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2006年9月18日 (月)

廬溝橋事件(4)

9月17日朝のテレビで安部晋三さんが、廬溝橋事件について話されていました。
「当時の日本軍の進駐は合法的なものであった」と述べられるのに留まっていましたが、謎の発砲のこともさぞ言いたかっただろうなあ。。。と思いながら見ていました。

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さて廬溝橋事件の後、ロシアの脅威を考えていた日本は不拡大方針を取りました。
冷静な戦力分析をすれば当然の選択だと思います。

事件後の状況を抜粋してみましょう。

7月7日
22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。
事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。

7月8日
(現地)
4時00分:日中合同調査団が北京を出発。
5時00分:中国側と交渉を開始。

4時20分:再度の銃撃を受ける。
5時30分:日本軍と国民党軍、全面衝突。
7時30頃:小康状態。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。
(東京)
早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。拡大派、不拡大派のせめぎあいが続く。
18時42分:不拡大を指示する総長電が発せられる。

7月9日
<現地>
2時00分頃:「日本軍は川の東岸へ、中国軍は西岸」という停戦協議が成立。
<東京>

「中国軍の盧溝橋付近からの撤退」
「将来の保障」「直接責任者の処罰」
「中国側の謝罪」
以上の内容を対支折衝の方針とするよう通達する電文が、次長名をもって現地に発せられる。

7月10日
<現地>
前日の次長電の要求国民党側に提出。
<東京>
参謀本部が「支那駐屯軍の自衛」「居留民保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。参謀本部内にも異論はあったが派兵が決定される。

7月11日
<現地>
20時00分:「責任者の処分」「中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする現地停戦協定が成立した(松井-秦徳純協定)。
<東京>
11時30分:五相会議にて、陸相の、「威力の顕示」による「中国側の謝罪及保障確保」を理由とした内地三個師団派兵等の提案が合意された。
14時00分:臨時閣議にて、北支派兵が承認された。
16時20分:近衛首相は葉山御用邸に伺侯、北支派兵に関し上奏御裁可を仰いだ。
18時24分:「北支派兵に関する政府声明」により、北支派兵を発表。
21時00分:近衛首相は政財界有力者、新聞・通信関係者代表らを首相官邸に集め、国内世論統一のため協力を要請。以降、有力紙の論調は、「強硬論」が主流となる。
本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであった。しかし、現地情勢を無視した政府の派兵決定は、拡大派を勢いづかせ、また中国側の反発を招くことにより、以降の事件拡大の大きな要因となった。

7月19日
蒋介石はいわゆる「最後の関頭」演説を公表して、中国の抗戦の覚悟を公式に明らかにした。
以下要約
「満州を失ってすでに6年、いまや衝突地点は北京の盧溝橋に達している。我々はもとより弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。最後の関頭に至ったならば、あらゆる犠牲を払っても、徹底抗戦する」

7月25日
郎坊事件

7月26日
広安門事件
7月29日
通州事件
ついに北支における日中の全面衝突が始まることになる。

日本軍内にも「一撃論」という対中国過激派の存在がありました。
国民党内にも穏健派と過激派がいました。
単純に「日本が侵略を意図を持って中国を攻撃した」
と言いきれるような問題ではないことは確実だと思います。
私個人の感想としては、調べれば調べるほど中共に得になるような情勢になっているように感じています。

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