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2006年9月30日 (土)

河野談話分析(5) 清水局長の失言

さて慰安婦問題 第二次提訴からの推移です。

1991年
・12月11日
金学順さんらが参加した第二次訴訟を受けて、加藤紘一官房長官、記者会見で「政府が関与した資料が見つかっていないので今鋭意調べている。」とコメント。

1992年
・1月11日
朝日新聞、中央大学吉見義昭教授の発見した資料を以て
「慰安所、軍関与示す資料"民間任せ"政府見解揺らぐ」と報道。

この話には伏線がありまして、1990年6月6日の参議院予算委員会での出来事に始まります。
この日から「強制連行」という言葉の意味が変わって「広義の強制連行」についての論争が始まったと言っていいかと思います。
以下がその予算委員会での質疑です。

社会党本山昭次議員:それから、強制連行の中に従軍慰安婦問題という形で連行されたという事実もあるんですが、そのとおりですか。

清水伝雄労働省職業安定局長:徴用の対象業務は国家総動員法に基づきます総動員業務でございまして、法律上各号列記をされております業務と今お尋ねの従軍慰安婦の業務とはこれは関係ないように私どもとして考えられます。

本山:これは是非とも調査の中で明らかにしてもらいたい。できますね、これはやろうとすれば。

清水:従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話等も総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍と共に連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私どもとして調査して結果を出すことは、率直に申し上げてできかねると思っております

坂本三十次官房長官:本件につきましては。政府は労働省を中心に関係省庁協力して調査いたしますので、なおお時間をいただきたいと思います。

清水局長に他意はなかったのでしょうけれども、政府の失策を狙う左翼勢力に致命的なつけ込みどころを与えてしまいました。
それまでは強制制が問題でした。吉田詐話から始まった、旧日本軍が朝鮮人婦女を拉致して回るなどの無法行為があったのかなかったのか?というのが問題だったのですが、この清水局長の発言から、話の性質がすり替わってしまったのです。
すなわち、日本軍が関係していたのか?いなかったのか?
慰安婦が慰安所に連れて行かれるまでは色々な事情があったようです。
業者に騙された。親に売られた。色々あったでしょう。しかし軍人が騙して連れて行った、軍人が泣き叫ぶ女性をトラックに乗せて連れて行ったなどという事例はありません。
(注意:インドネシアで行われた軍人個人による暴走行為は含めません)
しかしこの清水局長発言から、そのいずれの場合でも
「でも日本軍が関与してたんだから責任は日本軍にある」
という問題に本質が変わってしまったのです。
左翼勢力の攻撃をかわす立場であった日本政府としては痛恨のミスと言えましょう。

・1月13日
加藤官房長官、福岡市内のホテルで「最近の民間資料や防衛庁の資料などからみると、かつての日本軍が関係していた事は否定できない段階にきている」とコメント。

すでに問題が強制制から離れ始めています。

・1月16日
宮沢首相韓国訪問。ソウルでは日の丸を焼くなどの抗議行動が相次ぎ狂乱状態。
謝罪を繰り返し、真相究明を約束。
・7月6日
朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表。

朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題については、昨年12月より関係資料が保管されている可能性のある省庁において政府が同問題に関与していたかどうかについて調査を行ってきたところであるが、今般、その調査結果がまとまったので発表することとした。調査結果について配布してあるとおりであるが、私から要点をかいつまんで申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。調査の具体的内容については、報告書に各資料の概要をまとめてあるので、それをお読み頂きたい。なお、許しいことは後で内閣外政審議室から説明させるので、何か内容について御質問があれば、そこでお聞きいただきたい。
 政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未架に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。
 この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、各方面の意見も聞きながら、誠意をもって検討していきたいと考えている。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kato.html

1993年
・8月4日 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
内容は過去エントリーで紹介しておりますのでリンクだけに留めておきます。

この間の推移について次回から詳しく述べていきます。
色々文献集めて読んでますがそれぞれかなりの量があるのでどれを取捨選択してお伝えすればいいか迷ってしまうほどです。
できれば、年表にしてしまうと見えにくくなってしまう出来事と出来事の間の推移を調べてお話したく思います。
逆に「慰安婦問題のここはどうなってるのか?」と言った所をご指摘いただいてそこをご報告もできますので何かあればぜひ教えて下さい。

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2006年9月28日 (木)

故郷忘じがたく候

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河野談話が出た背景を分析するために慰安婦問題の初期経過について話して来ました。
次は当然、吉見教授の見つけた資料からまた朝日の狂気の報道、河野談話が出た後も続く日本政府への攻撃、
果ては国連人権委員会でのクマラスワミ報告と続くわけですが、吉田清治やら植村記者やらの悪口言い過ぎて少し気分が悪いのです。
続きはもちろん書いていきますが、今日一日はそういう話を休憩させて下さい。

清涼剤として紹介したいのが司馬遼太郎さんの「故郷忘じがたく候」です。
この本についての疑義もあることも承知していますが、今日は沈寿官さんの誇り高い姿に酔いたい気分です。

さて沈さん一家が日本にやってきたのは豊臣秀吉の朝鮮侵攻、文禄-慶長の役の時の事でした。
終戦の混乱で日本に連れてこられた沈さんの先祖は鹿児島県の串木野そばの島平という海岸に漂着します。

-呼ベドモ人ナシ
という荒涼たる風景であったであろう。
かれらにすれば鹿児島という地名も知らず、方角も知らず、どこへたれを訪ねてゆくあてもなく、白装のすそを踏んで砂浜をさまよい、病人は臥し、婦人は泣き、哀号の声はあたりに満ちた。

悲惨な状態に嘆いていてばかりいても仕方ありません。生きていかねばしょうがありません。
代々陶工であった沈さんのご先祖達は、ここでも陶土を探して窯を作り、焼き物を作り始めます。
そして心ない地元民から好機の目で見られ、砂浜を追われ、苗代川という場所にどうにか集落を構えます。

-コノアタリ、故山に似タリ

というのが苗代川に住まいを定めた理由であったそうです。
「朝鮮から連れてこられた陶工が苗代川にいる」
という噂はやがて鹿児島まで届き、当主の島津義弘が

-者ども全て鹿児島城下に居住せよ。屋敷も与え、保護も加える。

と陶工達を招こうとします。
しかし陶工達は
「高恩感泣スベキコトナレドモ鹿児島ノ城下ニハ参リマセヌ」
とその申し出を断ります。
使者が理由を聞くと
「故郷、哀シク候」
と答えます。それを聞いた使者は
「聞くがよい。この苗代川から鹿児島まではわずか六里にすぎぬ。であるのに、この村におれば故郷哀しからず、六里向こうの鹿児島に行けば故郷哀しとは、あまり気儘な言いざまではあるまいか?」
と質問します。すると陶工達の長老はこう答えます。
「苗代川の近くにある山待楽の丘に登ると東シナ海が見える。その海のはるか向こうに朝鮮の山河が横たわっている。
我々は天運無く先祖の墓を捨ててこの国に連れられてきたが、しかしあの丘に立ち、祭壇を設け、先祖の祀りをすれば遙かに朝鮮の山河が感応し、かの国に眠る祖先の霊をなぐさめることができるであろう。」

この言葉は意外にも島津義弘の怒りを買いませんでした。
「されば苗代川に土地と屋敷を与えよ」という事で苗代川で沈さん達の歴史が始まる事になります。
それはつまり薩摩陶磁の歴史の始まりでした。
島津家の支援もあって揖宿郡と川辺郡に好適な陶土が見つかり、釉薬の原料も発見されました。
李朝の白磁とはひと味違う、厚みの非常に薄い陶器-白薩摩を作り出しました。
島津家の政策により白薩摩は貴重品となり、苗代川の窯は藩立工場となりました。

以後三百年、白薩摩の技法は進化を続け、世界の陶芸の中でもこれほど巧緻なものはあるまいとまで言われるようになりました。

そして初代から数えて十三代の沈寿官がそれぞれ伝統を育ててきました。
後の十四代沈寿官少年は、中学校に入学するや否や、朝鮮人だという理由で暴力的ないじめに遭います。
十数人からさんざん殴られ、家までたどり着いた少年がそこで見たのは、家の前に立つ両親の姿でした。
きっと少年がいじめに遭うのを予想していたのでしょう。
しかし「もうあんな学校には行かない」という少年に十三代沈寿官氏は冷厳に言い放ちます。

「お前には誇り高い血が流れている。島津義弘に誘われても、当時裏切り者の朝鮮人も住んでいた鹿児島に住むのを潔しとせず、故郷を思い出せるこの苗代川に居を構えた。
当時島津義弘に逆らうことは死を意味した。それにも屈せず誇りを貫き通した先祖の血がお前には流れている」


一番になれ、ケンカも勉強も一番になれ、そうすれば周囲から侮られはせぬ、と父親から諭されて少年は戦うことを決意します。

薩摩では、少年が他の少年に対し右肩をわずかにそびやかすだけで挑戦の意を伝えることができた。

毎日沈少年は他の少年との私闘に明け暮れます。そして三年生になった時、同年の他の少年全てに勝利を得ます。
ケンカに明け暮れた三年間の後に誕生したのは、第十四代沈寿官となるであろう、日本人以上に誇り高い少年でした。

誇り高き若き沈寿官は、芸術的な関心に目覚め、展覧会用の作品を求められるようになります。
しかし十三代の当主にそれをいさめられます。
「展覧会などは浮華なものに過ぎぬ。十三代に渡って続いてきた歴史こそがお前の背負うもので、展覧会などに目をくれる暇などお前にはない」
若き沈寿官は父に初めて逆らいます。
「では私のこの芸術への衝動はどう抑えるのですか。私の人生は何のためにあるのですか。教えて下さい!」

十三代沈寿官翁はひとことだけで答えます。

「息子を、茶わん屋にせい」

わしの役目はそれだけしかなかったし、お前の役目もそれだけしかない、と。

十三代が亡くなった後、家を継いだ沈寿官は、父の教えに従って伝統を守り抜きます。
老境になられてから沈さんは韓国へ旅行に行かれています。
ソウル大に招かれて講演を引き受けた沈氏はソウル大の大講堂で学生達に向かって明るく話しますが最後にこんな話をされます。

「これは申し上げていいかどうか・・・・
私には韓国の学生諸君への希望がある。韓国に来て様々の若い人に会ったが、若い人のたれもが口をそろえて三十六年間の日本の圧政について語った。
もっともでありそのとおりであるが、それを言い過ぎる事は若い韓国にとってどうであろう。言うことはよくても言い過ぎるとなるとそのときの心情はすでに後ろ向きである。
新しい国家は常に前へ前へと進まなければならないというのに、この心情はどうであろう。」

「あなた方が三十六年を言うなら・・・・」

「私は三百七十年を言わねばならない」

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2006年9月27日 (水)

河野談話分析(4) 吉田清治の詐話

ここで、現在日本大学講師の秦郁彦さんにご登場願いましょう。
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慰安婦問題で日本全土が吉田清治に騙されていた時、日本全土が朝日新聞に騙されていた時、この秦教授はそれに屈せず色々と精密な調査をされています。
孤立無援の中でそのような調査を行うこと自体が「慰安婦に対する侮辱だ!」などという声が挙がることでしたので、さぞご心労が多かったのではないでしょうか。
ともあれそういうご苦労の中、「慰安婦と戦場の性(新潮社)」という大変な労作を残されています。

日本人の名誉を守っていただいた事に感謝して紹介させていただきます。
取り上げますのは「第七章 吉田清治の詐話」です。

吉田の著書に疑問を感じた秦教授はまず著者である吉田本人に面会を申し入れます。
面会は断られたものの電話で二回に渡って話をすることができました。

「西部軍→知事→警察署長→吉田という命令系統はあり得ないのでは?」と質問した秦教授に対して吉田は平然と
「戦時中はすべてが超法規的だった」とうそぶきます。
軍隊経験のあるご老人が読者の中におられたら、如何にあり得ない事なのかわかっていただけると思います。

「二作目の中に『妻の日記』という記述が昭和十八年のこととしてあるが、一作目では結婚は昭和十九年とあるが?」
「事実上の結婚と入籍の届け出がずれただけだ」
「では事実上の結婚はいつか」
「昭和十六年だ」
「貴方は昭和十五年から十七年まで入獄しているが?」
「妻は死んでいるので調べようがない」
「発言の裏付けを取りたいので胸腺連行に携わった元部下を紹介してくれ」
「迷惑がかかるので教えられない」

まるで子どもの言い訳のようです。

「済州島の貝ボタン工場にて女性を拉致して回ったと」いう記述を元に秦教授は1993年済州島にて聞き取り調査をします。
しかし島民達に「でたらめだ」と一蹴されるわ済民新聞の記者に怪訝な顔されるわで大変な調査だったようです。
帰国した後秦教授は調査結果を産経新聞や「正論」に掲載します。
その後朝日新聞が吉田清治を取り上げる事はなくなりました。しかし訂正は未だにしていません。

秦教授の詳細な調査が日本国内で知れ渡ると、強制連行肯定派の重鎮である中央大学吉見教授もこのように述べます。
「私たちは1993年五月に吉田さんを訪ね、積極的に反論するよう勧めた。(中略)吉田さんは、日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるのでできないと答えた。
そのほか回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。そこで、私たちは、吉田さんのこの回想は証言としては使えないと確認するしかなかった。」
肯定派にも匙を投げられてしまっています。

1996年にまた秦教授は電話で吉田と話し合います。
「済州島の慰安婦狩りの情景は実際には全羅南道でのできごとだった」
「では全羅南道での話は真実か?」
「いや、全羅南道の被害者に迷惑がかかるといけないので他の場所での話が混ぜてある」

秦教授はここで「それ以上問いただす気力を失った」と感想を述べておられますが、これは秦教授じゃなくても脱力します。

その後、週間新潮のインタビューで吉田はこう言います。
「秦さんらは私の書いた本をあれこれ言いますがね。
まあ本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグなぶぶんがあってもしようがない」

真面目な新聞社はいい面の皮です。
1998年の秦教授と吉田との電話での会話です。
「『あれは小説だった』と声明を出してはどうか?」
「人権屋に利用された私が悪かった。しかし私にもプライドがあるし、このままにしておきましょう」

「このままにしておきましょう」だと!!???

お前のおかげで無用な贖罪意識を持たねばならなかった日本の子ども達にすまないと思わないのか!
お前のおかげで韓国で八回も謝罪せねばならなかった宮沢首相にすまないと思わないのか!
お前のおかげで謝り続けた細川首相、村山首相、橋本首相、果ては天皇陛下にまで謝罪をさせて良心は痛まないのか!
何より、過去は過去として静かに暮らしていた元慰安婦の女性達の人生をムチャクチャにしたことを人間としてどう思うのか!
「私にもプライドがある」だと?ふざけるな!!!

右翼の方がよく作っている「国賊リスト」というのがありますが、その方たちの気持ちが段々わかってきました。
国賊とは吉田清治のような動物に対してふさわしい言葉です。

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2006年9月26日 (火)

河野談話分析(3)  植村記者らのこと

前日のエントリーに書いた数人の日本人について突っ込んで調べてみました。

Yoshida

吉田清治
1913年10月15日生まれ。日本の元軍人。福岡県(山口県とも)出身。本名吉田雄兎。
1947年、下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補し落選。1977年、『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)を出版。その中で、第二次世界大戦中に日本軍人が朝鮮の女性を強制連行し慰安婦にしたと証言。1982年には第一次樺太朝鮮人裁判で朝鮮人の奴隷狩りを証言。1983年、従軍慰安婦問題への関心を高めた『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房)を上梓した。その後も朝日新聞・しんぶん赤旗などで自身の「戦争犯罪」の告白を展開。韓国にも赴き、講演と謝罪を繰り返した。
しかしその「慰安婦狩りを行った」という証言について秦郁彦が済州島まで赴き、現地調査したところ明確な裏付けは取れなかった。当時を知る島民は「この島で人間狩りが起こったら大騒ぎになって誰でも知っているはずだが、そんな話は聞いたことすらない」との証言をしている(詳細は秦の著書である『慰安婦と戦場の性』を参照)。
しかし尹貞玉(元梨花女子大学教授)が1993年に同島で調査を行ったとき、島民の強い抵抗の中で一人の被害者と推定される証言者が名乗り出た。だが、周囲からの本人への説得と制止によって、それ以上証言をとり続けることを拒否された。そのため、吉田清治証言の裏付けは取れなかったが、吉田清治証言を否定する証拠もない。
さらに平成8年(1996年)5月29日付の週刊新潮インタビューで、関係者に迷惑がかからないように記述をカモフラージュした部分があると認めた。吉田清治証言は根拠のない嘘とは言えないものの、「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない。

千田夏光
(1924年8月28日~2000年12月22日)
日本の作家。現中華人民共和国の大連生まれ。
1973年、「従軍慰安婦 正編」を上梓し、その中で”従軍慰安婦”という造語をはじめて使用した。その後も日本の”戦争犯罪”の告発に力を尽くした。
その著書である「従軍慰安婦」の中であたかも原善四郎(関東軍参謀)に面会し、「慰安婦を八千人連行した」との証言を引き出したかのような記述がある。しかし、実際には千田が原に面会した事実はない。千田は他の書物の記述を引き写したのみで、嘘を書いたことを認めている。よって原証言に関して、その記述には一切の信頼性は認められない。
「“従軍”慰安婦」という言葉の創案者としてよく知られている。
また、現在も韓国で続いている女子挺身隊 (工場などへの勤労奉仕隊) との混同も、彼の著書から始まったものだと言われる。

植村隆
1958年高知県生まれ。早稲田大学政経学部卒。1982年朝日新聞入社。千葉支局、テヘラン支局長、ソウル特派員、外報部デスクなどを経て、現在中国総局記者。学生時代より韓国に関心を持ち、朝日新聞入社後、延世大学(韓国)語学堂に留学。
著書として「マンガ韓国現代史 コバウおじさんの50年」(角川書店)「ソウルの風の中で」(社会思想社)がある。
彼の妻の母親は、前日のエントリーで述べた「太平洋戦争犠牲者遺族会」の会長である。

青柳敦子
1952年生まれ、福岡県出身。九大薬学部卒。1985年、宋斗会氏に出会い、初めて、在日朝鮮人の歴史的経緯と国籍問題、樺太に朝鮮人が置き去りにされていること、朝鮮人が戦場に動員されたことを知る。以来、宋斗会氏の指導の下で、在日朝鮮人の日本国籍確認訴訟、光州千人訴訟、浮島丸訴訟などの戦後補償裁判に取り組む。家族は夫と二男一女。主婦。

吉田清治などはかなり有名なので大体知っている情報ばかりでしたが、植村隆記者の奥さんが遺族会の会長の娘だったというのは驚きました。この記者は自分の身内を応援するために虚偽の内容を報道し、日本国民を事実に基づかない自虐の海に引き込んだのです。
金学順さんが嘘つきだと言われてしまう状況を作り出し、金さんの人生の最後をメチャメチャにしたのみならず、多くの日本の子ども達の心を自虐意識に染めてしまいました。
貴方は下に引用する子ども達の書いたものを読んでどう思われますか?

 「可哀想っていうよりか、何で? どうしてこんなことすんの? って感じだった。極端(!?)かもしれないけれど、私は初めて日本人として恥ずかしく思った。金学順さんのいう通り、あったことはあったと言うべきだ!!隠すなんて感じが悪いし、朝鮮の人たちを侮辱していると思う。そして、たくさんの朝鮮の人達の人生を台無しにしてしまったことを日本は深く反省して、これからもその罪を償っていくべきだと思う。」

 「あったことはあったと言うべきだ。もちろん金学順さんが本当のことを言っているとは言い切れないが、ウソをついてまでこんな恥ずかしいことを言うワケがない。日本政府が裏でこんなことをしていたんだ。このままじゃムリヤリ慰安婦にされた人が浮かばれないちゃんと謝って金学順さんやすべての墓に行ってやるべきだ。あったことはあったと言ってこそ日本は発展していくと思う。」

 「私は、朝鮮の人がたくさん殺されたりしたことは知っていたけど、慰安婦にされた人がいたことは初めて知りました。金学順さんの証言を聞いて、改めて日本は本当にひどいことをしたんだなと思った。慰安婦は金学順さんみたいに、心の傷が一生残るし、自分がした事実を隠そうとする日本は最低。ちゃんと教科書にも載せて事実を若い人たちにも知らせたほうがいいと思う。慰安婦の人たちにも謝罪してほしい。」

 「学校でこの話を聞くまでは、あんまり真剣に考えていなかったけれど、この事実は残していかなきゃダメだと思う。日本の良い過去は残して、都合の悪いのは消すなんておかしい。そんなことをしていたら慰安婦だった人にもうしわけない。その人たちは、わたしらが想像もつかないほどの嫌な思いをしてきたのに、それが今から何年かたったら、その存在すら消されてしまうんですか。慰安婦の人でも、自分は慰安婦だったって言えない人がほとんどだけど、金さんの話を読んでいたら、やっぱり日本でこのことを消したらダメだと思う。金さんたちに謝ることは大切だけれど、それと同時にこの事を教科書に残して、あたしらよりも後の世代の子にも、この話を知って考えてほしい。」

 「プリントを読んで、金学順さんは、日本に痛い目にあわされて、それで大事な家族もみんないなくなってしまって、かわいそうで悲惨だったなと思う。同じ日本人だけど、なぜこんなことをしたんだろうと思う。金学順さんだけじゃなくて、もっといっぱい同じ事をされた人たちが、まだいっぱいいたと思うからすごく悲しいです。もし、学校でこういう学習をしなかったら、ずーっと知る機会ないと思うから、こういうあったことはちゃんと学習していったほうがいいとおもいます。」

 「私は、金さんの『このハンを抱えたままで死んでいくでしょう』という言葉が、すごく涙がこみあげてきそうな気持ちになった。何もしていないのに連れて行かれて、言葉でいえないようなことをされて、心も体もボロボロにされた。そして、したのが、私達の国の日本がしたなんて、もう、言葉も出ないよ。同じ日本人として恥ずかしい。昔の人で、そのときの状態とかあると思うけれど、そんなんいいわけにはならないよ!!それは絶対にしてはいけない。昔の人は、女はどうしても男に力では勝てない、男には弱いって知っててそういうことをしたなんて許せない。同じ女として、すごい、ものすごい腹が立つ。私はまだ中学生で、社会に出てなくてて、なぜ慰安婦のことを書かないのか、なぜ謝罪しないのか、くわしくは知らない。よく分からないけど・・・。そして私は慰安婦やそのとき殺された人たちのこととか、すごく怖くてあまり聞きたくないけど、聞かなくちゃいけないことだと思う。二度とこんな過ちがおこらないように・・・。」

 「罪を許すことは、それ自体罪だから消えることはないし、隠すことはできない。金順学さんや、たくさんの女の人の心の傷と同じように・・・。消せないし、隠すこともできないならどうすればいいのだろう。受け入れる? 背負って生きていく? 一人で苦しみながら、いやされることのないまま死んでいくの? そんなのはひどすぎる。だから、みんなで受け止めないと。二度とくりかえさないように。人間はいつか死んでしまうけど、事実は消えたりしない。事実は消えたりしない。故意に一部分だけ消されてしまうなら、それ以外の事実も必要なくなってしまう。」

これらは全て植村記者の捏造記事から生まれた、事実に全く基づかない誤解から来た感想です。
このような歴史教育をされた子ども達こそが被害者ではないのですか?
小中学生の頃にこのような誤解を頭に深く植え付けられてしまうとそこから抜け出すのはもう困難です。
日本軍が現実にそのような強制連行をしたのなら、心から恥じ入ってお詫びの気持ちを持つことは絶対に必要だと思います。
しかしそれが、印税欲しさの嘘ばかりで固めた本が元だったらどうですか?
身内の民族運動を支援するために作られた捏造記事が元だったらどうですか?
貴方が子どもの親だったらこのような情報操作が子どもに対してなされていることに何も感じませんか?

ここで西岡力氏の著作より引用をいたします。

十一日付けの記事を書いたのは植村隆記者だ。彼は朝日新聞から派遣されて語学留学までした韓国語の使い手だ。その植村記者が、彼女が何を語っているのかわからなかったわけがない。知っていながら意図的に「キーセンとして売られた」という重大事実を伝えず、そのかわりに「『女子挺身隊』の名で連行」などというまったくの捏造報道を行ったのだ。
植村記者は日本政府を相手に賠償を求める裁判を起こした「太平洋戦争犠牲者遺族会」の女性幹部(当時の常任理事、現在は会長)の娘と結婚している。元慰安婦の証言について第一報を書けたのも、義理の母からの情報提供によるのだろうが、朝日新聞は事実を歪曲した重大な誤報を載せて、記者の親族の裁判を応援したことになる。
日本が戦前朝鮮人従軍慰安婦を強制連行したという重大な誤解が内外に広まるのは、この植村記者の誤報などで日本での自虐派の運動が勢いづき、同年十二月に日本政府を相手に裁判が起こされ、それを朝日新聞などが大々的に報じたことを大きな契機にしていることは関係者にはよく知られている。
筆者は翌92年4月号『月刊文藝春秋』と同年出版拙著『日韓誤解の深淵』でこの点について詳しく書き、朝日新聞に訂正を求めたが、現在に至るまでもそれはなされず、それどころか植村記者はその後、ソウル特派員を経て現在、北京特派員として継続して韓国・朝鮮問題について記事を書き続けている。
朝日新聞はNHKの番組などについて取材する前に、まず自社が慰安婦問題についていかに誤報したのかを検証すべきだ。

(『朝日新聞にまず問いたいこと』より)

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2006年9月25日 (月)

河野談話分析(2) 初期経過

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慰安婦問題についての簡単な経緯は過去エントリーにありますが、今回はでき得る限り詳細にやっていきます。
単に事実を述べるに留まらず、何故証拠の見つからない強制連行を日本政府は認めてしまったのかを探っていきたいと思います。

・1973年 千田夏光が「従軍慰安婦 正編」(三一書房)を出版
関東軍元参謀が「慰安婦を何千人も強制連行した」と語ったと書中で述べる。
後に著者と元参謀との面接事実はないことが発覚。現在ではこの本の信憑性はほぼないと言われている。
戦中になかった「従軍慰安婦」という単語は千田夏光が作ったとされる。

・1977年 吉田清治が「朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)を出版
下関にて朝鮮人狩り、慰安婦狩りを行ったと述べる。

・1982年 高木健一弁護士が関わっていた第一次樺太朝鮮人裁判で吉田清治が証言を行う。
朝鮮人奴隷狩りを告白。

・1983年 吉田清治が二作目「私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行」([三一書房)を出版
済州島で慰安婦をトラックで拉致して回ったと述べる。

・1989年 吉田清治の二作目が韓国で出版。
朝日ジャーナルに「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式謝罪せよ」と言う内容の広告が計15回に渡って掲載される。
広告主は「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を!100人委員会」なる団体で、京都出身の宋斗会が中心になっているものであった。

・1989年11月 宋斗会に私淑する大分県の主婦青柳敦子が渡韓し、日本政府に対して訴訟を行う原告探しをする。
原告は見つからなかったものの「太平洋戦争犠牲者遺族会」の目に留まる。

・1990年3月 遺族会の招きによって再度渡韓した青柳氏、裁判に関わる金銭を日本側が負担することを条件として原告を募集する。 遺族会から22人の原告が集まる。
10月29日 22人の原告団が日本政府を相手取って、公式謝罪と賠償を求める裁判を東京地裁に提訴。(第一次提訴)
この時にソウルの日本大使館に向かって行ったデモ行進が現在も続く水曜デモの原型とされる。
11月頃 原告団は青柳氏と距離を置くようになり、高木健一弁護士らのグループと接触を始める。

・1991年 朝日新聞、吉田証言を元にして慰安婦キャンペーンの記事を四回に渡って掲載。
8月11日 「思い出すと今も涙」と題して金学順さんの慰安婦体験を社会面トップで報道。
金さん本人は「親に売られて慰安婦になった」と証言を行ったものの、朝日植村記者はなぜかその部分を報道せず、日本軍の関与を疑わせる記事を書く。
12月6日 高木弁護士を主任弁護士とした35人の原告団「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求」の提訴を東京地裁に行う。(第二次提訴)
金学順さんら元慰安婦三人が原告団に加わる。


一貫して日本人が事を進めていたことがわかります。
彼等が公正に事実を調べてそれを伝えていこうとしていたのであるなら日本人として賞賛すべきことですが果たしてそうでしょうか?

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2006年9月24日 (日)

河野談話分析(1)

慰安婦問題を調べていて思いますのが、民族の自尊心に関わる問題ですので、決して日韓両国が同じ認識に立つことはあり得ないということです。
以下は終戦後、米軍が進駐してからの日本の状況ですが、国際法上の違反がなくとも同胞女性に酷い目に遭わせた米兵個人に日本人として怒りを感じます。

日本政府はどのようにして占領軍を迎えたらよいか全く予測のできない状況の中で、米軍から次々に出される命令に対応してきました。東京では8 月28 日に内務省や警視総監了解の下に売春業者たちによって「RAA」(特殊慰安施設協会)が設立され、最初の慰安所「小町園」が大森に開設されました。そこに集められた慰安婦は約30 人でした。
慰安婦たちは、「お国のために日本女性を守る性の防波堤」になるという悲壮な決意の下に、RAA 幹部たちが発する涙のバンザイの連呼に送られてトラックで小町園に到着しました。最初の「お客」(米兵)は早くも28 日の夜現れたそうです。
しかしながら、これは充分な性の防波堤にはなりませんでした。占領軍が進駐した地域では慰安所があっても米兵によるレイプ事件が8 月30 日から頻繁に起りはじめました。基地周辺の家々は軒並み米兵に踏み込まれて、男たちは縛られるかピストルを突きつけられる間に女たちがレイプされるのです。白昼公道において婦人牧師が押し倒されて公衆の前でレイプされましたが、だれも助けようとする人はなく、みな足早やに逃げ去ったこともあります。道を歩いている娘や人妻たちを後ろからジープが来て拉致して、淋しいところでレイプした例も少なからず発生しました。昼も夜もそれは起りました。米軍基地に勤務する女性たちは基地の内部でも外部でも目をつけられて頻繁に辱しめられましたが、私の場合と同じように家族を餓死から救うために勤務を辞めることができず、耐え忍んでいました。

(キリスト教団体「日本のためのとりなしの会」ニュースレター2001年5月号より)

しかし私たち日本人は率先して範を作るべきです。
私がこの「小森園」の関係者だったら冷静な思考になることは不可能かもしれません。しかし日本国民が100人が100人とも感情で歴史を語ってしまうと、日本は亡国への道を歩む事になるでしょう。
私たち日本人は、同じアジアでも大陸の文化とは違う「過去を水に流す」という精神風土を持っています。
功罪双方併せ持つ風土ですが、私たちはこの精神を以て、原爆を始めとする米国の横暴を冷静に淡々と分析するべきです。
そしてその分析を行うことで、中韓の言う「歴史観の共有」という作業はこういうものであるとの一つの模範を作ることができると考えます。

さて歴史を感情的に分析してしまった悪例として平成5年の河野官房長官の慰安婦に関する談話があります。

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 (平成5年8月4日)
 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

この談話が、如何に感情によってねじ曲げられた、亡国に繋がりかねないものであったかを明日から分析したいと思います。

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2006年9月23日 (土)

米下院、慰安婦問題についての動き

このブログは過去の歴史を観察していくことが主旨ですので現在のことを扱うのはどうかと思うのですが、ちょうど従軍慰安婦問題のことを取り上げている時だった事ですので今日はこれを扱いたいと思います。

下院国際関係委、日本の慰安婦関連決議案を可決(2006年09月15日)
米下院の国際関係委員会は13日、日本による第2次世界大戦中の従軍慰安婦動員に関する決議案(下院第759号決議案)を初めて審議し、これを可決した。「中国新聞網」が報じた。

 同決議案は民主党のレイン・エバンズ議員と共和党のクリス・スミス議員が4月に提出したもので、日本政府に対し▽従軍慰安婦動員の事実と責任を認める▽従軍慰安婦問題が人権に反する問題であることを現在および次世代の日本国民に教育する▽慰安婦を否認するいかなる主張に対しても公に強く反論する▽国連やアムネスティ・インターナショナルの慰安婦関連勧告を履行する――ことを求めている。
 同決議案は、日本政府の承諾の下で慰安婦に対して行われた暴行、強制堕胎、性暴力、人身売買などの反人類的犯罪は、20世紀における最大規模の人身売買事件であり、その被害者は20万人に達するとの歴史学者の見解に言及。また、第2次大戦の戦勝国および関係国との賠償協議において、日本政府はこの方面の戦争犯罪をいまだ完全に公開していないと指摘している。

(asahi.comより転載:http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY200609150217.html

アジアの過去を調べると、このエバンス議員という名前は何度も出てきます。

米議員14人、日本に慰安婦謝罪促す (2005年3月25日)
 レイン・エバンス下院議員をはじめとする14人の米下院議員が、日本軍強制慰安婦被害者に対する日本政府の明確な謝罪と適切な賠償を促す議会決議を進めていると、エバンス議員が24日明らかにした。
 同議員は、この日議事堂で慰安婦被害者のカン・イルチュルさんなどが出席したなかで開かれた記者会見で、「日本が世界平和と安定のリーダーとなっているが、過去の行為に全面的な責任を取る姿は見せていない
」とし、他の議員13人とともに慰安婦被害者に対する日本政府の公式謝罪と適切な補償を促す議会決議を進めていると述べた。
 また、「第2次世界大戦終戦60周年になる今日まで、日本政府が慰安婦被害者に充分な謝罪や適切な補償をしなかったとは驚くべきこと」とし、「ドイツとオーストリアは99年自らの戦時補償問題にけりをつけたが、日本はこの悲しい歴史の幕を閉じるための措置を取っていない」と指摘した。
 エバンス議員は01年にも下院議員20人とともに慰安婦問題に対する日本政府の即座の謝罪と賠償を促す決議案を下院に上程したが、審議を待っていた途中で会期が終了し、成立しなかった。

(朝鮮日報より転載:http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/03/25/20050325000051.html

米下院に対日謝罪・補償要求決議案提出
米下院で19日、日本政府に南京虐殺、「従軍慰安婦」、731部隊、捕虜虐待など旧日本軍の戦争犯罪に対する公式謝罪と補償を求める決議案が提出された。「第2次大戦中の日本軍による戦争犯罪について下院の良識を表明する」と題する決議案を提出したのは、レイン・エバンス議員(イリノイ州選出・民主党)ら共和、民主両党の18人。米下院では、97年にリピンスキー議員らによって提出されて以来、同趣旨の決議案が毎年提出されている。今年は提案者が3人増えた。エバンス議員は昨年11月の下院での演説で、初めて「慰安婦」問題を取り上げた。

(朝鮮新報より2000年6月28日、元記事削除)

確実なソースは見つけられていませんがこのエバンス議員、配偶者が韓国人であるらしいとの情報があります。
これについての情報を持っている人がおられたら教えていただけると助かります。
あと、このエバンス議員、韓国人のビザ受給についてアメリカの便宜を図る動きが過去にありますので反日であるかどうか等置いても相当親韓なことは間違いなさそうです。

米議員「韓国人へのビザ拒否是正」を米大使館に要求
10回当選代議士のレイン・エバンス米下院議員(イリノイ)は13日、トーマス・ハーバード駐韓米国大使に書簡を送り、米永住権を申請した韓国人の相当数にビザ発給を拒否している駐韓米大使館の慣行に対し、事実の糾明と是正を求めた。

(中央日報より2002年2月14日、元記事削除)

エバンス議員の身内に韓国人がいるかどうかは法案の可決とは関係ないのですが、アメリカ議会の仕組みを調べた範囲で申し上げますと、
委員会で協議→可決→下院本会議で審議→採決となります。
エバンス議員が関わっていたかは確認できませんでしたが、1997年から毎年この流れを繰り返して本会議で否決されていまして、それも圧倒的多数であったようです。
日本もこのような動きを座視しているのはよくないと思うのですが、正直日本の外務省がこの辺に積極的な関与をしているとは思えません。
そして日本の対応が不十分であることの理由は1993年の河野談話が悪影響を及ぼしているという説が有力です。
事実に反することを認めてしまった河野元官房長官に日本国民として怒りを禁じ得ませんが、それが外交上の取引であったものであるのなら、それを今更反故にもできません。

アメリカで起こされていた従軍慰安婦訴訟で2006年2月に米連邦最高裁が却下の判決を下したことの意義は大きいと思います。
しかし根強くこのような米議会への働きかけなど日本のイメージダウンを執拗に狙う勢力には東海問題や竹島問題にも共通する異常なものを感じます。
対抗する効果的な方法を見つけたいと思いますが、日本の外務省にここまですさまじいレベルの対応を期待しても酷なようにも感じます。

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2006年9月22日 (金)

従軍慰安婦、肯定派の論理(2)

コメントに質問がありましたので少し続けます。

さてこの「戦後責任論」ですが、P123から数ページに渡って、藤岡信勝氏の強制連行否定の論に対して反論を行っています。

「藤岡氏ら否定論者は、『強制連行』の意味を意図的に狭く限定し、物理的暴力を伴う『軍・官憲による強制連行』がなかったから慰安婦は性奴隷ではなかった、日本軍には責任がないと主張します。」

藤岡信勝さんがこれに反論の反論を加えておられるかはわかりませんが、私でも反論できるような文章です。

「『軍・官憲による強制連行』がなかったから慰安婦は性奴隷ではなかった」
とありますが、慰安婦を管理していたのは売春業者です。
性奴隷が存在していたとするのならそれは朝鮮人の業者の責任です。
業者が女性を誘拐して働かせているのを知った日本軍が「そういうことがないようにせよ」と通達した文書なら残っています。

「支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス」(陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」)

売春業者は軍人ではありません。しかし軍と契約を結んでいました。だから軍は関与していたのは事実です。
つまり「この場所で商売をせよ。軍と君たち業者との契約はこれこれこうである」という内容でした。
その業者が違法行為をしていたら軍の責任でしょうか?

こういう事を書くと必ず、国と売春業者を一緒くたにして批判する人がいますが、少なくとも朝鮮半島において軍が直接慰安所の経営に携わったという事例は今まで確認できていませんし、これからそういう資料が見つかる可能性も少ないでしょう。

例え話がわかりやすいと思います。
国の要請に従って私企業が商行為を行ったわけですから、ゼネコンが公共工事を落札した事にでも例えてみましょうか。
あるダムの建設工事を国が行う事になった。入札によってA建設が工事を受注することになった。
A建設は不足する工事用の人材を確保するために現地に住む人を誘拐して監禁し働かせた。
そのことを知った国はA建設に「そういうことをしてはならない」と指導の文書を出した。

この例え話だと、国が誘拐、監禁をしたってことになりますか?

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2006年9月20日 (水)

従軍慰安婦、肯定派の論理(1)

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すっかり否定され尽くしたと思っていた従軍慰安婦問題ですが、まだ国内の左翼の中にもこれを主張する根強い勢力があるようです。
肯定派の論理を知るために一冊本を読んでみました。

「戦後責任論(高橋哲哉)」講談社

こちらの本を読んで気になった点を述べていきます。

P128に「被害者の証言には過剰な精密さを要求し、その信用を落とそうとする一方、自らの主張には大甘なのが否定論の特徴です。」
という部分がありますが、ちょっと理屈がおかしいです。
日本軍の責任を問うためには、被害を受けたと主張する側は立証の責任があるはずです。
「軍による強制連行があった」と主張するのならば、理路整然とした証言と動かしがたい証拠が必要なのは当然の事ではないでしょうか?
旧日本軍を被告だとすると、被告を有罪とするためにはそれ相応の証拠が必要なのは、法治国家の国民なら誰でもわかることです。
松本サリン事件で濡れ衣を被せられた会社員の事を思い出してみて下さい。
あの濡れ衣の原因は、状況証拠だけで「アイツがやったに違いない」などと新聞、テレビがあおり立てたからではなかったですか?
強制連行をあったと主張するのならば、確実な証拠を求められるのは当然なことです。
そしてよく言われることですが、なかったことをなかったと証明することはほぼ不可能です。

「慰安婦Aさんは軍による強制連行によって慰安婦にされた。証拠はこうこうです。」
肯定派はこれだけの証拠をそろえればいいのです。
それが二個あれば二個分だけ、三個あれば更に説得力を増します。
その証拠が一つもないから現在朝日新聞でさえも従軍慰安婦問題を語らなくなってきているのです。

しかし否定派は、そういう強制連行が一件もなかったことを証明せねばなりません。
慰安婦が何千人いたのか何万人いたのかわかりませんがその慰安婦全てが強制制のない売春婦であったと証明することなんかできますか?
肯定論と否定論の証言を同列に扱えというのは無理な話です。

また、P124で「戦後すぐのバタビア裁判やオランダ政府調査報告などでは、占領地でそうした狭義の強制連行があったことが確認されていますし、軍を背後にした誘拐が内地でさえしばしばあったことを示す資料も存在します。」とあります。

暴走した個人の兵の行為を問題にしているのではないのです!
日本国に戦争責任を求めるのならば、日本軍が組織的、系統的にその犯罪を行ったという証拠を突きつけるのが立証側の責任ではないのですか?
それをやってこそ法治国家なのではないのですか?
例えが悪いのですが、日本に旅行に来た韓国人女性を、日本の性犯罪常習者が拉致して強姦したらそれはイコール日本政府の責任ですか?そういったものは個人の責任ではないのですか?

言い方が冷たいようですが、女性の立場を思いやるばかりに本質がすり替わっています。
責任を当時の政府に求めるのだとすれば、政府が指示して実行させたと言う証拠が必要なのです。
そしてそこには、証拠と論理の整合性を求める作業は必要であっても、一切感情を混同してはいけません。
慰安婦問題を肯定する側は学者でさえこのような混同を行っていることは驚きを禁じ得ません。

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2006年9月19日 (火)

通州事件

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http://www.hct.zaq.ne.jp/cpabp700/jibun/hajime.htmlより)

廬溝橋事件の後の小さな事件として取り上げらようと思っていたのですが、当時の日本国民に与えた衝撃度を推測するに、これは独立したテーマとして扱った方がよいと考えました。

当時通州(北京の東12kmの町)には、関東軍が作った「冀東防共自治政府」という政権がありました。
満州に続いて中国北部を領有することを目論んだ関東軍の策謀の結果できた親日政権でした。
安全かと思われていたその町には日本人の居留民が約400人住んでいました。
1937年7月29日、日本軍の主力が不在の時に、自治政府の保安隊の中国人部隊3000人は突然日本人居留民を襲撃、虐殺しました。
簡単なあらましはこちらをご覧下さい。

http://www.senyu-ren.jp/MAGO/12.HTM

参照したURLでだいたいのことはわかっていただけると思いますが、現地の惨状はひどいものだったようです。
桜井文雄元少佐は、7月30日に通州で見た光景をこう証言しています。

「先ず守備隊の東門を出ますと、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横はつて居るのを目撃し、一同悲憤の極に達しました。敵兵は見当りませんでしたので、夜半迄、専ら生存者の収容に擔りました。「日本人は居ないか」と連呼し乍ら、各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が、彼所此所の塵、埃箱の中や、壕の内、塀の蔭等から、続々這ひ出して来ました。

某飲食店内には一家悉く皆首と両手を切断されて居るのを目撃しました。婦人といふ婦人は十四五歳以上は悉く強姦されて居りまして、見るに忍びませんでした。

旭軒と云ふ飲食店に入りますと、そこに居りました七八名の女は全部裸体にされ、強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒を押込んである者、口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に断ち割つてあるもの等、全く見るに堪へませんでした。

東門の近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、それに八番鉄線を通し(貫通)一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。池の水は血で赤く染つて居たのを目撃しました。」

現地の保安隊をして虐殺に走らせたのは、「日本軍敗走」というラジオのデマ放送が原因であるとも、共産党の謀略であるとも、日本軍の飛行機の爆撃が原因であるとも、事前に国民党と打ち合わせた予定の行動であったとも言われています。

当時の新聞はこの事件を
「比類なき鬼畜行動、恨みは深し!」
「世紀の残虐、あ々呪いの通州」
などという報道をしましたので、日本人の対中国感情は急速に悪化し、後の上海事件を契機とする泥沼の日中戦争の下地となりました。

そしてこの事件は東京裁判でも証拠として提出する事を禁じられました。
この事件が裁判の中に現れると、中国の戦争犯罪も裁かなくてはならないからです。

そして、この事件は現在では日本の教科書等には全く載っていませんが、中国の国内では、「輝かしい抗日闘争の成果」として取り上げられています。

主に関東軍の行動を見ていきますと、日本にも明らかに侵略と呼ばれる行動は存在していたと思います。
大したレベルではないと断言できますが日本軍も略奪や虐殺をしていたことでしょう。
しかしそれは交戦国どの国もやっていたことです。
むしろ、通州事件や尼港事件などをやった中国と比べると日本軍のやった行為など大したものではありませんし、東京大空襲や原爆を落としたアメリカと比べても全くレベルが違います。
戦争を、人間の全ての悪の要素が陳列される悪事のデパートだとすれば、日本は、アメリカ中国には敵わない小規模なデパートであったと考えています。
残虐行為を行った過去の日本軍を正当化するという事ではなく、どちらも五十歩百歩だったと言いたいのです。

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2006年9月18日 (月)

廬溝橋事件(4)

9月17日朝のテレビで安部晋三さんが、廬溝橋事件について話されていました。
「当時の日本軍の進駐は合法的なものであった」と述べられるのに留まっていましたが、謎の発砲のこともさぞ言いたかっただろうなあ。。。と思いながら見ていました。

_

さて廬溝橋事件の後、ロシアの脅威を考えていた日本は不拡大方針を取りました。
冷静な戦力分析をすれば当然の選択だと思います。

事件後の状況を抜粋してみましょう。

7月7日
22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。
事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。

7月8日
(現地)
4時00分:日中合同調査団が北京を出発。
5時00分:中国側と交渉を開始。

4時20分:再度の銃撃を受ける。
5時30分:日本軍と国民党軍、全面衝突。
7時30頃:小康状態。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。
(東京)
早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。拡大派、不拡大派のせめぎあいが続く。
18時42分:不拡大を指示する総長電が発せられる。

7月9日
<現地>
2時00分頃:「日本軍は川の東岸へ、中国軍は西岸」という停戦協議が成立。
<東京>

「中国軍の盧溝橋付近からの撤退」
「将来の保障」「直接責任者の処罰」
「中国側の謝罪」
以上の内容を対支折衝の方針とするよう通達する電文が、次長名をもって現地に発せられる。

7月10日
<現地>
前日の次長電の要求国民党側に提出。
<東京>
参謀本部が「支那駐屯軍の自衛」「居留民保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。参謀本部内にも異論はあったが派兵が決定される。

7月11日
<現地>
20時00分:「責任者の処分」「中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする現地停戦協定が成立した(松井-秦徳純協定)。
<東京>
11時30分:五相会議にて、陸相の、「威力の顕示」による「中国側の謝罪及保障確保」を理由とした内地三個師団派兵等の提案が合意された。
14時00分:臨時閣議にて、北支派兵が承認された。
16時20分:近衛首相は葉山御用邸に伺侯、北支派兵に関し上奏御裁可を仰いだ。
18時24分:「北支派兵に関する政府声明」により、北支派兵を発表。
21時00分:近衛首相は政財界有力者、新聞・通信関係者代表らを首相官邸に集め、国内世論統一のため協力を要請。以降、有力紙の論調は、「強硬論」が主流となる。
本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであった。しかし、現地情勢を無視した政府の派兵決定は、拡大派を勢いづかせ、また中国側の反発を招くことにより、以降の事件拡大の大きな要因となった。

7月19日
蒋介石はいわゆる「最後の関頭」演説を公表して、中国の抗戦の覚悟を公式に明らかにした。
以下要約
「満州を失ってすでに6年、いまや衝突地点は北京の盧溝橋に達している。我々はもとより弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。最後の関頭に至ったならば、あらゆる犠牲を払っても、徹底抗戦する」

7月25日
郎坊事件

7月26日
広安門事件
7月29日
通州事件
ついに北支における日中の全面衝突が始まることになる。

日本軍内にも「一撃論」という対中国過激派の存在がありました。
国民党内にも穏健派と過激派がいました。
単純に「日本が侵略を意図を持って中国を攻撃した」
と言いきれるような問題ではないことは確実だと思います。
私個人の感想としては、調べれば調べるほど中共に得になるような情勢になっているように感じています。

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2006年9月17日 (日)

廬溝橋事件(3)

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当時の中国国民党は、共産党と協調して日本に対抗しようと言う左派と、日本と協調して共産党と戦うべきだという右派とのせめぎ合いがありました。
そんなさなかの1936年、西安事件が起こります。

この頃国民党に合流していた、元奉天軍閥の張学良は、日本軍に父の張作霖を殺された事により、国民党と日本軍とを戦わせたいと思っていました。
まあ、当然と言えば当然です。
1936年12月、国民党の領袖の蒋介石が西安に来ていました。
その方面軍を担当していた司令官の張学良は、「一緒に日本に対抗しよう!」という呼びかけを蒋介石に対して行いましたが拒否されました。
そこで張学良は、蒋介石を監禁して国民党を反日に向かわせようと画策します。

この事件をもって、一時国民党本軍と張学良軍とが一触即発の状態になりました。
張側は蒋介石を殺すつもりでもあったようですね。
しかしそこへ調停にやってきたのが共産党の周恩来です。
周恩来の交渉力でもって蒋介石と共産党との間に合意ができ、国共内戦は終了し、第二次国共合作の時代を迎えます。
これが西安事件のあらましです。

廬溝橋事件はこのような状態の時に起こった事件です。

廬溝橋事件により誰が得をしたかを考えるのが、謎の発砲の原因者を突き止める近道と考えます。
以下は「歴史と世間のウラとウラ(http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/index.html)」よりの抜粋です。

もし日本軍が発砲したと考えると

○当時の日本軍の総兵力は、国内国外あわせて25万、これに対する中国軍総兵力は、220万で、いくら日本の軍人が中国軍を見くびっていたとしても、兵力の違いが大きすぎはしないか。
○日本軍は実弾を携行せずに演習をしていた。駐屯軍参謀長橋本群・陸軍中将は当時の状況を、「実弾を持たずに発砲されたため、応戦できず、非常に危険な状況におかれた」と証言している。「丸腰」で演習していた日本軍が、果たして本当に、「武装」している国民党軍と事を構えたいと思ったのか。
○「廬溝橋事件」後に日本は現地解決・戦線不拡大方針を表明し、国民党軍との間に停戦協定を成立させている。このことは日本軍がそれ以上事を荒立てたくはないと考えていたからではないのか。
○その後、日本は膨大な地域を占領したが、領土要求はしていない。占領地は汪兆明政権の領土となり、そこでは治外法権も撤廃されている。
○現地で一旦は解決がはかられた廬溝橋事件の3週間後、さらなる大事件が起こった。中国軍が日本人民間人200名余りを虐殺した「通州事件」とも”通州大虐殺”とも呼ばれる事件である。

 当時、通州には「廬溝橋事件」の余波で避難していた婦女子などの日本人居留民、軍人等200余人が住んでいた。日本の守備隊の主力が町を離れたところへ中国軍千数百名が襲撃した。中国軍は日本軍守備隊を全滅させ、住宅に火を放ち、女性には暴行を加えたうえで殺害、子供は両手・両足を切断、男性には首に縄を巻きつけ引き回した。当然、日本の世論は「支那を撃つべし!」と沸騰した。しかし、この時も日本軍は耐えて動かなかった。

日本が不利になる状況が強いように感じます。

そして、もし共産党軍が発砲したと考えると

○共産党軍は国民党軍の猛攻にさらされ壊滅の危機にあった。共産党が生き残るために蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ようと考えるのは不自然なことではない。
○「廬溝橋事件」発生の翌日7月8日、中国共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けている。すこしお膳立てがよすぎはしないか。
○共産軍の兵士向けのパンフレットには、「廬溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきりと記述されていたという。

○1949年10月1日、「中華人民共和国」成立の日に周恩来首相が、「あの時(廬溝橋事件の際)、我々の軍隊が、日本軍・国民党軍双方に、発砲し、日中両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、共産党に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言している。
○コミンテルン(国際共産党)の廬溝橋事件に関する指令には、1)あくまで局地解決を避け、
日中の全面衝突に導かねばならない。2)右目的貫徹のため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって中国の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい。とある。

共産党に有利になる条件は整っていた、整えられていたように感じます。

しかしこのサイトには以下の事にも考慮しています。
「廬溝橋事件の前に起きた西安事件によって国共合作は既に実現している。だから、もう共産党には謀略を企てる動機は薄かった。」
「廬溝橋事件は日華事変の原因ではなく、単なるきっかけにすぎなのであって、根本的な原因は、当時の中国にあふれていた反日感情と、日本陸軍の思い上がりにあるのだ。」

決定的な一次資料が出てくるまで納得できない問題ではありますが、現状では共産党の企みだとしか自分には思えません。

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2006年9月16日 (土)

廬溝橋事件(2)

1900

事件の事を掘り下げようとすると、当時の中国の情勢を話さなければ理解できません。
みなさんは「国共内戦」って言われてすぐ内容がピンと来ますでしょうか?
私はさっぱりピンと来ませんでしたので調べました。
教科書の内容をちょっと上乗せするだけですが我慢して読んでいただければと思います。

阿片戦争に端を発する清への列強の植民地化はすさまじいものでした。
上の図は当時の中国の支配図です。
(参照:http://www007.upp.so-net.ne.jp/snakayam/topics_28.html

・ ロシア:北京以北すべて
・イギリス:江蘇省、安徴省、淅江省、湖北省、香港
・フランス:広東省、広西省
・ドイツ:山東省
・ ポルトガル:マカオ
怖いですね。明治維新が失敗していたら日本もこのようになっていた可能性が高いのです。

さてこんな状態で中国の国民が怒らないはずはありません。
バラバラにですが「欧米の干渉を招かない中国を作ろう!」と民衆が決起しました。
民衆じゃなかったりするものもありますが以下の勢力が複雑に絡んで中国は内戦状態に入りました。
・溥儀皇帝を中心とする清朝
・袁世凱を中心とする北洋軍閥政府
・北洋軍閥の分派、憑国璋らを中心とする直隷派軍閥
・北洋軍閥の分派、段稘瑞らを中心とする安徽派軍閥
・北洋軍閥の分派、張作霖、張学良を中心とする奉天派軍閥
・毛沢東を中心とする中国共産党
・孫文→蒋介石を中心とする中国国民党
複雑で訳がわかりません。

このうち国民党と共産党とは比較的相性がよく
1924年に「第一次国共合作」という同盟が組まれました。
しかし1925年に孫文が病死し、国民党の指導者が蒋介石になると様相が変わってきます。
共産主義者との同盟を快く思わない蒋介石は1927年、上海クーデター事件を起こして共産党員を弾圧します。
これ以降国共合作は解消され、1927年から1937年は国共内戦の時代と呼ばれています。
蒋介石率いる国民党軍はこの上海クーデター他により共産党を駆逐し、1928年には北京にあった北洋軍閥政府を倒します。
それを受けて国民党は同じく1928年に南京に首都を定めて国民党政府を樹立します。
共産党は各地でゲリラ化することによって国民党に対抗しますがかなりの劣勢と言えました。

ここで共産党軍が「日本軍をして国民党と戦わせれば我が軍に有利になる」と考えても無理はないと考えています。

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2006年9月14日 (木)

廬溝橋事件(1)

Photo_10
廬溝橋事件は1937年7月7日に、日本軍が中国国民党軍を銃撃したことから起きたと言われています。

以下wikipediaより
1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。
この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。

wikiではこの後、7月7日から始まる事件のあらましを述べていますが、どちらから先に発砲したのかを考えていきたいと思います。
国民党軍は「日本から発砲した」と言っていますし日本側は「敵が攻撃してきた」と言っています。
どちらが正しいのでしょうか?
実はどちらも正しかったのではないでしょうか。

発砲された時の日本軍は丸腰の状態だったという証言があります。
「実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた」橋本群・陸軍中将(駐屯軍参謀長)
実弾を使用しない演習中だったようですね。
調べていて現時点でとても怪しいと思われるのは中国共産党軍です。

葛西純一編訳『新資料・盧溝橋事件』に次のような記述があります。
葛西氏は昭和二十年八月の終戦後、中国に残留し、共産党軍に参加して国民党と戦った経歴がある方です。
兵士向けに配られた小冊子の中に以下のような文言があったということです。

「七・七事変は劉少奇同士の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもので、暗闇の盧溝橋で日中両軍に発砲し宋哲元の第29 軍と日本駐屯軍を相戦わせる歴史的大作戦に導いた。
これによって蒋介石、南京政府は世界有数の精強を誇る日本軍と戦わざるを得なくなった。その結果、滅亡したのは中国共産党ではなく蒋介石、南京政府と日本帝国主義であった」

つまり共産党軍が国民党と日本軍を戦わせるために双方に発砲したという意味ですね。

明日もこの問題を考えていこうと思います。

なお葛西氏の証言には物的証拠が呈示されていないことをお断りしておきます。

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2006年9月12日 (火)

南京大虐殺(3)

あまり紹介し過ぎると東中野先生に怒られそうなんですがもう一日だけ

次の写真はコレです。

Photo_8

ううむ。むごい写真です。これが日本人の虐殺と聞いたら憤りを感じます。
この写真の使われ方はさまざまです。
・朝鮮の独立運動の兵士を虐殺
・南京大虐殺の虐殺
・満州・遼寧での虐殺
・平頂山事件での虐殺
いろんな使われ方をしてます。
※「戦争論」小林よしのり より

実はこの写真はトリミングされていました。

Kubi

上端に「鉄嶺にて銃殺せる馬賊の首
とあります。
日本が関わっていたかも極めて怪しいですが、少なくとも虐殺じゃないようです。

さて最後

Photo_9

これもかなり有名な写真です。
南京だったり重慶だったりしてるようですが虐殺写真として宣伝されているようです。
しかしこの写真の初出には
空襲直後の警報によりパニックを起こした人々が圧死
とあります。

いいとか悪いとかではございません。
戦争は全てのことを利用する、何でもありの行為です。
こんな写真で騙すのもありです。
ただ日本が対抗できなかっただけです。
日本人が下手。。。。と言うのは酷ですね。
あまりにも、くそ真面目過ぎただけのことだと思ってます。

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2006年9月11日 (月)

南京大虐殺(2)

みなさんのクリックのおかげで開設一週間のブログにかかわらず、ブログランキングの歴史カテゴリで10位まで順位を上げる事ができました。ありがとうございます!

ランキングを見て、知らされなかった日本を知る人が一人でも増えると欣喜雀躍の限りです。

さて前回では南京事件にプロパガンタ写真と見られるものが多いと言うことをお話しました。

他の写真についても述べさせていただきます。

Photo_6 

この写真も有名ですね。

日本兵が斬首を楽しんでいるかのように写っています。

しかし一番右側の人物に注目してください。

足の爪先が真後ろを向いてます。

Photo_7 

この写真は「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として略奪された」

と略奪の証拠として紹介されている写真です。

しかしこの写真の撮影者は日本人で、初出は「朝日版支那事変画報」

写真の説明としては

「支那民家で買ひ込んだ鶏を首にぶらさげて前進する兵士(十月二十九日京漢線豊楽鎮にて小川特派員撮影」

となっています。

準拠:南京事件証拠写真を検証する(東中野修三 他) 草思社

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2006年9月10日 (日)

南京大虐殺(1)

南京大虐殺についてはこれまでにもさんざん疑問点が指摘され、現在も否定派、肯定派の間で激しい議論がなされています。
私もこれまで、拙いながらも情報を集めて考えてみたものの、資料が膨大すぎて単純に「あった」「なかった」ではとても片づきません。

ですからここから先は、私が単純な感触で「おかしいな」と思った事象を述べてそれをみなさんに紹介する。という形に留めます。
南京で日本はひどいことをやった、およそ人間の所業とは考えられないほどの残虐な行為を行った、というような内容はこれまでに耳にタコができるほど聞かされて来ました。
それをここで更に繰り返すことは本意ではありません。
反対側からの「こういう考え方もあるよ」という紹介をすることがこのブログの目的です。
批判反論が山ほどあるでしょうが、考えるための情報量の公正を期すために一役買いたいと思います。 

Honchild
さて上の写真は、南京大虐殺を現す写真として、一番有名ではないかと私が思っている一枚です。
南京大虐殺-歴史の真実を語る足跡と証言」の中では
「南京攻略に先立って行われた市街地に対する無差別爆撃」の証拠写真として採用されています。

瓦礫の中で一人泣く、誰にも助けを求めることができない怪我を負った幼児・・・・・

私でなくとも、「戦争は何とむごいことか」と思わせざるを得ない説得力を持った写真です。
しかし同時に撮影された他の写真があることは、知らない方もいるのではないでしょうか?
以下の写真がそれです。
Bmclwon_1  Chi3d_1
何か不自然だな?と思いませんか?
何か用意されたような雰囲気を感じませんか?

以下は「戦時宣伝論(小山栄三)」からの引用です。

各国の通信員はいづれも意識すると、しないとに関わらずその国の利益代表者であるか、またはセンセーショナルなニュースを探し回っている人々であって、甚だしきは支那人以上の捏造ニュースを彼等自身が作るのである。
一列を挙げればインターナショナル・フォトとして全世界のセンセーションをまき起こした、日本軍の爆撃で廃墟になった南京停車場に唯一親から離れて迷子となった二つ位の子供の泣いている悲惨な写真がある。
然しこれは幸にもシカゴ・トリビューン・プレス・サービスのポウェル君がその写真は子供を後から連れてきてポーズさせてとった偽造写真であることを更に写真で証明していたので偽造写真であることを一般人に納得させることが出来たが、これは蒋介石お気入りのハースト系ニュースカメラマンとして、満州事変当時からの其の辣腕を知られている『ニュースリール王』(注:王小亭)の作品であり、バネー号事件の報道と並んで、米国民の対日感情を急激に悪化せしめたと云う曰く付きの宣伝写真である。
支那側は事々に自己の敗戦による悲惨を誇大化して泣訴し、第三国の対日感情を誘発せんとしているのだ。
この種の『拵えられた』宣伝写真が欧州大戦当時既にどれ程重要な役割を演じたかは今猶種々の記録を通じてあまねく知られている事実である。

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2006年9月 9日 (土)

なぜ過去を知りたいか

「アメリカ市民から見たコロンブスと、インディアンから見たコロンブスの見方とは、決して同じになることはありえない。
だから、異なる社会で同じ歴史認識を持つのは不可能なことです。」

これは、日韓翻訳チャットの先輩から聞いた言葉です。

なるほどなあ、と思いました。

アメリカ人から見たコロンブスは、冒険者、発見者でしょうし、インディアンから見たコロンブスは略奪者、破壊者でしょう。

同じように考えると日本から見た日韓併合は自存自営、内鮮一体であり、韓国から見た日韓併合は主権侵害、傲慢無礼に写ることでしょう。

そう言った解釈の違いがあるのは仕方ない事だと考えます。

しかし解釈は多様ではあっても、事実は一つです。

しかし、例えば60年前の出来事の事実の一つを取って「これが事実」だと強弁しても、それが歴史全体を現している事にはなりません。

多数の事象から導かれる必然的な結果を導くのが歴史学者の仕事とは思いますが、自分たちも無関心ではいけないと思います。

私たちは、インターネットのない時代は新聞やテレビに頼った生活をしていました。

私は、インターネットの普及に伴い、新聞、テレビが報道したがらない部分がとても多い事を諸先輩や多数のWEBページから教わりました。

「日本は悪いことをしたのだ。反省しなければいけない」

という考えに基づいた史観や報道は今までたくさん見てきましたし、今もたくさん見られます。

それをさらに輪をかけることはここでの本意ではありません。

今まで知らされていなかった事を一つ一つ、できるだけ多くをお知らせしたいと考えています。

そうすることで初めて、今までウォー・ギルト・インフォメーションにより自虐に染まった史観をバランスよく考えられるようになると考えます。

それを戦争美化であるとか正当化であるとか言う人もきっと多いと思います。

しかし、例えばインドネシアにはノン・チックさんのような、日本人に限りない愛情を持って接してくだすった方もいるという事は事実です。

例えば、日韓併合の35年間で朝鮮半島の人口が倍になったという事も事実です。(資料を捏造だと言う人もいますが)

原爆投下や東京大空襲は、ナチスドイツのユダヤ人虐殺にも劣らない大規模な虐殺であったことも事実です。

今まであまりにも知らされなかった過去の日本を、日本人なら知らねばならないと思うのです。

知った上での判断は、知った人の自由です。

私の紹介している情報は、半分は書籍ですが半分は誰でも気軽に見れるweb上の情報です。

読んでくれているみなさんも簡単に集められる情報がかなり多いのです。

しかしweb上に点在している情報を拾い集めるのは、やってみて初めてわかったのですが、かなり執念深く探さないと十分な情報量が得られません。

「知らされなかった日本を知りたい。しかし労力をそこまでかけるのは・・・」

というような方にこのブログを役立ててもらえればこんなに嬉しいことはありません。

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2006年9月 8日 (金)

オランダ領東インド(3)

Malaya003

今日は、オランダ領東インドの人だった、ラジャー・ダト・ノン・チックさんについてお話をさせていただきます。
ノン・チックさんは当時の東インドのマラヤに生まれました。
現在のマレーシアに当たります。
1941年の日本軍侵攻の時は16才の少年でした。
今まで自分たちをいじめていた欧米人が、日本人によってマラヤから追い出される光景を、快哉をもって手記に書き残しています。
日本軍がマレー半島に駐留後は、南方特別留学生となり日本の宮崎と福岡とで学問をしました。
1944年にマラヤに帰り、戦後独立したマレーシアで上院議員にまでなっておられます。

そのノン・チックさん、戦後に日本から来た学者の応対をしました。学者は言います。
「日本軍はマレーの人をたくさん殺したに違いない。それを調べに来た。」と。
ノン・チックさんは驚いて言います。
「日本軍はマレーシア人を一人も殺していません!日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。」

結構あちこちで紹介されているものですが、読んでいない方もきっといます。
日本のよき理解者であるノン・チックさんの詩を紹介させてください。

かつて日本人は清らかで美しかった 

かつて日本人は親切でこころ豊かだった

アジアの国の誰にでも自分のことのように一生懸命つくしてくれた

何千万人もの人のなかには少しは 変な人もいたしおこりんぼやわがままな人もいた

自分の考えを おしつけていばってばかりいる人だっていなかったわけじゃない

でもその頃の日本人はそんな少しのいやなことや不愉快さを越えておおらかでまじめで希望に満ちて明るかった

戦後の日本人は自分たち 日本人のことを悪者だと思い込まされた

学校も ジャーナリズムもそうだとしか教えなかったから

まじめに自分たちの父祖や先輩は悪いことばかりした残酷無情なひどい人たちだったと 思っているようだ

だから アジアの国に行ったらひたすら ペコペコあやまって私たちはそんなことはいたしませんと言えばよいと思っている

そのくせ 経済力がついてきて技術が向上してくると自分の国や自分までがえらいと思うようになってきてうわべや口先では済まなかった悪かったと言いながらひとりよがりの自分本位のえらそうな態度をする

そんな今の日本人が心配だ 

本当にどうなっちまったんだろう日本人は そんなはずじゃなかったのに

本当の日本人を知っているわたしたちは今は いつも 歯がゆくてくやしい思いがする

自分のことや自分の会社の利益ばかり考えてこせこせと身勝手な行動ばかりしている

ヒョロヒョロの日本人はこれが本当の日本人なのだろうか

自分たちだけで集まっては自分たちだけの楽しみやぜいたくにふけりながら自分がお世話になって住んでいる自分の会社が仕事をしているその国と国民のことをさげすんだ眼で見たりバカにしたりする
 
こんなひとたちと本当に仲良くしてゆけるだろうか

どうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ

かなり何回も読んでますが、やはり涙が出てきます。
ノン・チックさんに恥ずかしくない日本にしていきたいですね・・・・

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2006年9月 7日 (木)

オランダ領東インド(2)

Imamura_hitoshi_1
強制栽培制度によって収奪の限りを尽くされた東インドの民衆は、かなわぬながらもオランダに対して立ち上がります。
1873年から始まるアチェ戦争です。
イスラム国であるスマトラ島のアチェ王国は30年に及んでオランダに抵抗しました。
しかしオランダは同じ東インドのジャワの民衆をもオランダ軍に組み入れてこれを鎮圧しました。

「何度戦争しても我々はオランダ人にはかなわない・・・・」
あきらめて心身共に奴隷になって行く東インドの民衆の心が浮かぶようです。

かつてジャワ島中部に君臨したクディリ王国のジョヨボヨ国王はこんな予言を残していました。

「わが王国はどこからか現れる白い人に乗っ取られるであろう、彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。白い人の支配は長く続くが、やがて北方の白い衣をつけた黄色い人が白い人を追い出し、ジャゴン(とうもろこし)の寿命の間、この地を支配した後に“ラトゥ・アディル=正義の神”の支配する祝福される治世がくる。」

東インドの民衆は、こんな当てにもならない予言を信じていたでしょうか?
信じていた人もいたのではないでしょうか?

自分たちでどう抵抗してもオランダ人の近代兵器にはかなわない。

「どこか別の国がオランダ人をおっぱらってくれないだろうか?」

そんな風に考える東インドの民は少なからずいたはずです。
そのような人たちが唯一希望を持てるのがこの予言であったのではないでしょうか?

時は移って1940年代です。
オランダは極東の新しい脅威である大日本帝国の「大東亜共栄圏」構想に自国植民地の危機を察知し、先手を打って宣戦布告してきました。
それに対して日本は今村均中将の指揮する二個師団を以てジャワ島北部に上陸作戦を敢行しました。
あっという間にオランダ人を駆逐する日本軍を見たジャワの民衆の熱狂はすごいものだったようです。
「ジョヨボヨの予言の通りだ!」
そして占領後の日本軍は、東インドの民に対して我が国民のように接しました。
今村司令官が、オランダ駆逐後に最初に出した「布告第一号」の内容です。

「日本人とインドネシア人は同祖同族である

日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする

同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する 」

オランダ領東インドの民、いえ、インドネシアの民は驚喜しました。
その後の日本の政策はインドネシアの民の希望に沿ったものでした。

・スカルノら政治犯の釈放
・農業改良指導
・小学校の建設と、児童教育の奨励
・新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊
・英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
・5人以上の集会の自由
・多方面でのインドネシア人登用
・インドネシア民族運動の容認
・インドネシア人の政治参与を容認
・軍政府の下に「中央参議院」を設置
・各州・特別市に「参議会」を設置
・ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
・「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設

日本の「五族共和」「八紘一宇」の精神とはこういうものだったのです。

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2006年9月 6日 (水)

オランダ領東インド(1)

Photo

東南アジアのみならず世界の植民地支配は大航海時代から始まりました。
オランダ、ポルトガルを先頭に、ある者は香辛料、あるものは布教。
色んな目的を持った冒険者が実利を求めて東南アジアを目指しました。

オランダ領東インドとは、現在のマレーシア・インドネシアに当たります。
この地域にコルネリス・ド・ハウトマンが1596年、オランダ人として初めて足を踏み入れました。
ここから350年に渡る欧米の植民地支配が始まります。
当時東インドで栄えていたのはバンテン王国というイスラム教国でしたが、このバンテン王国にオランダの東インド会社は接触しました。
東インド会社は、ポルトガルやイギリスと競争しながら段々とこの地域への支配を固めていきました。

1619年、クーン総督によってジャカルタにオランダ総督府が置かれ、東インド会社はここを本拠地としました。
これを契機に、商館と現地王朝との交易から、直接の植民地支配へと時代は変わっていきます。
第一次~第三次ジャワ戦争と、ジャワの民は東インド会社に対して抵抗を試みますがいずれも鎮圧され、その度支配は強化されていきました。

1799年、東インド会社解散により、オランダ本国政府が直接植民地支配に乗り出します。

1825年、段々と収奪を進めていく東インド会社に対してジャワ島マタラム王国のディポヌゴロ王子は反乱を起こします。
五年に渡ったこの反乱を鎮圧した東インド会社はジャワ島に対しての植民地支配を進めます。

ナポレオン戦争による混乱の時代を経て、再びオランダは東インドに戻って来ます。
1830年、オランダ総督府は、東インドに「強制栽培法」を施行します。
早い話が「コーヒーを作るとオランダ本国が儲かる。だからこれを作れ。しかし賃金はお前達の生きていける最低限度しか与えない。そして栽培ノルマが達成できなかったら処罰をするのでそのつもりで」
という法律です。

現地での自然な形での栽培を禁止して、お金になるものばかりを作らせたものですから、気候が少し不順になっただけで深刻な飢饉が起きるようになりました。
以下オランダの小説「マックス・ハーフェラール」からの引用です。

「飢饉・・・? 豊かにしてかつ肥沃なジャワで飢饉?そう、読者諸君、わずかな歳月のうちに全ての地方が飢饉に襲われ、・・・母は子供を売ってでも食べ物をと思い、・・・そう、母が子を食べてしまった・・・」

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2006年9月 4日 (月)

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(4)

Photo_5 

引き続いてこちらの年表から順を追って述べます。
http://members.at.infoseek.co.jp/WGIP/file/waya04.html

さて9.10に公布された、「新聞報道取締方針」はポツダム宣言違反であると日本の新聞界は承知していました。ですから「言論の自由がある」という前提で占領軍の事を報道していました。

占領軍の最初の鉄槌が「同盟通信社」に振り下ろされます。

9.14
同盟通信社が24時間の業務停止処分を受けます。
何のかどで停止処分だったのか調べたのですが
「同盟通信社は昨日(十四日)一七時二九分公安を害するかの如きニュースを領布したかどによつてニュースの領布を停止せしめられ、一般に不安同様を與へた。」
という内容以上の事はわかりませんでした。

9.15
マッカーサー連合国軍総司令官が報道関係者に声明を出します。以下要約

「諸君が国民に提供して來た着色されたニュースの調子は合も最高司令官が日本政府と交渉してゐるやうな印象を與へている。
交渉と言うものは存在しない。
最高司令官は日本政府に対して命令する。
しかし交渉するのではない。
交渉は対等のものの間だに行はれるのである
。」

同日、民間検閲支隊(CCD)隊長フーバー大佐も、マッカーサー声明と同様の声明を出します。

9.18
朝日新聞は「原爆投下は国際法違反、戦争犯罪である」とした鳩山一郎の発言を掲載したことをきっかけに二日間の発行停止処分を受けました。

ここでGHQに屈服した朝日新聞は、その後今日まで日本を擁護する記事を書くことはありません。

9.19
「日本新聞準則」が報道機関に通達されます。
9.10の「新聞報道取締方針」の完成型と言えます。
本格的に新聞、ラジオの屈服が始まります。

ここに至って日本の言論人は、占領軍がポツダム宣言を守る気は全くないことをようやく知ることになります。以下読売オンラインからの引用

「 『大東亜戦争』『八紘一宇』といった軍国的な表現や、占領軍、占領政策への批判は許されなかった。原爆投下への批判も禁じられた。米兵による日本人への暴行事件、暴動や伝染病の記事も『社会不安を助長する』として削除や掲載禁止になることが多かった。」

山本文也元読売新聞記者の発言。
「新聞社側は、日々の紙面制作の中で自主規制するようになった。山本さんは『だんだん慣れてきて、別の記事をあらかじめ用意しておいて、紙面に穴(空白)が開くのを防いだ』と話す。読売新聞は48年1月、傾向と対策をまとめた「検閲旬報」を作り、取材部門に配った。朝日新聞は『連合軍司令部の新聞検閲について』、毎日新聞も『検閲の指針』をそれぞれ作成し、分析している。」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/feature/sengo/ci_se_05110401.htm

米軍兵士による婦女暴行も報道されませんでした。「依存症の独り言」さんより引用

「我が国が無条件降伏をした後に進駐してきた米兵の蛮行ぶりも凄まじい。
米軍が最初に進駐した神奈川県では、一ヶ月に何と2千件もの『大きい男』による婦女暴行事件が起きた。『大きい男』とは米兵のことである。連合国軍総司令部(GHQ)が、新聞検閲で米兵をそう表記するように命令したのだ。」
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/03/post_05de.html

この措置は、日本の新聞、ラジオから連合軍への批判色が全く消えてしまうまで継続しました。

米軍は、占領下の政策として、まず日本の耳と口を封じたのです。

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2006年9月 3日 (日)

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(3)

ポツダム宣言という名称はみなさん聞いたことがあると思います。
しかし内容について読んだり考えたりする事は今までなかったのではないでしょうか?
私もその一人です。
トルーマン米大統領、スターリンソ連書記長、蒋介石中国国民党主席、チャーチル英首相(会談中に首相交代)が集まって、ドイツのポツダムにおいて二次大戦後の処理について会談を持ちました。
これをポツダム会談(1945.7.17~8.2)と言います。
このうち、日本に対しての文書のみをポツダム宣言と呼びます。日付は7.26です。

宣言に参加しているのは米、英、中の三カ国です。ソ連は日本に対してこの時点で中立であったため最初は不参加でした。
そして、その時丁度、英中の首脳がポツダムに不在であったために、トルーマンが不在の二人分の代理署名をして、実質はトルーマン一人で出した宣言であるとも言われています。

色々調べていくうちに、日本人の精神基盤の破壊はこの、ポツダム宣言をめぐるものから始まっていると認識するに至りました。

下のURLでポツダム宣言の全文が読めます。
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1945Potsdam.html

さてここで問題にするのは第十項の文章です。
「われらは、日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようとする意図を有するものではないが、われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならない。 」

違っています!
「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならない。 」
なんて全然守られませんでした!

以下にGHQが行った言論統制の中身を列挙します。
ここに大変わかりやすくまとめておられるのですが、無機質で実感しづらいような気がしますので下に自分なりの解説でまとめ直しております。
http://members.at.infoseek.co.jp/WGIP/file/waya04.html

1944.11.12
J. C. S. 873/3(太平洋・アジア地域 における民間検閲についての統合参謀本部命令書)
日本国民を外界から謝絶し、米軍の意のままに扱えるように国民の意識を変えることを目的とした命令書です。
ポツダム宣言以前のことですので、何かに違反していると言う訳ではありません。
しかし日本人の人権なんかに配慮してはいません。

1945.7.26
ポツダム宣言

8.10
日本、国体護持を条件に宣言を受託。
よく「無条件降伏」と呼ばれますがそれは大日本帝国軍が無条件で武装解除をするという事です。
大日本帝国政府は上記の「国体護持」を条件とした「有条件降伏」となっています。

ポツダム宣言の13項にはこうあります。

「われらは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつこの行動における同政府の誠意について適当かつ充分な保障を提供することを同政府に対し要求する。」

ここで目的語とされているのは「全日本国軍隊の無条件降伏」です。
政府や議会じゃないんです。
だから、敢えて宣言に入れられなかった天皇制の護持を条件にして日本は降伏を受け入れたのです。
繰り返しますが、日本国政府は「無条件降伏」などしていないのです。条件を出しているのです。

9.6
J. C. S. 1380/6(日本との関係が無条件降伏を基礎とするものであると規定する命令書)が出されます。
何かおかしいですね?無条件降伏じゃないのに。

9.10
最高司令官指令(SCAPIN-16) 「新聞報道取締方針」公布
ポツダム宣言から米国が逸脱している証拠の最初のものです。

まず自分の口語訳、下に公布時の全文を載せます。

言論及び新聞の自由に関する覚え書き
1.日本政府は事実に即しないか公安を害する新聞ラジオ他の報道を規制する命令を発布せよ
2.GHQ司令官は言論の自由に関する制限は最小限度にとどめると布告した。
だから日本が平和国家に逆行する怖れがない限りこれを助長する。
3.連合軍の行動及び批判は論議してはならない。
4.ラジオ放送は娯楽のみ放送せよ。ニュース等の報道は東京放送局から出たものしか放送してはならない。
5.GHQ司令官は、事実に即しないか公安を害する刊行物や放送局を停止させなさい。

言論及新聞ノ自由ニ関スル覚書
                            SCAPIN-16(1945年9月10日)

(1) 日本帝国政府ハ事実ニ即セズ、若ハ公安ヲ害スル新聞、ラジオ又ハ他ノ発表手段ニ因ル諸報道ノ伝播ヲ防止スル為必要ナル命令ヲ発布スベシ
(2) 連合軍最高司令官ハ言論ノ自由ニ関スル制限ハ絶対的最小限度に止ムル旨布告セリ、日本ノ将来ニ関係アル諸事項ニ関スル論議ノ自由ハ斯ノ如キ論議ガ世界ノ平和愛好国家タル地位ニ値スル新国家トシテ敗戦ヨリ浮ビ上ラナントスル日本ノ努力ニ有害ナラザル限リ連合国ニヨリ助長セラル
(3) 論議スベカラザル諸事項ハ公表セラレザル連合軍ノ諸行動及連合国ニ関スル虚偽若ハ破壊的ナル諸批判並ニ諸流言ヲ含ム
(4) 当分ノ間ラジオ放送ハ先ヅニュース並ニ娯楽的音楽ノモノヲ第一トスベシ、報道、解説並ニ告知放送ハ東京放送局ヨリ出タルモノニ制限セラルベシ
(5) 最高司令官ハ事実ニ即セズ若ハ公安ヲ害スル情報ヲ公表セル如何ナル刊行物又ハ放送局ヲモ停止セシムベシ

これのどこが「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならない。 」ですか?
これのどこが有条件なのですか?

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2006年9月 2日 (土)

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(2)

Ikaritonamida

戦争犯罪とは何でしょうか?
日本では東条英機さんに戦争犯罪が集約されてるような雰囲気がありますが、戦争犯罪の定義とは何でしょうか?

人それぞれ主観が入る問題なので、客観性の高い基準として、ハーグ陸戦条約を採用したいと思います。

wikipediaより引用
「1899年にオランダで開かれた第1回ハーグ平和会議において採択された『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約』並びに同附属書『陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則』のこと。1907年第2回ハーグ平和会議で改定され今日に至る。ハーグ陸戦協定、陸戦条規とも言われる。」

日本も1911年に批准していますので、戦争犯罪に該当するか否かは、これが一つの基準になります。

全文はこちらから
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/haug.htm

これに明確に違反した国。言い訳の仕用のない違反をした国があります。
ドイツとアメリカですね。
ドイツの何が問題だったか?
ユダヤ人虐殺です。
混同して理解している方もいらっしゃるでしょうから一言申しておきますが、ドイツの首相が謝罪しているのは、戦争自体ではなく、戦争に伴って行ったユダヤ人虐殺に対しての事です。

区別せねばなりませんが
「戦争自体は国際法違反ではなかった」
のです。現在戦争自体を違法としろという議論もありますが当時、宣戦布告を伴う戦争は違法ではありません。

さてその前提に立って申しますと、ドイツ同様、アメリカも重大な違反をしています。

ハーグ陸戦条約付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」第25条に
「防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス。」

東京大空襲ら一連の都市爆撃、広島、長崎は明確にこれに違反します。

日本は何か条約違反してますか?
この条約、文章が昔っぽくて読むの大変なんですが日本はこれに違反なんか一つもしてないんですよ!
南京大虐殺などがそれに当たると思う人もいるでしょう。
これについても後日述べますが、虐殺が行われた確実な証拠なんか何一つありませんよ。
日本は礼儀正しく戦争したのですよ!(役人の怠慢による真珠湾の不手際を除く)

アメリカは、自国の戦争犯罪を確信しながら行いました。
そして、それを正当化するために
「日本が悪かったから仕方ない」
という教育を押しつけました。
自国の戦争犯罪を正当化するために
「日本も大虐殺をしたんだ」
と、ものすごい手の込んだ情報プロパガンタを行いました。中共も荷担しています。

反米に走ろうと言うのではありません。
しかし、隠された情報は知った上でアメリカという国を見なくては片手落ちというものです。

東京大空襲の立案スタッフだったロバート・マクナマラは
「勝ったから許されるのか?私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」
と発言しています。

原爆投下を決断したトルーマンの公式発言とは別の内心はどうだったのでしょうか?

以下毎日新聞より引用
「難しい決断だったかと聞かれ「とんでもない、こんな調子で決めた」と指をパチンと鳴らした▲だがロナルド・タカキ著「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」(草思社)によると、妻や妹への手紙、内輪の会話、日記では、女性や子供の被害へのおののきや後悔を示している。科学者らが自責の念を示すと、ひどく感情的に反発した」
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060806k0000m070125000c.html

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムはナチスと並ぶ戦争犯罪を行ったアメリカが
「日本を悪逆な戦争犯罪国家に仕立てないと後世にアメリカの悪行が伝わってしまう!」
という恐怖が背後にあって行った政策なのです。

日本人よ!過去を直視せよ!

パール判事の
「あなた方は自分らの子弟に、 「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」 と教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。」
という言葉をかみしめよ!

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ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(1)

この言葉を聞いたことがある人もいると思います。
聞いたことないという人もいると思います。
私の考えは置いておきます。
ただ、米軍が実際に考えていた事がわかる文書をのみ挙げておきます。


・GHQの内部文書「一般命令第四号」の中にある文言
「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、 現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の 理由と目的を、周知徹底せしめること」


・昭和23年2月6日 CI&E(民間情報教育局)からG-2(CIS・Civil Intelligence Section・参謀第二部民間諜報局)に宛てて発せられた「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」たる文書
「1、CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである。文書の末尾には勧告が添付されているが、この勧告は、同局が、『ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム』の続行に当り、かつまたこの『プログラム』を、広島・長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の対抗措置を含むものにまで拡大するに当って、採用されるべき基本的な理念、および一般的または特殊な種々の方法について述べている」

この二つの文書の考えに基づく教育が昭和二十年から現在まで行われています。

江藤淳「閉ざされた言語空間」より
「占領終了後、すでに一世代以上が経過しているというのに、いまだにCI&Eの宣伝文書の言葉を、いつまでもおうむ返しに繰り返しつづけているのは、考えようによっては天下の奇観というほかないが、これは一つには戦後日本の歴史記述の大部分が、『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを、依然として墨守しつづけているためであり、さらにはそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生れの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである。

つまり、正確にいえば、彼らは、正当な史料批判にもとづく歴史記述によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに『ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム』の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない。教育と言論を適確に掌握して置けば、占領権力は、占領の終了後もときには幾世代にもわたって、効果的な影響力を非占領国に及ぼし得る。そのことを、CCDの検閲とCI&Eによる『ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム』は、表裏一体となって例証しているのである。」

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朝鮮半島の歴史(4)

03 「1910年に日本が大韓帝国を併合した可否は様々だが国際法違反とは言えない」
という所まで行きました。

さて併合後です。
よく韓国人から聞く意見は
「日帝は韓半島の資源や土地を収奪した!悪逆非道だ!」
というものがあります。
実際はどうだったのでしょうか?

朝鮮総督府が算出した朝鮮半島でのお金の収支を示す表があります。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1678618

歳入が歳出を上回った期間はありません。
この資料を捏造だと言う人もきっといます。
しかし併合前の朝鮮にダムがありましたか?
鉄道がありましたか?
デパートが、水道が、学校が、病院がありましたか?

収奪しようとする植民地に35年間に渡ってこんな投資を続けた国などありますか?
まずもって絶対存在してません。

資源について言いますと、当時の朝鮮は鉄、砂金が少々取れたようですが、とても収奪の対象になるレベルではありません。
翻って言うと、もし北朝鮮がイラクのように豊富な資源があったなら、七月の国連決議の姿は変わって、今頃アメリカは戦争準備を進めていることでしょう。

シャルル・ダレの「朝鮮事情」の中にこのような文章があります。
「両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事)は一人もいない」
両班というのが当時の大韓帝国の貴族階級の呼び名ですが、おおむね私腹を肥やすのに熱心だったようです。

どこで読んだか不確かですが、農作業をさぼってばかりの朝鮮の農民に
「なぜそんなに働かないのか?」と日本人が問いました。
すると「収穫を上げてもどうせ両班に持っていかれるだけだ」
との答えが返ってきたと言います。

自分達のやってきた非道な事を日本人の仕業にして後世の人に教育する手段は、韓国と中国とはよく似ています。
詳しいことはまた後日に書くつもりですが、自分達の国で行った拷問の写真を捏造して
「日本の仕業だ!」としている例は枚挙に暇がありません。
今日本に流布している「日本は強欲だった!」という評判は、日本によって特権を奪われた両班階級が腹いせのために流したデマゴギーが原型になっていると思っています。

今日の最後はキム・ワンソプさんの言葉で締めます。

「死亡当時、すべての朝鮮人にとって呪いの対象だった閔妃が、今になって自主独立の殉教者として華麗に復活した現象は、韓国人が直面しているアイデンティティーの混乱を端的に示すものだ。
 韓国人が朝鮮王朝を慕い、日本の統治を受けず朝鮮王朝が継続したなら、もっと今日の暮らしが良くなっていると考えるのは、当時の朝鮮の実態についてきちんと分かっていないためだ。
 特に子供と青少年は、きれいな道ときれいな家、整った身なり、上品な言葉遣いのテレビの歴史ドラマを観ながら、朝鮮もそれなりに立派な社会で、外勢の侵略がなかったならば、静かで平和な国家を保てたろうと錯覚する。
 しかし日本が来る前の朝鮮はあまりに未開で悲惨だったという事実を知らねばならない。」

http://www.amazon.co.jp/gp/product/479421152X/249-5622535-9236368?v=glance&n=465392

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朝鮮半島の歴史(3)

Photo_2 Photo_3 さて朝鮮の自力の近代化が不可能と見てとった日本政府は保護国を経て朝鮮を併合します。
併合自体の賛否について色々調べましたが、賛成派反対派それぞれに根拠があるようです。
細かい内容まで入り込んで個々について述べる事はできるでしょうが、それではおそらくこの問題だけで一年かかりましょう。

興味のある方はwikipediaに賛成派と反対派の主張がまとめられていますのでご参照を
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88

以下に私の意見を申し述べます。
当時のアジアは日本とタイを除いて全ての国が欧米の植民地となっておりました。
植民地となるか強い国になるかを国民は選ばねばなりませんでした。
と言いますか、強くなれなかったらイコール植民地でした。
当時の東南アジア諸国が受けた宗主国からの過酷な植民地支配は後日述べます。
日本は強くなる事を望みました。
強くなるために、我が国と、直接の脅威であるロシアとの間に位置する朝鮮を併合しました。
そのことは、現在の価値観で善悪に分類できるものではありません。
強いて言うなら、民族が生き延びるということが正義であったと思っています。

もちろん、富国強兵のために犯罪行為をやってはいけないのですが、今さら『従軍慰安婦は日本軍がトラックで拉致したんだ!』みたいな意見を言う人はそうはいないと思います。

併合自体が違法だったという主張も数多いのですが、議論が分かれている状態で、明らかに違法であるとはとても言えません。
と言うか、国際法の専門家が見ても違法とは言えないようです。
http://homepage1.nifty.com/okotanpe/05i-x12.htm

感情に満ちあふれた意見は賛成派にも反対派にもたくさんありました。
一国の主権がなくなるような問題を冷静に、第三者の視点で見る事自体が不可能なのだろうと思います。

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朝鮮半島の歴史(2)

さて日韓併合までの朝鮮半島の歴史を簡単に述べました。
さて日韓併合です。本題です。
人類史上最悪の植民地支配と言われているPhoto_1 らしい日韓併合です。

最初の写真はソウルにある、李氏朝鮮時代に建立された南大門という建物です。
非常に古い木造建築物として有名なのですが、左の写真は1897年撮影。
右は、正確にはわからなかったのですが1930年代でしょう。
日本併合化のソウルはこのように町並みが変わっていったのです。
興味のある方は併合前後の写真がたくさんありますのでどうぞ↓
http://photo.jijisama.org/index.html

日本は朝鮮の人々を搾取するために併合を行ったと思っている人、いませんか?
とってもとっても違います。
日本人は朝鮮の人達と一緒にロシアに立ち向かおうとしたのです。

言いにくい事ですが朝鮮は併合の時までは日本の奈良時代レベルの未開社会でした。
儒教社会の持つ停滞しやすい性格が原因なのか、清の搾取が原因なのか、朝鮮民族のケンチャナヨ精神が原因なのか、そのどれもが当てはまるのか、現時点で私も単純に断定はできません。
(ケンチャナヨっていうのはハングル語で『気にしない』って語感ですね)
とにかく当時の大韓帝国は世界有数の最貧国だったのです。
そして、放っておくと早晩ロシアが占領してしまう国だったのです。

昨日の日記にロシアの南下指向について書きました。
当時の日本人がロシアに対して持っていた恐怖感は現代の私たちにはとても想像できません。
無遠慮で国際ルールを守らない軍事国家、それも世界最大の陸軍国が朝鮮半島という軍事空白地帯のすぐ後ろにいるのです。
今私たちが北朝鮮に抱いている感覚よりはるかに恐怖だったことでしょう。

日本は朝鮮の自力での近代化を随分支援したと思います。
福沢諭吉、渋沢栄一らは朝鮮の近代革命を目指す金玉均を、私財をなげうって支援しました。
甲斐あってクーデターが一時成功しますが結局、ロシアに事大しようとする閔妃に敗れ、日本に亡命しますがやはり閔妃に暗殺されてしまいます。
この閔妃という女性は当時の朝鮮国王の妃なんですが、かなり頭の回る女性だったようです。
しかしロシアを頼って国を守ってもらおうなんて、あなた泥棒に自分の家守れと(略

とにかく、金玉均のクーデター失敗後、朝鮮の自力での近代化は無理と日本側は判断しました。
幕末の英雄である勝海舟は、「今に朝鮮に西郷隆盛のような者が現れる」と期待しながら「そろそろ現れそうなものだが・・・」と言いつつ死んでいきました。
金玉均を支援した福沢諭吉は、朝鮮という存在全てに望みを失い「脱亜論」を書き記しました。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/datuaron.html
日本が、「朝鮮は自分達が面倒を見ねばどうにもならない」と思わざるを得なかった事が両国の不幸の始まりです。

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朝鮮半島の歴史(1)

ロシアの次に朝鮮半島を見てみましょう。
日本が植民地支配を行ったとさんざん非難されている事を吟味するには朝鮮半島の事情を理解しないと片手落ちです。

・衛氏朝鮮(BC195~BC108)最初の国家
 衛満によって建国、漢の武帝により滅ぼされる。

・原三国時代(BC108~AD四世紀中頃)
 楽浪郡(漢の出先機関)
 馬韓(半島西南部。百済の原型と言われる。農耕民族)
 辰韓(半島東南部。秦から逃れた亡命人が中心と言われる。12の小国に分かれていた)
 弁韓(半島南部・鉄の産地として栄える)

・三国時代(AD四世紀中頃~676)
 ①高句麗
 楽浪郡を攻め滅ぼし一時は半島ほぼ全域を領有。
 しかし隋との戦争で国力を落とし、新羅唐連合に攻め滅ぼされる。
 ②百済
 倭(日本)・高句麗と連合して新羅唐連合軍に対抗。
 日本との友好関係から現在も取り沙汰されることが多い国である。
 660年に新羅に攻め滅ぼされる。
 ③新羅
 百済・高句麗を滅ぼし唐を半島から駆逐し統一国家を作る。

・新羅(676~935)
 強力な王朝制度を作るも官僚の腐敗などを契機に国力を浪費し、農民反乱を境に戦国 時代を招き(後三国時代)後高句麗を前身とする高麗に滅ぼされる。

・高麗(918~1392)
 宋~契丹~金~元~明への朝貢を行うことにより比較的安定した政権を作る。
 高麗磁器、三国史記などにより文化の充実した時代とされる。
 征東行省(元の出先機関)には高麗の国王が任命され、元と共に日本侵攻を計る。
 李成桂のクーデターにより滅ぼされる。

・李氏朝鮮(1392~1910)
 明~清への朝貢を行うことにより比較的安定した政権を作る。
 清の徹底した属国扱いにより朝鮮民族の感情に屈折した影響を与えその影響は現在でも見られる。
 1897年に宗主国が清から日本へと代わる事になり、これ以後13年は大韓帝国と呼ばれる。
 1910年に日本に併合される。

以上が簡単な朝鮮半島の歴史です。
知らなかった事が多く調べていても新鮮でした。
ここで特筆すべきは918年より続いている他国への朝貢だと思います。
現代の感覚では信じられない徹底した属国扱いが行われており、
「弱い」ということはここまで国民の精神を蹂躙してしまうのだなと自分などは思いました。
以下に清への従属ぶりを示す事項を簡単に列挙します。

・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、牛3000頭、
 馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない。

(参照:http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea2.html

このような他国からの支配を918年から受けていて、国民感情が鬱屈しないはずがありません。
自分は最近日韓翻訳チャットに出入りする事が多いのですが、韓国の人は90%以上が国の格の上下に異様にこだわります。
日本人には想像できない鬱屈した劣等感があることが体感できます。
現在の韓国の反日行動を見る上で、劣等感という要素を抜きにして語る事は不可能です。

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ロシアについて

日本という国は開国以来、いえ開国前からロシアの侵略の影に脅かされていました。
ロシアだけじゃありませんが地理的な事からロシアを一番意識せざるを得ません。
明治の日本は常にロシアの植民地となることを怖れていました。

今話すと実感ないのかもしれませんが、薄氷を踏むような辛勝であった日露戦争に、もし負けていたらどうなっていたか考えてみましょう。

壱岐対馬と北海道、長崎あたりはロシア領となっていたと思います。
日本の他の地域はハンガリーやポーランドのような衛星国になっていたかと思われます。 朝鮮総督府ならぬロシア総督府が東京当たりに存在したものと想像できます。

ロシアの、国としての本能かとも思える南下指向と日本は常にぶつかっていました。

しかしロシアの植民地とならないために日本は必死に富国強兵をしました。
日本国民のほとんどが、ロシアの事を理解して、生活に不満があっても耐えに耐えて政治を応援しました。

その結果、ロシアに勝てる大海軍を作り上げました。
「日本が負けたらどうなるんだろう」と当時の国民は涙しながら兵隊さん達を旅順へ、奉天へ、日本海へと送り出しました。

そして陸での辛勝、海での大勝でようやく戦争を講和に持っていくことができました。
奇跡的に勝てた事で日本は植民地になる危機からひとまず逃れ得ました。
しかし当時のロシアは、革命の危険さえなければまたいつでも攻めてくる怖い存在でした。
そんな相手と、例え講和がなったとしても、領土や賠償金などそんなに取れるものではありません。

小村外務大臣はよく講和をまとめてくれたと思います。
ロシアはすごく強気でしたから。
そして日本はもう継戦能力の限界でヘトヘトでしたから。

19世紀末の日本人が飲まず食わずで頑張った事が、日本が共産化せずに済んだ大きな要因なのです。

爪先立ちで日本を守った偉大な先祖に感謝の気持ちで一杯です。

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日本だけがなぜ悪い?

歴史は常に繋がっています。
日韓併合が間違いの歴史であったのか?
違います。
しかし、違うと言っても何が違うのかわかりませんよね。

「他国を侵略するのは悪いこと。」

そう私たちは学んできました。
それではそういう人に聞きたいのは

「日本以外の国は今までに侵略してないのか?」

感情論じゃなく、事実としてあったのかなかったのかを聞きたいです。

もうひとつ聞きたいことは

「これから侵略という言葉はなくなると思いますか?」

ということです。

中国はチベットに侵略していませんか?
イラクはクウェートに侵略していませんか?
フランスはベトナムに侵攻していませんか?
アルゼンチンはフォークランドに侵略していませんか?

このような事が現実的になくなると思いますか?
なくすためにはどうしたらよいと思いますか?

私は、侵略の歴史はこれからも人類が続く限りなくなることはないと思っています。
その前提の上でお話します。
そして、「仮に」日本が侵略戦争を行ったのであるという前提にも立ちます。

そこでこれを読んでくれる人に問います。
「日本だけは侵略戦争をしてはいけない国だったのですか?」

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日韓併合(4)

Photo さて次は創氏改名についてやりましょう。
よく言われている意見を韓国国定歴史教科書より引用しましょう。
-------------------------------------------
わが民族は日帝の内鮮一体、日鮮同祖論、皇国臣民化のような荒唐無稽なスローガンのもとで、わが国の言葉と歴史を学ぶことができなかった。また、皇国臣民の誓詞暗誦、宮城遥拝、神社参拝はもちろん、はなはだしくはわれわれの姓名までも日本式に変えるように強制した。日帝はこれを拒否する人に対しては投獄、殺傷までも躊躇せず、このような政策に従わない宗教系統の学校は閉鎖された。
-------------------------------------------

笑えると言うか、どこから突っ込んでいいかわからない教科書なんですが今日はそれは置いておきます。

創氏改名に絞って話していきます。
金正日さんと李英順さんが結婚したとします。
日本なら奥様の英順さんの名前が金英順になるところです。
しかし当時の大韓帝国では名前は変わらずずっと李英順さんでした。
日本の一部であった朝鮮地方で、そのような名前制度を続けていくのはとても戸籍管理がやりにくい事でした。
ですから、家の代表となる「氏」を定めよ。
というのが創氏改名令です。
正確には「1939年11月10日朝鮮総督府制令第19号」と言います。

さて氏というのは一家に一つというのが当時の朝鮮総督府の政策でしたが、姓はそのままでよいという仕組みでした。
つまり
「あそこは金正日さんと李英順さんの家庭だよ」
であったのが
「あそこは金さんの家だよ。奥さんの氏は金、姓名は李英順」
というのが制令の内容です。
しかもこれは強制ではなく、当時でさえ20%が届け出をせずによく、それについての罰則など何もありません。
届け出がない家庭については戸主の姓がそのまま氏になるというだけです。

添付の画像をご覧下さい。
以下に読み下し文を載せます。

-------------------------------------------
期限は刻々に迫る 八月十日限り 今熟慮断行の時
認識を誤って悔いを子孫に残さぬよう

△好機を逸さぬよう!
△即刻届け出しましょう!

1. 創氏届け出は八月十日までです。その後創氏届けはできません。名の変更には期限がありません。
2. 八月十日までに氏の届けをなさぬ者は従来の戸主の姓がそのまま氏となる結果、戸主の姓が金なれば、金が氏となり、妻尹貞姫は戸主の氏に従い金貞姫となり、子婦の朴南祚は金南祚となり、紛雑するおそれがあります。
 この結果は内地式を設定しなかったことをかえって後悔することになるだろうと思われます。
3. 氏と姓とを混同する向きがあるようですが、氏は家の称号であり、姓は男系の血統を表するもので、両者の性質は全然異なっております。
4. 氏を設定すると従来の姓がなくなるという誤解があるようですが、氏設定後においても姓および本貫はそのまま戸籍に存置されますから心配ありません。
5. 門中または宗中は同一の氏を設定しなければならぬと考えられている人もありますが、大いなる誤解であります。氏は家の称号であるがゆえに、各家異なる氏を設定するのが当然であります。
6. 氏選定について熟慮中のようですが、考えすぎるとかえって迷うおそれがありますから、速やかに簡明なものに決定するのがもっとも理想的であります。
7. 期限も迫りました。不審の点は早く府面邑または法院へお問い合わせください。

大邱地方法院

府面邑--->市町村
-------------------------------------------

今まで夫婦といえども別々の姓を名乗っていた慣習が変わることになるので、当時の朝鮮の人々にとまどいはあっただろうし、それが最善の政策であったかと言うのは私も疑問に思う事もあります。
しかし、併合された地を日本と同じように植民地のような差別をせずに行政を行うのであれば、考えつくした政策だと思っています。

よく読んでみてください。
優しい訓令だとは思いませんか?
当時の総督府の朝鮮の人達に対する愛情が伝わってくる文章とは思いませんか?

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日韓併合(3)

従軍慰安婦問題についても述べたいと思います。
この話の元ネタは吉田清治なる人物の
『私の戦争 犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 1983)
という本です。
この本の中で日本軍の兵士はトラックで次々と若い女性を拉致してまわる悪逆非道な兵士として描かれております。

1991年に朝日新聞がこの問題で一大キャンペーンを行い、韓国全土に日本への非難の嵐は吹き荒れ、当時の宮沢首相や河野官房長官は事実未確認のまま謝罪を行うという事態にまで追い込まれました。

そしてその後、強制連行の舞台となった済州島で韓国の新聞やソウル大学の教授らが調査を行っておりますがそのような証言は一つも得られませんでした。

それなのになぜ未だに慰安婦問題が日韓の間で問題になっているのかと言いますと、多数の元慰安婦の証言があるからですがこれがまたとんでもない。

他サイトからの引用です。

韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を出版した。

今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは、9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。
残る二人が、金学順さんと、冒頭の4~5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行されたとは述べていない。

結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、というのが実態である。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html
(引用終わり)

記憶があやふやなのか嘘言ってるのか勘違いしてるのかわかりませんが有名な元慰安婦である黄錦周さんの証言を引用します。
【1】従軍慰安婦と戦後補償 (著者:高木健一) ■「生活は貧しく、12歳の時100円で売られた。ソウルの金持ちの家で小間使い。1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、その家の娘の身代わりとなって満州に連行され慰安婦となった。」

【2】国連・経済社会理事会クマラスワミ報告(1996年1月4日)■「17歳のとき、日本人の村の指導メの妻が、未婚の朝鮮人少女全員に、日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。」 

【3】日本TV企業"TBS"「ここが変だよ日本人」というTV-Programより■「私は19歳で学校を卒業する25日前に、日本軍に引っ張り出され、仕方なく慰安所に行ったんだ!」 

【4】日韓社会科教育交流団韓国を訪問(1997夏期)■「満18歳になった時のある日、男がやって来て、村から娘を提供するように言いました。」

【5】元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会(1997年12月5日)■村の班長(日本人)に「一家に一人は行かなくては」と脅かされ、1941年、韓国を離れましたが、到着した場所は、慰安所でした

【6】黄錦周さんの証言を聞く会(2001.07.17/ 東京大学にて)■「14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスの道具にされた。つらい体験だった。」

貴方がもし裁判官だったら、こんな年齢も連行時の状況もむちゃくちゃな証言を採用するでしょうか?
元慰安婦の証言は全てがこのような荒唐無稽なものです。
こんなめちゃくちゃな証言によって多くの日本人が今でも罪悪感に責められているのです。

日本軍によって強制連行された慰安婦など一人も存在しません。
しかるに現在の韓国の盧武鉉政権下の首相である韓明淑はこのような事を発言しています。
「日本のせいでアジアには多くの“めぐみさん”がいる」

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/08/05/20060805000019.html

横田めぐみさんとこんなデタラメな話を同列で論じられるだけでも横田さんのご両親に対してこれ以上ない失礼な事だと思います。

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日韓併合(2)

Asahis

さて1910年の併合以来朝鮮は日本の一地方でした。
併合についての善悪の問題は置いておいて、事実そういう行政がなされていました。
日本で国家総動員法が施行されたのは1938年
その第四条に定める強制徴用が始まったのは1939年でした。
しかしいわゆる「内地」と台湾についてはすぐにこれが行われましたが朝鮮半島には適用されていませんでした。
自由募集→官斡旋→強制徴用という段階を経てやっと1944年に朝鮮でも強制徴用が始まりました。

なぜ朝鮮では強制徴用を行わなかったのでしょうか?
答えは「必要がなかった」からです。
つまり強制的に行わなくとも労働力が集まったのです。

当時の朝鮮は自力での近代化が全くなされておらず、朝鮮の人民は働くたくとも働ける場所がありません。
同じ国に豊かな地方があればそちらへ出稼ぎに行くのは現代でも珍しいことではありません。
そんな事情から日本国内には朝鮮の人民の流入が続いていました。
あまりそれが甚だしいので朝鮮総督府は
『朝鮮総督府令第6号「労働者募集取締規則」(1918年1月29日)』
という政令を出して規制するほどでした。

昭和34年7月13日の朝日新聞の記事を紹介させていただきます。
朝日新聞はこういう報道を行ったその同じ口で
「強制連行の犠牲者に日本は謝罪と賠償を」とか言ってます。
素朴に、報道機関としての見識を疑ってしまいますね。

さて強制徴用が当時として非合法に行われた事ではない事がわかったのですが、現在でも
「日本軍は朝鮮人をトラックに乗せて拉致し、日本に連れて来た」
というような声をまだたくさん聞きます。

それに対して一言言いたい
「怪しげな証言はたくさんあるが、日本軍がそれを強制的に行ったという証拠はあるのか?」
証言の通りのようなことが行われていたとすれば日本軍にそれを示す証拠が残っていなければいけません。
というか、そこまでの証拠がなければ、当時の日本軍を犯罪者扱いしてはいけないのです。

全裸で佐世保駅前に一日立つ事を賭けてもいいですが、そういう証拠は一つも残っていません。
日本軍が非合法な犯罪を行っていたという証拠がある方はぜひ見せてください。
証拠がなければ、これを裁判だとすると無罪です。
強制連行について日本は朝鮮に謝罪する事は何一つしておりません。

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日韓併合(1)

「日本は朝鮮半島に残虐な植民地支配をしたんだ」
と思ってる方多いんじゃないでしょうか?
私も以前はそう思っていました。

よくやり玉に挙がってるのは
・強制連行(徴兵)
・創氏改名
・従軍慰安婦

あたりが多いようです。
ひとつひとつ私が集めた証拠を挙げていきましょう。
今日は強制連行について

当時朝鮮に住んでいた人達は
「日本軍の命令によって生活基盤のある住み慣れた朝鮮を離れて無理矢理日本に連行され、鉱山などの辛い労働に従事させられた」
と思っている人、いませんか?
結論を先に言ってしまうと
「ほとんどの人は自主的に日本に来て、終戦後も自主的に残っている」
のです。

国家総動員法による強制徴用が始まったのは日本国内では1939年です。
その時、朝鮮半島ではまだ徴用は始まっていませんでした。
朝鮮においてそれが実行されるのは終戦の一年前である1944年11月です。
ここで
「何かおかしいな?」
と思いませんか?

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