めば
「捕虜など受け付けずにどんどん殺そう」
という風に読めます。

先の戦闘詳報とこの日記とを二つ取り上げて
「日本軍はこんなにひどかったんだ」
と言う方が簡単ですが、じっくり検討していきます。

日露戦争時、旧日本軍は愛媛県松山市に捕虜収容所を作っていました。
ロシア兵の捕虜は日本の手厚い捕虜の保護に驚き、国外にその評判が伝わっていきました。
日露戦争後期には、投降してくるロシアの兵士は「マツヤマ、マツヤマ」と言いながら両手を上げていたと言う記録があります。

その日本軍が、たった三十年後には捕虜と見れば虐殺しまくる集団に変質してしまったのか?
変質が事実とすればなぜ変質してしまったのか?

色々と考えるところはありますが、現状では予断にしか過ぎません。
否定派の本を1、2冊読んだところで全てわかるわけではないのですが、現状でできる精一杯の検証を行っていきたいと思います。

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2007年1月23日 (火)

便衣兵の処刑について(2)

1937年12月12日深夜、南京は落城し、日本の占領下に置かれました。
南京事件はその次の日の12月13日から始まったとされています。
日本軍は南京落城時に何をしたのでしょうか?
いろいろな研究者がいろいろな資料を引用して、南京の様子を描写しています。

笠原教授はどんな資料を引用しているのでしょうか。
岩波新書「南京事件」の中で多くの資料を引用されていますが、代表するものとして日本軍114師団第66連隊第一大隊の戦闘詳報を取り上げてみます。

(十二月十二日午後七時ごろ)
最初の捕虜を得たる際、体調はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、除名する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。
捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。

(十二日夜)
捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二十名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。
食事を支給せるは午後十時頃にして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。

(十三日午後二時)
連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。
その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。

(十三日夕方)
各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より五十名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。(中略)各隊ともに午後五時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。
第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
捕虜は観念し畏れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。
特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。

戦闘詳報は、殺害者の数を正確に把握するのは不向きですが、軍隊のどの行動がどこから命令が出されていてどの部隊がそれを行ったのか、というのを把握するには良質の資料と思っています。
この資料の出来事は、残念ながら事実のようです。
「助命するぞ」と呼びかけて投降した兵士を殺害したのは、戦闘行動ではありません。
念のため否定派の本もチェックしてみたのですが、私の手持ちの中にはこの戦闘詳報を採用しているものはありません。
こういったことがあちこちで行われていたのであれば、人数が少ないにしても虐殺の誹りは免れません。

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2007年1月22日 (月)

便衣兵の処刑について(1)

Toseichi

最近思うところがありまして、大東亜戦争にまつわる日本の歴史を討論していくと、どうしても南京事件の事は避けられないという結論になりました。
もう70年も昔の事ですし、否定派肯定派とで延々と論争が続いている問題でもありますし、正確に何があったかを一個人が知るには不可能に近いと思っています。
ですから今まで、あまり本気で取り組んで調べていませんでした。

しかし、この問題は反日活動家の間での、旧日本軍の悪逆さを取り上げる際の中心軸として常に取り上げられています。
靖国と並んで、中共が反日意識を利用して実利を得るための最高の道具ともなっています。

ここについて根拠を持った話がなにがしかできないと、昔の日本を守る事はできないと考えます。
慰安婦問題と比べると、あまりにも大きい問題ですが、何とかとりつきやすい所からやっていくしかありません。
その際に、旧日本軍が惨たらしい行為をした形跡も現在感じてますが、目を背ける事のないよう自分を戒めながら資料の検討をやっていきたいと存じます。
具体的には、肯定派の代表である笠原十九司教授と、否定派の代表である東中野修道教授との研究を対比することで、随時他の学者の著作や資料集を引用しながらやっていきたいと思います、

ではまずよく言われる所の、便衣兵の問題について手始めに扱って行きます。

まず便衣兵とは何かをwikipediaからご紹介します。

便衣兵(べんいへい)は、戦争のルールを定めた「ハーグ陸戦条規」等では、本来兵士は戦闘服などを着用し、一般市民と見分けのつく服装をしなければならないとされているが、一般市民と同じ私服・民族服などを着用して敵にあたかも非武装の市民だと思わせ、不意に攻撃に入るなどの戦術をする兵士のこと。

近年、一定の交戦法規を遵守するレジスタンスは区別されるようになっている。

便衣とは、本来中国語の「長い服」を意味する。戦闘など活動的な仕事に従事する場合は、「短い服」を着用すべきところであるが、昔の中国では、肉体労働をしない者が「長い服」を着るとされるため、一般市民にまぎれての行動につき、実際に長くなくても「私服」と云う意味でこの語が使われる。 

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%BF%E8%A1%A3%E5%85%B5" より作成

この便衣兵を大量に処刑した事が南京事件の最大の争点です。
これが国際法違反であるのなら、それはそれで認めなくてはなりません。

○便衣兵はどういった経緯で潜伏したか?

笠原十九司教授は、ニューヨークタイムズ記者のF.T.ダーディンの文を引用しています。

日曜日夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎはじめた。
民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。
また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。
軍服といっしょに武器も捨てられたので、通りは、小銃、手榴弾、剣、背嚢、上着、軍靴、軍帽などで埋まった。
下関門近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。
交通部の前から二ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ゴミ捨て場のようになっていた。

(「南京事件」岩波新書:P139~140)

明確な降伏とならない状態で司令官が遁走したのでこうなったのですが、混乱の極みであったことが伺えますね。

東中野教授はこのように書いています。

激戦のさなかの十二月十二日、国際委員会は三日間の休戦協定を中国軍に提案した。
しかし中国軍はこれを拒否し、通常の軍隊ではあり得ない動きに出た。
その一つは、十二月十二日二十時、南京防衛軍司令官の唐生智が、日本軍に降伏の意思表示をすることなく、ただ一つ開いていた北門の狭い通路から逃亡したことである。
二つ目は、唐生智の逃亡後、中国兵が軍服を脱ぎ、市民のための中立地帯である安全地帯に逃げ込んだことである。

(南京事件「証拠写真」を検証する:P42)

二人の書く内容で共通しているのは
・司令官の逃亡により兵が混乱、潰走の末便衣兵となった。
共通していない事は
・国際委員会の休戦協定の申し出について、笠原教授は国民党側が持ちかけたが落城時の混乱により実現せず、と表現されていますが、東中野教授は、国民党軍が拒否した、と書いておられます。

国際委員会についてわからない方はこちらを参照下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%AE%89%E5%85%A8%E5%8C%BA%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A

ともあれ南京は落城しました。
しかし何万人もの便衣兵が市内に潜伏しています。
日本軍は次はどういう行動に出たのでしょうか。

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2007年1月10日 (水)

「新しい歴史教科書」精読(2)日韓併合

さて「新しい歴史教科書」の精読ですが
複数の文献から共通して「ここが問題点だ」と捉えられている部分をテーマごとに読んでいきたいと思います。まずは最もデリケートな問題になりやすい近現代史から手をつけていきます。

参考にしたのは以下の文献です。

●自由主義史観系
・歴史教科書を格付けする(藤岡信勝:徳間書店)
・新しい歴史教科書「つくる会」の主張 (西尾幹二:徳間書店)

●右翼系
・「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する(谷沢永一:ビジネス社)
 こちらはフジサンケイグループとつながりが強いようですね。
 どちらかと言えば擁護に回ってもよさそうなものですが。。。

●左翼系
・ここが問題「つくる会」教科書(大月書店)
 共産党系です。
 社民党系=日教組 共産党系=全教組と言われていますので、
 全教組の批判として読めるようです。
・歴史教科書 何が問題か 徹底検証Q&A(小森陽一、坂本義和、安丸良夫編:岩波書店)
 小森陽一東大教授は高橋哲哉教授などと親交が深いようです。社民党系と言えます。
 日教組とつくる会とが最も鮮明な対立構造を形作っていますから、これを基準にして批判意見を紹介していきましょう。

●ノンポリ系
・どうちがうの?新しい歴史教科書VSいままでの歴史教科書(夏目ブックレット)
 総講評の大月隆寛さんは当初「つくる会」のメンバーだったようです。
 現在は袂を別にして批判を行っているようです。
 著者が他に7人ほどいまして経歴は多種多彩ですが、純粋に右派、左派となるような方はいません。

さて一回目のテーマは「韓国併合」といたします。
「新しい歴史教科書」五章一節 P240です。

日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。
日本政府は、韓国の併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。
イギリス、アメリカ、ロシアの三国は、朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので、これに意義を唱えなかった。
こうして1910(明治43)年、日本は韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した、(韓国併合)
韓国の国内には、一部に併合を受け入れる声もあったが、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後、独立回復の運動が根強く行われた。
韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。

これについて加えられている批判を上の書籍から拾っていたのですが、具体性に乏しく、また書き方が愚痴っぽくてどこが問題なのかわかりにくいものとなっています。
ともあれ「歴史教科書 何が問題か 徹底検証Q&A」の批判意見を紹介しましょう。

韓国併合について、第五章「世界大戦の時代と日本」の中で書いている。
しかし、それは、条約改正と並んで明治日本の大きな課題であったし、日露戦争の帰結でもあった。
第四章「近代日本の建設」の日露戦争に続けて書くべきである。

つまり「順番変えろ」ということですね。

併合について、「イギリス、アメリカ、ロシアの三国は、朝鮮半島に影響力を拡大することを互いに警戒しあっていたので、これに意義を唱えなかった」というのはおかしい。
ロシアが意義を唱えなかったのは、戦争で負けたことが大きい。

重箱の隅つついてますね。

あと、検定に通る前の記述について、重箱つつきが少しありますが、世に出回らなかったものをどうこう言うのも何ですので取り上げますまい。

日教組側の批判は何と言うこともなく弱いものでした。全教側に立った「ここが問題「つくる会」教科書」はどう批判しているでしょうか?

扶桑社版教科書旧版の「指導書」では、ロシアに南下の意志があり、韓国内には親ロシア派がいたとして、「併合以外の道」が「現実的ではなかったことを教える」としています。
これは、具体的な事実をぬきに勝手な解釈をおしつけるものです。


と批判しています。
ではその「具体的な事実」とは何でしょうか?
記述を読んでみましょう。

日清戦争の結果、韓国への清の影響力を排除した日本は韓国への支配を進めようとしますが、韓国では反日の動きが高まります。この事態に、在韓公使も関わった日本人の勢力が、親日政権をつくろうとして親露派の王妃閔妃を虐殺する事件を起こします。親日政権作りには失敗し、韓国政権はロシアに接近をし、ロシアが韓国への支配を強めてくると、韓国内では日本からもロシアからも自立した国作りを進める動きがおきていきます。日露戦争は韓国の支配をめぐる日本とロシアとの争いでした。日露戦争で韓国からロシアを排除した日本は、外交権を奪って「保護国」とします。こうした日本の支配に対抗して、義兵運動という武器をもった抵抗運動が強まり、その一員であった安重恨によって韓国統監であった伊藤博文が射殺される事件が起こります。日本は、義兵運動を軍隊の力でおさえつけ、1910年に韓国を併合します。
こうした事実をたどってくると、ロシアに対抗して日本の支配を強めていったことに対し、韓国の人々の抵抗がはげしくなるなかで、日本の支配をさらに強化・徹底する手段として韓国併合が行われたということが見えてきます。扶桑社版教科書は、この経緯にはまったく触れないで、ただ「ロシアの驚異」を強調するのです。

くどくどと書いていますが、韓国のみに多大な字数を費やすのでなければ
「韓国の国内には、一部に併合を受け入れる声もあったが、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後、独立回復の運動が根強く行われた。」
という記述は妥当なものだと思います。
要するに、「日本が悪逆非道だったともっと書け!」と思っているけどまさかその通りには主張できないのでくどくどと要点のわかりにくい批判になっているのでしょう。
蓋を開ければ何のことはない弱い批判ですね。

次回は大東亜戦争に至る経緯について述べましょう。

維新政党・新風 街頭演説会 1/14に新宿にて!

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2007年1月 6日 (土)

「新しい歴史教科書」精読(1)

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明けましておめでとうございます。
本年から扶桑社の「新しい歴史教科書」の精読をシリーズとしてやってまいります。
もちろん慰安婦問題も続けます。

さてこの教科書ですが、私がよく行く日韓翻訳チャットの韓国人も名前を知っているほど「悪い方に」有名な教科書なのですが、実際どんなことが記述されているか知っている人は存外少ないのではないでしょうか?
許される範囲内で広くこれを伝えて、これからの日本を担うであろう子供たちへの影響を考えていこうと思います。

さて実際の生徒達向きの文章ではないのですが、西尾幹二さんの「市販本まえがき」を引用させていただきます。
全文引用にためらいがあってずいぶん考えたのですが、素直に感動したのでそのままの形でぜひ紹介させてください。

 本書は,『新しい歴史教科書』を,日本国民に広く読んでいただくために公開した市販本である。
 この教科書についてはかねてより,一部のマスコミなどが一般国民のとうてい容認しがたい行動を展開してきた。すなわち教科書の内容は国民に知らされていないのに,新聞だけが気ままな批判にふけったのである。また,韓国や中国が平然と反発したり,修正要求をしたりしてきた。新聞に書く特定の人や外国人は,この教科書について自分の意見を自由に述べることができるのに,日本の国民は自分の眼で読み,自分の頭で判断することが許されていない。これは不自然であり,不健康な状態である。
 国の内外でこれほどまでに熱っぽく議論される問題について,国民に基本的情報さえ与えられていない現状は,著しく公正を欠き,民主主義社会の要件を満たしていないとわれわれは考える。
「知る権利」の当然の行使とみなされてしかるべきである。
 他方,検定済み教科書は八種あるにもかかわらず,われわれの教科書のみを標的にして,政治的な誹誇・中傷が大新聞の紙上やテレビ・メディアでほしいままに展開された。本書をターゲットにした特定政治勢力からの批判本はすでに四種を数える。ところが,肝心の教科書の現物が公刊されないでいる間,悪罵ばかりが独り歩きして,われわれは現物を提示したうえでの反論ができない。これは,本教科書の執筆者や発行者の名誉に関わる重大問題である。このことは,まず言論の自由の問題であり,執筆者や発行者の基本的人権が脅かされている問題である。
 この教科書をターゲットにした批判は総じて叙述の細部に向けられている。しかし,文章の叙述は全体の流れにその生命がある。
令体を無視して,部分だけとりあげてあげつらうなら,正しい批判にはならないだけでなく,不当な意図的攻撃に終わりがちであるレ事実そのような不当な批判が大部分だった。これに反論するのに細部の議論をもってすれば,全体を知らない一般読者には水かけ論に見える危険がある。やはり叙述の全体をもって反論にかえさせていただくのが健全であり,この教科書にはそれに耐える内容が備わっているという自信をわれわれは有している。
 民主社会の言論においてはすべての反論権が認められなくてはならない。われわれは日本の市民社会に本書を静かに提供する。
これがわれわれの反論であり,愚かな批判をむなしくする有効なカウンターパンチ

それゆえ市販本を公刊することはわれわれの義務であるとともに,国民の側にとってはである
 各都道府県における教科書採択の進行中の教科書の出版は採択の現場に予断を与える,という奇妙な議論があるが,それなら採択の開始前からの一教科書へのマスコミの誹膀・中傷は,採択の
現場に予断を与えないというのであろうか。情報公開が広く求められている現代社会で,公権力による閉ざされた採択は,既成の教科書出版社を保護し,不公正を新たに招く可能性がある。教科,llの市販は,開かれた自由競争に基づく公正な採択を促す公共の精神に一致する。
 われわれ以外の七社の教科書も,ぜひ市販本を出していただきたい。国民はそれらをも「知る権利」がある。各社の教科書を簡肌に書店で手にし,比較し,議論する自由は誰にも保証されなくてはならない。教科書の採択は密室にこもるのではなく,公開の場で広く国民の討議に委ねられるべきである。採択権者がその声を静かに耳にし,判断を下すことは,採択の現場を混乱させるどころか,民主社会の要件である公開の精神に立脚した,独占排除の公正の感覚をより一層助長するものであるとわれわれは信じている。

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