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2006年9月25日 (月)

河野談話分析(2) 初期経過

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慰安婦問題についての簡単な経緯は過去エントリーにありますが、今回はでき得る限り詳細にやっていきます。
単に事実を述べるに留まらず、何故証拠の見つからない強制連行を日本政府は認めてしまったのかを探っていきたいと思います。

・1973年 千田夏光が「従軍慰安婦 正編」(三一書房)を出版
関東軍元参謀が「慰安婦を何千人も強制連行した」と語ったと書中で述べる。
後に著者と元参謀との面接事実はないことが発覚。現在ではこの本の信憑性はほぼないと言われている。
戦中になかった「従軍慰安婦」という単語は千田夏光が作ったとされる。

・1977年 吉田清治が「朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)を出版
下関にて朝鮮人狩り、慰安婦狩りを行ったと述べる。

・1982年 高木健一弁護士が関わっていた第一次樺太朝鮮人裁判で吉田清治が証言を行う。
朝鮮人奴隷狩りを告白。

・1983年 吉田清治が二作目「私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行」([三一書房)を出版
済州島で慰安婦をトラックで拉致して回ったと述べる。

・1989年 吉田清治の二作目が韓国で出版。
朝日ジャーナルに「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式謝罪せよ」と言う内容の広告が計15回に渡って掲載される。
広告主は「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を!100人委員会」なる団体で、京都出身の宋斗会が中心になっているものであった。

・1989年11月 宋斗会に私淑する大分県の主婦青柳敦子が渡韓し、日本政府に対して訴訟を行う原告探しをする。
原告は見つからなかったものの「太平洋戦争犠牲者遺族会」の目に留まる。

・1990年3月 遺族会の招きによって再度渡韓した青柳氏、裁判に関わる金銭を日本側が負担することを条件として原告を募集する。 遺族会から22人の原告が集まる。
10月29日 22人の原告団が日本政府を相手取って、公式謝罪と賠償を求める裁判を東京地裁に提訴。(第一次提訴)
この時にソウルの日本大使館に向かって行ったデモ行進が現在も続く水曜デモの原型とされる。
11月頃 原告団は青柳氏と距離を置くようになり、高木健一弁護士らのグループと接触を始める。

・1991年 朝日新聞、吉田証言を元にして慰安婦キャンペーンの記事を四回に渡って掲載。
8月11日 「思い出すと今も涙」と題して金学順さんの慰安婦体験を社会面トップで報道。
金さん本人は「親に売られて慰安婦になった」と証言を行ったものの、朝日植村記者はなぜかその部分を報道せず、日本軍の関与を疑わせる記事を書く。
12月6日 高木弁護士を主任弁護士とした35人の原告団「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求」の提訴を東京地裁に行う。(第二次提訴)
金学順さんら元慰安婦三人が原告団に加わる。


一貫して日本人が事を進めていたことがわかります。
彼等が公正に事実を調べてそれを伝えていこうとしていたのであるなら日本人として賞賛すべきことですが果たしてそうでしょうか?

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