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2006年10月 2日 (月)

河野談話分析(7) こうして河野談話が出された

1992年1月17日、宮沢首相は韓国国会で「アジアの中、世界の中の日韓関係」という演説を行いました。
「北朝鮮を孤立化させるより迎え入れた方がいいという帰国の考え方に共鳴した」とか今読むと信じられない事も仰ってますがまあそれは置いておきましょう。
公式謝罪と言われる文言は以下の通りです。

数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に、我が国が加害者であり、帰国が被害者だった。私はこの間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、改めて、心から反省の意とお詫びの気持ちを表明する。
最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられるが、実に心の痛むことであり、まことに申し訳なく思っている。

一国の元首としてこれ以上ないくらい謝っていると思いますが当然これでは終わりません。

「本当に申し訳ないと思うのなら、なぜ、補償などの具体的な約束を言わないのですか」
(尹貞玉 挺身隊問題対策協議会代表)

「人道主義の国だと公言する日本が、戦後処理問題について、被害者団体の実状を知り。誠意をもって精算することを要求する」
(太平洋戦争犠牲者遺族会など三団体の声明)

今まで日韓条約で解決済みとの解釈で慎重だった韓国政府も
「個人の被害補償の権利まで消えたわけではない」
(李東元元外務部長官)

以上は全て宮沢首相の謝罪当日の動きです。
その後の内外の動きを列挙します。

1992年2月1日
第六回日朝国交正常化交渉で北朝鮮から謝罪と賠償を求められる。

1992年5月
国連人権委員会の現代奴隷制作業部会「慰安婦」問題について特別報告官に情報を提供するよう国連事務総長に要請

1992年7月6日
朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表」

1992年8月
ソウルにて「第一回強制慰安婦問題アジア連帯会議」開催される。

1992年9月
フィリピン人慰安婦としてマリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさん名乗り出る。

1992年12月
河順女さんら四人が強制連行されたとして山口地方裁判所下関支部に提訴。

12月9日
東京にて「日本の戦後補償に関する国際公聴会」開催される。

1993年3月
宮沢首相、首脳会談でフィリピン大統領に謝罪。

1993年4月
宗神道さん、在日朝鮮人として初めて提訴
フィリピン人被害者とされる十八人が来日して提訴

1993年5月
国際法律家委員会、慰安婦問題は日本政府に責任有りとして国連人権委員会に報告書を提出。
国連世界人権会議で出されたウイーン宣言「日本は組織的婦女暴行、慰安婦の訴追を受けるに値する」と盛り込まれる。

1993年6月
台湾でも被害者48人を確認。

1993年7月
日本政府、ソウルで被害者十六人からヒアリング調査。

1993年8月4日
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 。

吉田清治と朝日新聞の連係プレーが恐ろしいほどの効果を挙げています。
現在拾える話でこれだけのものがあるのですから、日本政府の中枢にいる人達にとっての当時の事を推し量ると、想像もできないほどの圧力だったことでしょう。
こんな中で「論点がすり替わっている。問題は強制制だったはずだ」など言えるものでしょうか?
宮沢首相にしろ河野官房長官にしろ、冷静な判断をする事は非常に難しかったことでしょう。

当時の官房副長官だった石原信雄さんに取材したという形で櫻井よしこさんが以下のように述べておられます。

次の疑問は、ではなぜ日本政府は、強制連行の資料がないのに、強制連行だったと認めたのかというものです。石原氏が言いました。
「精神的な名誉の問題ですから。それを日本政府が認めることでおさまると、そう言う感じでした」
これで自体が「おさまる」との感触を石原氏らは日韓政府間の複数回の話し合いを通して得たわけです。
資料はないが、日本政府が強制連行を認めるならば、この問題はこれで収めよう、以降これについては問わないと言う類の、アウンの呼吸以上の確信が相互の文言の調整のなかで、少なくとも日本側に生まれたのではないでしょうか。だからこそ、日本側は敢えて強制だったと認めたのではないでしょうか。(中略)
しかし同時に孔大使は言いました。
「日本政府が公式に強制連行を認めたのですから、やはり強制連行はあったのでしょう。ないと言うのでしたら、日本側がないということの証拠を出してくるべきでしょう」(中略)
つまり、強制連行を認めることで事態はおさまったのではなく、逆に「強制連行だった」と日本政府が認め謝罪したことを土台として、この問題が次の段階に進む可能性があるということです。
要するに、日本は外交で韓国に負けたのだ、と強く感じました。

吉田清治の詐欺本から始まったこの問題は、日本政府が世論に押され放しの感じで負けたのです。
詐欺本による問題提起、報道機関による煽り、呼応する弁護士などの民間団体、個人、学者。
政府の失策を狙う日本人達の連携は素晴らしく有機的に作用しました。
韓国側もそれに対して当然な呼応をしたのだと思います。

これは国際問題に見えて実は政府と反政府との間の国内問題だったのだろうと考えています。
政府はこれが、偶然も多分に作用したこの連携を、戦いだとは見抜けなかったのではないでしょうか。

河野談話が以上のような経緯で出されたことを約一週間かけてお話してきました。

以下は女性に対する配慮が足りない意見かもしれませんが、慰安所の設置自体がいけないことであったとは私は思っていません。
この間、色んな文献を読みましたが、世界中の軍隊で暴行や略奪は当然のように行われていました。
と言いますよりも戦争と暴行略奪は常にセットで行われたというのが、善悪を別とした人類の歴史です。
戦争自体の是非を問うのは別問題とすると、戦争がいったん始まってしまえばその手の事件を避けるのが不可能に近かったのだろうと考えます。
ですから暴行を防ぐために玄人の女性を雇用して、無辜の女性を守るという発想は、最高かどうかはわかりませんがベターな選択ではなかったのでしょうか。
もっとも吉見教授等の論によると、慰安所の設置に関わらず暴行事件は劇的に減るということもなかったという報告もあります。

問題はこの後も続きます。
マレーシア、フィリピン、インドネシアと東南アジア全体にこの騒動は続き、後継の村山首相は「アジア女性基金」を設立して問題の解決を図ります。
あくまで国家補償にこだわる組とこだわらない組とで慰安府側も分裂します。
問題の中心は国連人権委員会に移り、スリランカ人のラディカ・クマラスワミ女史の活躍をもって国際的にも日本の残虐さがアピールされます。
しかし河野談話が出された後の経緯については、これ以上述べるのは辞めておきたいと思います。

河野談話はすでに発表されてしまった日本政府の公式な見解です。
それはもう覆すのが難しい歴史ですが我々がそれに縛られすぎてはいけません。

最後に猪瀬直樹氏の言葉を引用します。
それにしてもたった一人の詐話師が、日韓問題を険悪化させ、日本の教科書を書き換えさせ、国連に報告書までつくらせたのである。虚言を弄する吉田という男は、ある意味ではもう一人の麻原彰晃ともいえないか。

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