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2007年1月23日 (火)

便衣兵の処刑について(2)

1937年12月12日深夜、南京は落城し、日本の占領下に置かれました。
南京事件はその次の日の12月13日から始まったとされています。
日本軍は南京落城時に何をしたのでしょうか?
いろいろな研究者がいろいろな資料を引用して、南京の様子を描写しています。

笠原教授はどんな資料を引用しているのでしょうか。
岩波新書「南京事件」の中で多くの資料を引用されていますが、代表するものとして日本軍114師団第66連隊第一大隊の戦闘詳報を取り上げてみます。

(十二月十二日午後七時ごろ)
最初の捕虜を得たる際、体調はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、除名する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。
捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。

(十二日夜)
捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二十名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。
食事を支給せるは午後十時頃にして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。

(十三日午後二時)
連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。
その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。

(十三日夕方)
各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より五十名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。(中略)各隊ともに午後五時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。
第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
捕虜は観念し畏れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。
特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。

戦闘詳報は、殺害者の数を正確に把握するのは不向きですが、軍隊のどの行動がどこから命令が出されていてどの部隊がそれを行ったのか、というのを把握するには良質の資料と思っています。
この資料の出来事は、残念ながら事実のようです。
「助命するぞ」と呼びかけて投降した兵士を殺害したのは、戦闘行動ではありません。
念のため否定派の本もチェックしてみたのですが、私の手持ちの中にはこの戦闘詳報を採用しているものはありません。
こういったことがあちこちで行われていたのであれば、人数が少ないにしても虐殺の誹りは免れません。

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コメント

こんにちは。
南京の件については諸説有りすぎて一個人がその見解をまとめるのには相当の労力が必要だと感じておりますが、冷静にこのことと向き合っている姿勢に共感したので応援クリックさせていただきました。
「あった」「なかった」の結論ありきで議論したり持論を展開しているのをよく目にしますが、両派ともどこかに無理があると感じておりますので、この問題は冷静に考えていきたいですね。
今後のエントリーにも期待しております。

投稿: j.seagull | 2007年1月23日 (火) 10時57分

>seagullさん
クリックありがとうございます。
気持ちとして日本軍を擁護したいものはあるのですが、史料を見る冷静な目を失ってはならないと考えます。
南京は題材として個人の手に余る上に、常に旧日本軍擁護の気持ちと戦わねばならないものだと思っていますので恐々としながら読んでいる、という具合です。
ご期待に添えるかわからないのですが、自分を客観視する視点を失わないよう努めてまいります。

投稿: 代吉 | 2007年1月23日 (火) 20時41分

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