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2006年9月28日 (木)

故郷忘じがたく候

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河野談話が出た背景を分析するために慰安婦問題の初期経過について話して来ました。
次は当然、吉見教授の見つけた資料からまた朝日の狂気の報道、河野談話が出た後も続く日本政府への攻撃、
果ては国連人権委員会でのクマラスワミ報告と続くわけですが、吉田清治やら植村記者やらの悪口言い過ぎて少し気分が悪いのです。
続きはもちろん書いていきますが、今日一日はそういう話を休憩させて下さい。

清涼剤として紹介したいのが司馬遼太郎さんの「故郷忘じがたく候」です。
この本についての疑義もあることも承知していますが、今日は沈寿官さんの誇り高い姿に酔いたい気分です。

さて沈さん一家が日本にやってきたのは豊臣秀吉の朝鮮侵攻、文禄-慶長の役の時の事でした。
終戦の混乱で日本に連れてこられた沈さんの先祖は鹿児島県の串木野そばの島平という海岸に漂着します。

-呼ベドモ人ナシ
という荒涼たる風景であったであろう。
かれらにすれば鹿児島という地名も知らず、方角も知らず、どこへたれを訪ねてゆくあてもなく、白装のすそを踏んで砂浜をさまよい、病人は臥し、婦人は泣き、哀号の声はあたりに満ちた。

悲惨な状態に嘆いていてばかりいても仕方ありません。生きていかねばしょうがありません。
代々陶工であった沈さんのご先祖達は、ここでも陶土を探して窯を作り、焼き物を作り始めます。
そして心ない地元民から好機の目で見られ、砂浜を追われ、苗代川という場所にどうにか集落を構えます。

-コノアタリ、故山に似タリ

というのが苗代川に住まいを定めた理由であったそうです。
「朝鮮から連れてこられた陶工が苗代川にいる」
という噂はやがて鹿児島まで届き、当主の島津義弘が

-者ども全て鹿児島城下に居住せよ。屋敷も与え、保護も加える。

と陶工達を招こうとします。
しかし陶工達は
「高恩感泣スベキコトナレドモ鹿児島ノ城下ニハ参リマセヌ」
とその申し出を断ります。
使者が理由を聞くと
「故郷、哀シク候」
と答えます。それを聞いた使者は
「聞くがよい。この苗代川から鹿児島まではわずか六里にすぎぬ。であるのに、この村におれば故郷哀しからず、六里向こうの鹿児島に行けば故郷哀しとは、あまり気儘な言いざまではあるまいか?」
と質問します。すると陶工達の長老はこう答えます。
「苗代川の近くにある山待楽の丘に登ると東シナ海が見える。その海のはるか向こうに朝鮮の山河が横たわっている。
我々は天運無く先祖の墓を捨ててこの国に連れられてきたが、しかしあの丘に立ち、祭壇を設け、先祖の祀りをすれば遙かに朝鮮の山河が感応し、かの国に眠る祖先の霊をなぐさめることができるであろう。」

この言葉は意外にも島津義弘の怒りを買いませんでした。
「されば苗代川に土地と屋敷を与えよ」という事で苗代川で沈さん達の歴史が始まる事になります。
それはつまり薩摩陶磁の歴史の始まりでした。
島津家の支援もあって揖宿郡と川辺郡に好適な陶土が見つかり、釉薬の原料も発見されました。
李朝の白磁とはひと味違う、厚みの非常に薄い陶器-白薩摩を作り出しました。
島津家の政策により白薩摩は貴重品となり、苗代川の窯は藩立工場となりました。

以後三百年、白薩摩の技法は進化を続け、世界の陶芸の中でもこれほど巧緻なものはあるまいとまで言われるようになりました。

そして初代から数えて十三代の沈寿官がそれぞれ伝統を育ててきました。
後の十四代沈寿官少年は、中学校に入学するや否や、朝鮮人だという理由で暴力的ないじめに遭います。
十数人からさんざん殴られ、家までたどり着いた少年がそこで見たのは、家の前に立つ両親の姿でした。
きっと少年がいじめに遭うのを予想していたのでしょう。
しかし「もうあんな学校には行かない」という少年に十三代沈寿官氏は冷厳に言い放ちます。

「お前には誇り高い血が流れている。島津義弘に誘われても、当時裏切り者の朝鮮人も住んでいた鹿児島に住むのを潔しとせず、故郷を思い出せるこの苗代川に居を構えた。
当時島津義弘に逆らうことは死を意味した。それにも屈せず誇りを貫き通した先祖の血がお前には流れている」


一番になれ、ケンカも勉強も一番になれ、そうすれば周囲から侮られはせぬ、と父親から諭されて少年は戦うことを決意します。

薩摩では、少年が他の少年に対し右肩をわずかにそびやかすだけで挑戦の意を伝えることができた。

毎日沈少年は他の少年との私闘に明け暮れます。そして三年生になった時、同年の他の少年全てに勝利を得ます。
ケンカに明け暮れた三年間の後に誕生したのは、第十四代沈寿官となるであろう、日本人以上に誇り高い少年でした。

誇り高き若き沈寿官は、芸術的な関心に目覚め、展覧会用の作品を求められるようになります。
しかし十三代の当主にそれをいさめられます。
「展覧会などは浮華なものに過ぎぬ。十三代に渡って続いてきた歴史こそがお前の背負うもので、展覧会などに目をくれる暇などお前にはない」
若き沈寿官は父に初めて逆らいます。
「では私のこの芸術への衝動はどう抑えるのですか。私の人生は何のためにあるのですか。教えて下さい!」

十三代沈寿官翁はひとことだけで答えます。

「息子を、茶わん屋にせい」

わしの役目はそれだけしかなかったし、お前の役目もそれだけしかない、と。

十三代が亡くなった後、家を継いだ沈寿官は、父の教えに従って伝統を守り抜きます。
老境になられてから沈さんは韓国へ旅行に行かれています。
ソウル大に招かれて講演を引き受けた沈氏はソウル大の大講堂で学生達に向かって明るく話しますが最後にこんな話をされます。

「これは申し上げていいかどうか・・・・
私には韓国の学生諸君への希望がある。韓国に来て様々の若い人に会ったが、若い人のたれもが口をそろえて三十六年間の日本の圧政について語った。
もっともでありそのとおりであるが、それを言い過ぎる事は若い韓国にとってどうであろう。言うことはよくても言い過ぎるとなるとそのときの心情はすでに後ろ向きである。
新しい国家は常に前へ前へと進まなければならないというのに、この心情はどうであろう。」

「あなた方が三十六年を言うなら・・・・」

「私は三百七十年を言わねばならない」

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コメント

貴方の勉強になかなかついていけませぬが
ゆっくりと
一言一言を噛み締めて読ませて頂いております
前を見て歩いていく 
ほんとにそのとおりだと思います

投稿: R☆ | 2006年12月 3日 (日) 01時23分

このエントリーは気に要ってるんよ
いいところにコメントしてくれてサンキュー
せねばならないと思って書いてるんだけど、誰かて隣国の人を必要以上に悪く言いたくはないものね。
しかしこれは楽しく書けました。
沈さん 美しいよね。
無理せず前を見て動いて行けたら最高の人生を送れそうです。
肩肘張らずに

投稿: daikichi | 2006年12月 3日 (日) 11時33分

つい先日 10月20日 月曜の20時から放送のNHKの番組 「鶴瓶の家族に乾杯」で鹿児島の沈寿官「 薩摩焼宗家 」が紹介されたので ホウ~そんなに凄いんだ~と単純に信じ込みネットで 沈寿官さんの事を調べていたら このサイトに辿り着きました。九州に住んではいても 焼き物などには 普通程度の関心しか持ってはいなかったのですが 以前 何度もNHKや民放で 沈寿官さんが取り上げられていたのは 視聴していたので 

全く 単純に 沈寿官が 薩摩焼宗家・・・

だと堅く信じ込んでいました。 勿論、司馬遼太郎の「 故郷うんぬん・・・」など読んだ事も在りませんが 先日の鶴瓶の番組の中で 寿官本人が 司馬が生きている人物について本を書いたのは 私だけだ・・・と自慢げに述べていたのが 何となく引っ掛かったのです。
 
私は 焼き物の歴史など 全くの ド素人で 更には 薩摩焼の歴史など 数日 ネットで散見して得ただけの知識に過ぎませんが どうも「 薩摩焼宗家 」の宗家・・・部分は非常に疑わしく思えて来ました。薩摩焼には 6派あり 美山の沈窯は その中の一派に過ぎないのでは? と思えてきたのです。

宗家とか本家と云った表現は如何にも 薩摩焼の本家・本元のイメージを感じさせますが ワン・オブ・ゼムに過ぎないのでは・・と思います。他の窯のホームページや焼き物美術館のホームページを見た限り、薩摩焼全般の「 歴史 」由来に於いて 沈窯は 存在意義すら不明確なのです。 沈の主張するように 宗家なら絶対 どの歴史由来にも 名が出てきそうな物でしょう? 
柿右衛門窯は 初代が苦心して 赤色(だったか?私の焼き物知識はこの程度、小学校の教科書に確かのっていた)を編み出し 現在に連綿と一子相伝で伝わってきたラシイので 宗家でも本家でも名乗って相応でしょうが 薩摩焼全体において 沈寿官の名はどうして あまり出てこないのでしょうか。

テレビの伝えるイメージは  虚構だったのかもしれません。 かつてNHKや民放の 沈寿官特集番組を見て すっかり そう 信じ込まされていたのかもしれません。

おそらく 全国の視聴者の大部分がそうでしょう。 先日の鶴瓶の番組と来週放送されるらしい続編で 沈寿官窯が 薩摩焼宗家 だと刷り込まれてしまう事でしょう。

鶴瓶が 偶然 トイレを借りようと行った処が沈寿官の家だった・・・・なんて ちょっと考えれば 出来すぎた偶然でしょう。テレビによくある念入りな打ち合わせの後の 所謂「 ヤラセ 」でしょう。

司馬遼太郎の著作は 何度もNHKの大河ドラマにも取り上げられ 「 街道を行く 」も時々放送されていますが こうなると 博学多才な司馬の 薀蓄さえ もしかしたら 彼の一方的な決めつけに過ぎないのでは・・・とさえ思えて来ました。現存する 今でも確認し得る沈寿官に 関するウソを 平気で書き記したのなら 昔の歴史上の事実も もしかしたら 同様かも と思えるのです。

大韓民国領事館も兼ねていらっしゃる処も胡散臭いです。

投稿: 我輩はタマである | 2008年10月23日 (木) 13時36分

沈さん曰く、

『うちの祖先は逃げ足が遅くて捕まってしまった。』

嫌みのない愉快な語り口に微笑んだ彼の後援が思い出されます。


>我輩はタマである氏:大韓民国領事館も兼ねていらっ           しゃる処も胡散臭いです。

君、何が言いたい?
くだらんタマよ。

投稿: Jiran Jiran | 2008年11月 2日 (日) 19時51分

人は誰でも「 酔いたい 」気分になるものです。一度 自分の気に入った事柄について プラスの情報は次々 獲得しても マイナスの情報は なかなか受け入れられないのではないでしょうか?

このブログの本文中で 沈氏に纏わる「 疑義 」について触れていますが Jiran Jiran氏は開いて読まれたでしょうか?

司馬遼太郎氏は あたかも歴史学者の如く 日本全国について 街道をゆくで書かれ NHKなどでは映像化されて放送されています。私の住む九州では 街道をゆくを元に「 九州街道ものがたり 」などという番組も毎週放送されています。(九州朝日放送ほか4局ネットで)映像を見た人は 断定的な語り口でそれが歴史的事実であった・・・という理解をして仕舞い勝ちですが あくまでも司馬氏の見方に過ぎないのでは・・・と云う一面を忘れがちになるでしょう。

司馬氏は 街道を行くを1971年から1996年までの約25年に渡って 60篇書かれているそうですが 単純に割り算すると一篇・一地方に関して 20週ほどで網羅している計算です。いくら博学・博識であろうと 4~5ヶ月で一地方の全ての歴史的文献を読破できるでしょうか。地域の古文書は その地方の旧家やお寺・神社・学校や役場の施設に分散している訳で 到底全部の把握が可能だったとは考え難いのです。地域のアマチュア歴史家~郷土史マニアは何十年もかけて 一つのテーマを掘り起こすのがやっとなのです。

司馬氏がどの様な取材を 街道・・・執筆時にとっておられたか あくまで推察ですが ある程度の下調べ~情報を司馬氏の下で働いていた人や週刊朝日の人が集めたところを読んで 現地に入り 現地の郷土史家数人に会って取材した程度の知識を纏めたに過ぎないのではないでしょうか。その情報を彼が断定的に書き記したに過ぎないのでは・・・と思えます。彼は元来 歴史小説家であって 決して「 歴史家 」ではなかったはずです。一つの切り口から見た歴史を題材にした物語として見る・読む分には無害でしょうが テレビで映像化されてしまうと そうとばかりは云えない程 断定的な予断を視聴者に与えてしまう懸念があります。歴史ドラマを見る場合も 大体 登場人物がその時如何考えて行動したか・・・なんて作者の想像に過ぎない筈なのに 一つの見方を刷り込まれて仕舞いがちでしょう。 

ブログ管理者さんは 吉田清治の語った話は詐話と理解されている様ですが 信じ切っている人達は 吉田の話に「 酔いしれて 」いるのです。だから 中々 酔いは醒めないのです。

でも、吉田氏の詐話に酔わなかったブログ管理人さんも 司馬氏と沈寿官氏の詐話には 酔ったのかもしれません。


一度酔ったら なかなか醒めません。

誰でも 時には酔い潰れたいからです。

投稿: 我輩はタマである | 2008年11月 6日 (木) 02時17分

生活基盤のない異国の人が、日本で食糧もなく生きていける筈がありません。はじめから陶工の技師集団として連れ帰ったのです。土地を与え、十分な庇護のもと産業振興を企図したものでしょう。逆らう術はなかったでしょうが…

投稿: とおりすがり | 2010年7月14日 (水) 09時56分

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