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2007年1月28日 (日)

捕虜虐殺命令を検証する(2)

上意下達の軍隊命令の中で、この命令だけが違和感を感じさせる内容であることを前回紹介しました。
次の段落では、問題の第一大隊の戦闘詳報を詳しく分析されています。
戦闘詳報には

●第一大隊麾下の四つの中隊のうち、1~3中隊は既に城内に入っていて、中華門付近で第四中隊が戦闘していたこと。
●その第四中隊は別師団所属の軽装甲車中隊と協力して中華門付近で戦闘していたこと。
戦況は白兵戦に移行していったこと。
●投降する支那兵が出てきたこと。
●投降する支那兵を支那将校が背後から射殺していたこと。
 などが書かれていたと言うことです。

実際の戦闘詳報を見ながら検討したい所ですがこれは孫引きです。
偕行社の「南京戦史」をぜひ入手したいですね。

そして以下のような光景が描写されています。

午後七時頃、(東中野註:12月12日)手榴弾の爆音も断続的となり・・・・捕虜1,500余名及び多数の兵器弾薬を鹵獲(略)最初の捕虜を得たる際、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にして・・・服装検査をなし、負傷者は労はり・・・

先に記述した「1~3中隊は既に城内に入っていて、中華門付近で第四中隊が戦闘していたこと。」
が事実であれば、この投降兵を受け入れたのは第四中隊であろうことが書かれています。

「事実であれば」とわざわざ断りを入れているのは元の戦闘詳報を見ていないので確信できないからです。
都合のいい引用で都合のいい論理を構築するのが簡単だということは慰安婦問題の書籍検討で身にしみました。
これはどの学者さんでも起こり得ることですので、東中野教授にも同じ接し方をしたいと思います。

とにかく、第四中隊が投降兵を受け入れたという前提で進めます。
12月12日19:30に、第一大隊長代理から第四中隊に
「第四中隊は全員をもって捕虜の監視に任ずべし」
と命令した文書が残っているようです。

そしてここで小宅伊三郎曹長の回想になります。
小宅曹長は第四中隊麾下の第一小隊長代理でしたが、この時は負傷した第四中隊長に代わって第四中隊の指揮をしていました。
その当人である小宅曹長が、「三名を伝令として派遣」したことはなかったと言われているそうです。

その小宅曹長の言葉です。

12月12日、第四中隊の戦力は半減していたが、第一線で戦っていた第三中隊の右側に進むように命令を受けて、私は第一小隊、第三小隊、指揮班の計6、70人を指揮して第三大隊の援護に向かった。
ですから、当時の第四中隊は私が指揮していたことになります。
もちろん第一線の戦場ですから、我々の中隊長がどこにいるのか、他の小隊がどこにいるのか分かりませんでした。

12月7日に第四中隊長が負傷しておりまして、その後小宅曹長が中隊の指揮をしていたということだろうと思います。
ですからここで「我々の中隊長がどこにいるのか」という記述が出るのは妙に感じます。
五日間も中隊長の存在がわからなかったということでしょうか?
虐殺肯定派はこのあたりを厳しく突いてきていそうですが、それは後日まとめて検証しますのでここでは置きます。

小宅曹長の証言続きます。
兵士厰の建物の前にある陸橋で指揮を取っていたが、やがて中国軍が後退し、その中に白布を振っている兵も見えたので射撃を禁止し、彼らに対して手招きをした。
すると、城壁上から私を狙って撃ってきて、5、6発が私の近くに当たった。
それでも中国兵は三三五五降伏してきたので、私のところで、私のところで検問して後に送った。
検問している途中、中国軍の逆襲にそなえたり、井上戦車隊長との打ち合わせがあり、どのくらい捕虜がいたのか正確には分からない。
あとで1200の捕虜がいて、他の隊が捕まえた捕虜2、300も合わせると1500になると聞いた記憶がある。
しかし、あのとき1200人の捕虜を検問して武装解除するだけの時間があったのかと考えてみると、とても1200人もいたとは言えない。

そこで12月12日夜の戦闘詳報から
(十二日夜)
捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二十名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。
食事を支給せるは午後十時頃にして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。

この、証言と戦闘詳報とを組み合わせて東中野教授は

それにしても、1500食分も用意できたであろうか。
この間、三時間足らずであった。その間に、1500名の武装解除と、1500食分の食事の準備は不可能に近い。
投降兵の数はもっと少なかったであろう。


捕虜の人数が戦闘詳報より少なかったであろう事を推論されています。
もともと戦闘詳報は、人数の把握などには向いていない資料だと思っていましたが、ここでも同じ認識を繰り返させていただきます。
1500名というのは信頼できるものではないと思います。

しかし小宅曹長の証言も少し疑問がありますね。
戦車隊との打ち合わせで検問の場所に立ち会えなかった小宅曹長が人数について断定的な事を言えるはずもありません。
「少なかったであろう」と言うのはその通りかと思いますがその根拠として小宅曹長の証言ということでは、少し弱いと思います。

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コメント

こんにちは。
このたび、新風連協賛ブロガーに参加させていただく事になりました、愛する祖国 日本のネコぱんちと申します。
若輩ではございますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

投稿: 愛する祖国 日本 | 2007年2月 1日 (木) 18時37分

>愛する祖国 日本さん こんばんは
新風連加盟おめでとうございます!
これから瀬戸先生と共に愛国に頑張ってまいりましょう!
さて、ブログおじゃましました。
タイムリーな話題をわかりやすく書いていらっしゃって、新しいニュースに疎い私にもよくわかりました。
ランキングで上位にいらっしゃるのも納得ですね。
私の所は過去の事掘り返してばかりの地味ブログですが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

投稿: 代吉 | 2007年2月 1日 (木) 22時14分

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